三月二十一日 2

「それにしても、スキューバダイビングじゃなくてシュノーケリングを勧めるのどうしてだ?」


 夜須の疑問に店長が答える。


「ああ、それはですね。まずは機材が重たいので浅瀬には向いてないのと、シュノーケリングならその時間帯であれば身軽に観光できるからです。ちなみにですね、どのくらい浅瀬になるかというと、満潮時に2メートル近くある水深が、干潮時には水深五センチまで潮が引くんですよ。そうすると、洞窟内まで入っていけるんです」

「それは極端だな……」

「洞窟内はそれほど高さがあるわけじゃないんですよ。満潮時に入り口が水没したら洞窟内も同じように水没してしまうんです。狭い鍾乳洞への穴しかないんですよ。こうね」


 と、店長が肘を突き出し腕で這うような真似をした。


「這うしかない」

「それじゃあ、満潮になったら溺れてしまうな」


 思っていた以上に水没してしまうようだ。シジキチョウの幼体は潮水に晒されて無事とは思えない。やはり、鍾乳洞に生育場所があるのか。


「でも、こんな海と鍾乳洞が貫通している洞窟は、珍しいんですよ。ここと、石垣島の伊原間サビチ洞しかないんです。一見の価値ありですよ」

「それじゃあ、シジキチョウも鍾乳洞にいるのか?」


 店長が驚いたように眉を上げ、横に座る父親と目を合わせる。


「シジキチョウがどこにいるかとか、そういうのは誰も確かめたことがないですね」


 志々岐島の象徴のようなシジキチョウに、なぜか興味がないようだ。


「新種の蝶かも知れないのに、興味ないのか? 外部から研究者が来ただろう」


 シジキチョウは非常に貴重な蝶かも知れない。それなのに、誰も確認して捕まえようとしてこなかったのが不思議でならない。


「まだ、誰もその生態を知らないってことなんだな」

「そうなりますねぇ。死体に群がるってことしか知らないし、第一普通に生活してて、水死体に遭遇する可能性って低いですからね」


 ならば、これはチャンスだ。自分が第一発見者になって捕まえてやる、と夜須は意気込んだ。


「洞窟の蛭子神はひるこさんの神なんだろう? やっぱり特別な行事とかあるのか?」

「蛭子神はひるこさんの神じゃないよ。あの祠の神は女神さんだ」


 父親が呟いた。


「水没してしまう祠をどうやって祀ってるんだ?」

「特にはねぇ……」

「女神さんはめったに触れたらいけない。そっとしておくほうがいい」


 父親は言うだけ言って立ち上がると、店の奥に引っ込んだ。


「うちの親父、信じてないって言って、結構信心深いんですよねー」


 志々岐島には、実は結構タブーがあるのかもしれない、と感じる。


 時計の針が九時を指そうとしていたので、無駄話をやめて、夜須は店を出た。





 港の前に並ぶ店の一軒が民宿かんべだった。二階建ての小さな民宿だ。


 一階は食堂になっているようだ。夜須は民宿の引き戸を開けて、中に入っていった。


 朝の時間だったが、客はそれなりに入っており、おそらく夜釣りから帰ってきた連中なのだろう。


 店内で、おかみさんらしき中年女性がせわしく動き回っている。夜須を認めると、大きな声で、「いらっしゃい、好きなところに座って」と声をかけてきた。


「あの、電話した夜須ですが」


 間髪入れず、おかみさんがこっちに来いというふうに手招いた。そばに寄っていくと、「民宿の方に上がってちょうだい。おばあちゃんが従業員部屋で待っちゅーき」と言われた。


 案内もなく、夜須が土間で靴を脱いで上がり込む。背後からおかみさんの声が、「やっちゃーん! おばあちゃんにお客様!」と呼ぶのを聞いた。


「はいはい」


 おかみさんと同じくらいの女性が階段を下りてくる。


「こっちこっち。おばあちゃん、階段下の部屋におるき」


 そう言って、二階に上がる階段の下方を指さした。見てみると、確かにふすまがある。夜須は掃除されて埃一つない廊下を渡って、ふすまに手をかけて、ひと声かけるとガタガタとふすまを軋ませた。重たいふすまを全開にすると、ちゃぶ台の前に背の曲がった小さな老婆が一人でお茶を飲んでいた。


「おはようございます」


 夜須の声に老婆は頭を下げる。


「どうもどうも。おはようさま。よう来られた」


 部屋には鴨居に何着か上着が掛けられて、棚と小さな冷蔵庫が置かれている。だいたい六畳ほどの部屋だ。茶色く照るちゃぶ台は年季が入っている。ざぶとんが部屋の隅に無造作に重ねて置いてあった。ちゃぶ台の前にざぶとんは置かれていなかったので、一枚取ってちゃぶ台の前に置き、その上に座り込んだ。


「今日はお時間いただいてありがとうございます……」


 夜須は軽く会釈して礼を言った。


 老婆が台の上にあるポットを、夜須へと手で押しやる。おそらく勝手に入れて茶を飲めと言うことなのだろう。それに、誰も部屋に来ないところを見ると、二人だけで話を聞けと言うことなのか。


 老婆は茶を飲みながらちゃっちゃっと舌を鳴らし、口の中をもごもごと動かしている。


「何の話を聞きに来たがか? うちの昔話を聞きたいやらぁて珍しいことや」

「はい、神主さんから教えていただきまして」

「あー……、それでどんな話を聞きたいか?」


 夜須はメモしておいた手帳を取り出して、上から順に訊ねた。


「シジキチョウに関する昔話があれば聞きたいです」

「あー、シジキチョウやか。あれはひるこさんに群がって肉をすする蝶ぜよ。昔話言うても、鯨の腹の中から現れた女を祀ったら出てきた蝶やき。おかげさまで島は飢えんようなったけど」

「いつの話ですか」

「さてねぇ、こじゃんとずいぶん昔のことぜよ。女を女神として祀らざったら、酷い目に遭うちょったかも知れんし、祠を作って良かった」

「シジキチョウはやっぱり碧の洞窟にしかいないんですか?」


 老婆が首を振った。


「シジキチョウは曾祖父ひいじいさんが穴を塞がざったら、神部山にも出たろうね」

「穴?」

「鍾乳洞に繋がっちゅー穴や。曾祖父さんが、良うないものがやってくるき不吉や言うて穴を塞いでしもうたき、神部山には出んなった」


 老婆は間延びした声で、思い出しながら話しているようだ。時々黙ってしまうので苛ついてしまう。


「良くないものって何ですか」

「さぁ、なんやったかなぁ。やけんどなぁ、胴塚は曾祖父さんが御先様の祟りを収めよう思うて、新しゅうしたんちや」


 なんだか怪しげな記憶だが、相当な長寿の老婆であるのが分かるだけに、ぼけていても仕方ないのかもしれない。しかも、これだけ年を取っていても、シジキチョウの昔話は聞いたことがないようだ。


「志々岐島の和田津はまっこと昔から志々岐島に住んじゅー。源平合戦で落ち延びた平家がこの島に居着いて子供を残いたき、和田津の人間はみんな、平家の血を継いじゅーんや」


 夜須はそれを聞いて内心うんざりした。交野と同じことを言っている。交野に至っては自分の家系こそが平家の子孫だと言っている始末だ。

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