三月二十日 3

「これはね、宗順という絵仏師がてふという女性を描いたものなんちや。ほら、ここに宗順の筆名と落款が押されちゅー」


 住職が掛け軸の絵の下方に記された名前を指す。


「てふの名は? 文献か何かに書いてあったんですか」


 夜須は何故、絵のモデルの名前が分かったのかと疑問を投げかけた。


「掛け軸の裏ちや。そこに頼盛むすめてふと書かれてあったんや。頼盛言うたら、平家の一族で生き残った一人や。その娘にてふという女性がおったがじゃろうな。その女性がどうやってか志々岐島に流れ着いて、宗順の手によって九相図のモデルになったわけや」

「それだと、てふは実際に死んだのでは? 流れ着いたかどうかは分からんが」

「それがな、この仏画の作成年がな、寿永二年と書かれちゅーんだ。寿永二年というと、ちょうど養和の飢饉に当てはまる。おまさん、寿永二年に鯨が流れ着いた話を聞いたかね。あれは、てふが平家の落人と一緒に志々岐島に流れ着いたという隠語やないかね、わしはそう思うがよ」


 確かに筆名を記した横に寿永二年と年号が書かれている。


「この仏画は、当時の住職がわざわざ依頼したものらしいんだ。宗順言うたら、有名な頼源という絵仏師の弟子らしい」


 住職の言うとおりならば、てふは養和の飢饉で死んだ娘であると推し量れた。当時の住職は、飢饉での命の儚さを嘆き、かつ命と仏のありがたみを九相図にして描かせたのかも知れない。


 しかし、夜須が知りたいのは絵に描かれた赤い蝶のことだ。


「この蝶はシジキチョウですか?」


 住職が目を細める。


「そうや。大浦では見たことはないが、碧の洞窟に仏さんが流れ着いたとき、シジキチョウが現れるという話や」

「では、しょっちゅう現れる蝶ではないと? でも、死体が上がったときにだけ?」


 住職がほほえみながら、仏画の中の蝶を眺める。


「縁起が悪い思われちゅーかも知れんが、その通りちや。大浦の島民はシジキチョウのことを屍喰い蝶と呼んで気味悪い虫思うちゅーが、和田津では海の女神の化身だとか、神様の使いだと伝わっちゅーそうや」


 遊覧船のガイドもそんなことを言っていた。そうですねと、夜須は頷いた。


「こうして見ると、きれいな蝶なんやけんど、仏さんに群がって喰う習性があるがやろう? やき仏さんが出ん限り見ることも出来ん」

「住職は見たことがないんですか。やはり、碧の洞窟に行かないと見られないんですか」


 夜須は住職に向かって身を乗り出して訊ねた。


 食い気味の夜須に住職は目を丸くする。


「いや、わしは見たことがない。毎年見ることは出来るが、嬉しいことに仏さんがあちこちで見つかるわけじゃないき。これだけは言えるが、大浦で水死体が上がることがあってもシジキチョウは現れんぜよ」

「本当に碧の洞窟以外では見られない?」


 シジキチョウを見たかったら、碧の洞窟に行くしかない。他でも見ることが出来るなら、それも確認したかった。


「見られんね。必ず言いたいところだが、去年は長いこと碧の洞窟周辺をシジキチョウが飛びゆーのをたくさんの人が見ゆー。まっこと美しかったらしゅうてな、観光客が結構訪れたらしいぞ。かく言う、わしも見に行ったけんど、げにきれいやったな。やけんど、そのときに限って洞窟の中に水死体は上がらざったそうや」

「死体がないと現れないのでは?」

「確かになぁ。あの蝶のことはいろんな学者さんが調査に来たけんど、生息地もなんちゃあ分からざったそうや」


 そのくらい珍しい正体不明のシジキチョウが何百年も大昔の九相図に描かれている。不思議な話だ。


「いつくらいの時期に現れるかご存じですか」


 仏画から目を離して、住職が言う。


「三月二十三日かな。二十二日の次の日に言い伝え通り、仏さんが上がる。おそらく、二十二日に事故に遭うかして。和田津集落では二十二日は特別な風習の日やき、それが関係しちゅーのか……」

「御先様に海に牽かれるって、あれですか。御先様の言い伝えは大浦でもあるんですか? 同じように外に出ないとか」


 住職が声を上げて笑った。


「いやいや、大浦にそがな風習はないぜよ。シジキチョウにしても御先様にしても和田津集落だけの話や」

「じゃあ、七人ミサキという怨霊のように、犠牲者が行列に加わると先頭の怨霊が成仏するといった伝承はないんですか?」

「七人ミサキというがは分からんが、違うんやないか? 和田津では祟り殺す怨霊や言うが、成仏するとか列に加わるという言い伝えは聞いたことがないな。大浦で信じちゅー人はおらんのやないか。和田津だけの迷信ちや。だが、もっと詳しゅう知りたいなら、和田津の志々岐ししき神社の神主に聞いたらええ」


 結局、シジキチョウのことは和田津の島民に聞くしかないのか、同じ島に暮らしているのにこんなにも風習が違うのかと、夜須は思った。


「そうそう」


 住職が何かを思い出したようだ。


「九相図を描いた宗純の絵が志々岐神社にもあるぜよ。しかもな、絵仏師ながに人間の生首を描いた掛け軸なんや。人の死ばっかり描いた宗純は変わった絵仏師やったんやろうな」


 シジキチョウのことをこれ以上聞けないのなら、住職の言う神主に聞きに行ったほうが建設的だと判断して、夜須はそろそろお暇しますと、住職に告げた。


 住職から志々岐神社の電話番号を教えてもらい、礼を言って淨願寺を後にした。


「一年前にシジキチョウが碧の洞窟以外にも出たんだな。死体がないと出ないんじゃなかったのか?」

「何が原因か誰にも分からなかったんだ。ぼくも見たけんど、まっこときれいやったよ」


 二人は大浦の港から和田津に向かって県道に入った。

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