三月二十日 2

 交野が携帯電話を持っていなかったので、夜須が大浦の淨願寺に電話を入れて、シジキチョウが描かれているという掛け軸を見せてもらう約束を取り付けてもらった。和田津港の左の道を行くと、舗装された県道になっているが、軽自動車が離合するのも難しそうな細い道であるのは変わらない。歩道もないので、大浦に行くのにガードレール側に沿って歩いた。


 交野とふたりで、のんびりと海を眺めながら歩を進める。船からはこの県道は見えなかった。まばらな松の木がちょうど良く道を隠していたせいだろう。


「大浦に行く道はこれだけなのか?」


 島の片側だけにしか道がないのは不便すぎると思い、夜須は訊ねた。


「いいや、島の外周に沿うて道はあるけんど、県道はこの道だけちや。反対側の道は遊歩道になっちょって自転車と人しか通れん。レンタルサイクルがあるき、大浦で借って和田津に戻って来てもええ。この道だと大浦まで歩いて十五分かかるき」

「じゃあ、最初からそうすればよかったな」


 夜須の文句に交野が謝る。


「ごめんごめん。やけんど、自転車だとこの景色を見逃すかも知れんやろう?」


 夜須は松林を透かして水平線を見渡す。さっき巡った奇岩がちらほらと見える。ここから眺めていると、大きいと思っていた岩もそれほど大きいわけではなかった。


 景色は先ほどの遊覧船のほうがいい眺めだったと漏らす。気にもしていないのか、交野が道の先にある断崖を指さした。


「ほら、あそこが碧の洞窟や。あの上に胴塚があるき行ってみんか」

「でもシジキチョウは洞窟の中で生息してるんだろう?」

「胴塚の辺りでも見られたことがあったんちや。確かめてみろうやないか」


 夜須は交野に押し切られて岩場に作られた石段を、ステンレスの手すりを伝って登っていった。二分ほど行った先に頂上があり、胴塚は岩場の突端に据えられていた。板でできた道を渡ってそこまで行こうとすると、交野が気をつけてと声をかけた。


「導線以外を踏んだら落ちるかもしれんよ」

「何だって?」

導線の外には穴が開いちゅーんじゃ。落ちたら死んでしまう」

「そんなに危ないのか」


 安全性に問題がある場所が観光名所になっているのも不思議な話だ。


「穴が開いちゅー場所には立て札があるき」


 見れば、遊覧船のガイドが鯨塚と呼んでいた胴塚の周囲に、白地に赤い文字で足下注意という看板が立っていた。夜須が行く先にも左右にふたつほど注意書きがある。


「絶景ポイントなんや」


 そう言って、いつの間にか隣に立った交野が水平線を指さした。


 見渡す限り空と海が広がり、それらのあわいは色が混ざり合っていてほとんど区別が付かない。遠方に白い波頭を立てて黒く小さな漁船の影が走っている。


「このずっと先に宮崎県があるがぜよ」


 夜須は指さされた方向を目をすがめて見たが、霞がかった水平線の彼方を見通すことは叶わなかった。


 夜須は身をかがめて、胴塚の四角い側面を見回す。古めかしい灰色の石で作られた小さな塚だ。正面には揚羽紋が刻んであるが、摩耗して分かりづらい。夜須は塚から視線を上げて周りを見回したが、岩場に根を張る低木しかなく、シジキチョウに関係ありそうなものなど一つもなかった。


「何もないじゃないか」


 不服そうな夜須をなだめるように交野が一帯を指さした。


「シジキチョウがこの穴から飛んで外に出ることもあるがよ。不謹慎やけんど、死体に群れる習性があるき、今はおらんけどね」


 夜須はその言葉を聞いて、ニヤニヤと笑う。


「じゃあ、この穴におまえ落ちてみたら、シジキチョウが出るんじゃないか」


 その言葉を受けて、交野が無表情に夜須を見返す。


「そうしたら君は満足なのか?」

「冗談だよ」


 夜須は交野の冷たい顔を見て慌てて否定したが、表情があまりに硬く凍り付いて見えたので、反対に聞き返した。


「おまえのほうが、よっぽど俺を穴に落としたいんじゃないか?」

「なぜ?」


 真剣な表情で反対に問いかけられて、夜須は何も言えず、交野の横をすり抜けて遊歩道の階段を下りていった。


 県道に下りてから大浦まで、ふたりは黙々と歩を進めた。




 大浦に着いてからは、交野が道案内するために先頭を歩いた。他の家屋にない佇まいのおかげで淨願寺はすぐに分かった。寺の背後の斜面に、ぽつりぽつりと墓が点在している。島民が眠る墓は全部ここにあるのだろうか。和田津で墓など一つも見かけなかった。


 まるで考えが読めたかのように、交野が呟く。


「和田津の墓は山の中にあるがぜよ」


 ふーんと、夜須は生返事をする。


「それで、あの寺にシジキチョウの絵があるんだって?」

「仏画なんやけんど、確かに赤い蝶が描かれちゅーぜよ」


 淨願寺の門をくぐり、本堂に隣接する庫裏くりに向かった。呼び鈴を鳴らすと、古めかしいチャイム音が響き、軽い足音が近づいてきた。カラカラと引き戸が開かれて中から初老の女性が顔を出す。


坊守ぼうもりさん、住職に九相図くそうずを見してもらいに来ました」


 交野が言うと、坊守と呼ばれた住職の奥さんが頷く。


「上がっとーせ」


 夜須と交野は言われるまま、出されたスリッパを履いて、庫裏から本堂へ続く廊下を抜け、小さな本堂に通された。本尊の前に二つほど暖房器具が置かれていて、夜須達がくるのを待っていたようだ。


 ざぶとんに座して待っていると、ドスドスと大きな足音とともに短く髪を刈った、住職が両手に巻いた掛け軸を持って本堂に入ってきた。掛け軸は全部で九幅。


「お待たせしましたなぁ。いやぁ、九相図を見たいちょいう方はなかなか珍しい」


 住職はいったん畳の上に掛け軸を置き、本堂の奥に設えた納戸から、掛け軸がかけられる衣桁いこうのような衝立を出してきた。


 九幅の掛け軸をその衣桁にかけて並べる。所々経年のせいか、しわが寄っているが、立派な掛け軸だ。


 緻密な筆致で描かれた仏画は九相図という、命や美が如何に儚く移ろいやすいものであるかを描いたものだ。概ね美しい女人がモデルになる。この九相図も例外ではなかったが、明確に違うと言える点がある。女人が死んでしまった後の絵には、全て赤い蝶が舞い飛ぶ姿が描かれているのだ。


 その鮮やかな赤い蝶はまるで女人の化身のようでもあり、肉を脱ぎ捨てた魂のようでもあった。


 夜須は仏画には詳しくなかったが、その絵が如何に腕の立つ絵師による作なのかは手に取るように分かった。

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