三月二十日

三月二十日 1

 翌朝、九時過ぎに出港する観光遊覧船に乗るために、夜須と交野は連れだって和田津港へ向かって石段を下りていった。


 昨夜は日が暮れてから石段を登ったので、和田津集落の景色はほぼ見えなかった。


 日の光の下、どこか懐かしさを感じる家々と、たくさんの踏み締められた跡の残る石段と、積み上げられて形成された石垣が、素朴な集落を形作っている。斜面を開拓して作った畑と、急峻な地形に寄り添うように建てられた家々が、ぽつりぽつりと点在し、その家々を繋ぐ道が全て石段でできている。こうして下から見上げると、朝日を浴びる集落が日の元に晒され、陰になるところもない。その家々よりずっと上の方に惣領屋敷があり、その真後ろにはこんもりと木が茂っていて、神部山と呼ばれる志々岐島唯一の山がそびえている。


 港に降り立つと、交野はまっすぐ券売所に向かった。すでに港には人がまばらに集っていて、今から遊覧船に乗る列ができている。碧の洞窟と呼ばれる観光名所もあり、観光客の大半がこの洞窟を見るために遊びに来る。


 他にもチャーター船に乗って釣りに出る装いの観光客もいる。磯場や岩場が多い和田津は、こうしてダイビングを中心に楽しむ観光客で賑わう。気候が暖かいためダイビングにも適していて、マリンスポーツを楽しむ人々も少なくない。


 それ以上に、磯釣りや沖釣りを目当ての客も多く、一年中釣り客で賑わっている。


 島の総人口よりも観光客のほうが多いくらいだ。


 夜須と交野はそれぞれ乗船券を購入し、観光遊覧船の導線の列に加わった。


 別に夜須は進んで観光船に乗りたかったわけではなかった。昨夜、シジキチョウと関係がある碧の洞窟が見られること、遊覧船のガイドから島の言い伝えや伝承が聞けることを教えてもらい、交野の強い誘いに半ば応じたというわけだ。


 子供も混じる列に並び、周囲のうるささに辟易した顔つきでいると、交野が話しかけてきた。


「子供が喜びそうな観光ではあるけんど、内容は意外に充実しちゅーき」

「そうだといいがな」


 交野は言い返すこともなく黙ってしまい、空ろな目つきで海を眺めている。夜須も釣られて海に目を向けた。


 やがて列が動き始め、券をもぎってもらった後、船に乗り込んだ。足場の外された船からエンジン音が聞こえ始める。ゆっくりと遊覧船は港から離れて、志々岐島の外周を巡り始めた。


 出港してからしばらく経って、船内スピーカーから、ガイドのアナウンスが聞こえた。


『本日は志々岐島観光遊覧船にご乗船いただき、誠にありがとうございます』


 前口上が少し続き、ガイドは船窓の右や左と説明を加えながら、眺める景色の案内を始めた。


 港から離れると、やや岩場が続き、そのうちに人が住めそうにない断崖絶壁が右手に見えてくる。所々に松が生え、岩にしがみつくように根と枝を伸ばしている。


 断崖絶壁が途切れたとき、ガイドが『みなさま、右手に見えますのが碧の洞窟でございます』と案内した。


 岩場を越えて広がるのは空の青とも違う、緑がかった鮮やかな青色の海面に映る、断崖に穿たれた洞窟だった。洞窟の入り口はほぼ沈んでいたが、数隻のカヌーが海面に浮かんで碧の洞窟を近くから見物している。


 遊覧船がスピードを落とした。ガイドの声が聞こえる。


『碧の洞窟は……岩肌が高波に削られて出来た堆積岩よりなる断崖絶壁です。海側が削られて神部山の地下にある鍾乳洞に貫通した珍しい貫通型鍾乳洞となります』


 ガイドは淡々と続ける。


『今から約八百四十年前、平安時代に日本を大きな飢饉が襲いました。志々岐島も例外なく、島民は飢えに苦しめられましたが、この洞窟に鯨が流れ着いたため、島民は生き延びることができました。その鯨塚が洞窟の真上に建てられています』


 機械的に説明される内容を、夜須は洞窟を眺めながら聞いていた。


『碧の洞窟の言い伝えで最も古いものが、碧の洞窟に空ろ舟が流れ着き、その中から美しい女性が現れたというものです。やがて女性は赤い蝶に変化して、洞窟に留まりました。島民は女性を海の女神として祠を作り、祀ったと言われています』


 すると、遊覧船が動き始めて、大浦港の前を過ぎ、島周辺の奇岩の周囲を巡り、碧の洞窟の反対側に向かった。


『志々岐島には平家のご落胤が流刑されたという伝説があります。元々宿毛市の幡多に流刑されたのですが、さらに南にある志々岐島に移されました。それが由縁で和田津集落は平家の血を引く集落だと言われています』


 夜須は軽く鼻で笑って、聞き流した。


『この島で起こった哀しいお話があります。平家のご落胤らくいんはこの島に流刑された後、島の娘と結婚しました。しかし、源氏が平家のご落胤の首級を差し出せば、食べ物を島民に報酬として与えると約束しました。そのため、島民はご落胤とその家来二人を騙して、首をねて源氏に渡したのです。それを知った娘は嘆き悲しみ自死しました。怨霊となった娘を先頭にご落胤とその家来は今でも志々岐島を練り歩いていると言われています』


 交野はそんな夜須の様子に気付かないのか、ジッと窓の外を眺めている。夜須も外を眺めたとき、おもむろに交野が口を開いた。


「シジキチョウ……」


 ようやくシジキチョウのことについて話が聞けるのかと、夜須は交野を見た。黙っている交野に夜須はしびれを切らす。


「まさか、これをシジキチョウの情報か何かだというのか? 碧の洞窟についても情報らしい情報もなかったじゃないか」

「シジキチョウが描かれた掛け軸が、大浦の寺にあるんやけんど、観に行こうか」

「本当にシジキチョウなのか?」


 疑い深く夜須は訊ねた。


「シジキチョウとは書かれちょらんけんど、まっこと昔の絵や言われちゅーき……。一見する価値はあるんやないかな」


 夜須はため息をつきながら、「期待を裏切るなよ」と呟いた。


 窓の外を眺める交野の口元が笑む。


「大丈夫ちや。期待外れやない思うき」


 まもなく和田津港に遊覧船は着港した。夜須と交野はぞろぞろと船から出る観光客に混じり、鉄製の足場を渡って下りていった。

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