屍食島

屍食島

 どこをどうやって逃げてきたのか、二人の従者に連れられてひたすら付いていくしかなかったので覚えておらぬ。


 いよいよ、源氏が蔓延る幡多より船に乗り日向国に落ち延びようと、漁村で小舟を手配した。


 飢饉で喰うや喰わずのまま、頼りない小舟で時化た海を木っ端のように漂い、とうとう漂着した先は名前も知らぬ島だった。


 岩礁に小舟が乗り上げて船底が壊れ、従者に手を取られ浅瀬を渡り、ようやく小さな漁村に辿り着いた。


 島民がガヤガヤとみすぼらしい小屋から出てきて、遠巻きに濡れそぼった自分たち三人を見ている。


 そのうち、島民の中で一番身なりの良い男が前に進み出た。


われおまえら、罪人か」


 従者が「我々は罪人ではない」と答えた。


「どこから来たのか」


 従者が自分たちの身分を伏せて、日向国を目指していると伝えたが、「無理だ」と断られた。


「遠いし、この島の船では保たん」


 絶望したわたしは、その言葉を聞いて泣くしかなかった。飢えて喉が渇いているにもかかわらず、涙は出るのだとさめざめとしながら思った。もうこれ以上先に進むことも帰ることも叶わぬ。何の為に落ち延びてきたのか。侍女たちも打衣うちぎや袴も失うてしまって、今は着の身着のまま。


「われら、困っちゅーなら船を譲っちゃってもええ」


 その代わり、と男がわたしを見て言った。


「その女をくれ」

「ひぃ」


 わたしは思わず悲鳴を上げて、従者の背中にしがみついた。


「それは無理じゃ」


 従者が断固としてわたしを引き渡すことを拒絶したので、男は諦めて、手のひらを出した。


「なら、金だ。金をくれ」


 金子ならば、まだ残っているだろう。道中、安全を確保するために金子は必要だったらしく、父上がたくさん持たせてくれた。


「金子ならば、早う渡しや」


 わたしが言うと渋々従者は腰から金子の入った袋を取り出して、男に手渡した。男は受け取ると袋を開けて中を覗き込み、隣にいる身なりの良い若者や周りの島民に見せびらかした。


「空き家があるき、船が直るまでいたらええ」


 小さな子達が集まってきて、わたしの打衣に触れてくる。こんな飢饉にもかかわらず、みんなふっくらとしていて、わたしと違い、食に困っている様子がなかった。


「食べ物と水はないのか」


 従者の言葉をあざ笑うような声を、男が発した。


「われらはばかか。自分たちでなんとかしろ」


 そう言って、物珍しげにわたしたちを見ていた人達はまた小屋の中に戻っていった。食べ物や水がなければわたしたちは死んでしまう。どこにも食べ物がなくて、わたしたちはどうしたらいいのか途方にくれた。


 従者と山道を登って、言われた場所に確かに空き家があった。家といいつつ、ただの掘っ立て小屋だ。


 こんな辛い思いをするくらいなら、母上と一緒に京にいたほうが良かった。でもこのまま都にいたら、どんな目に遭うか分からぬと言われて……。


 さめざめと泣き続けていたら、従者が水と食べ物を探してくるといって、小屋を出て行った。


 泣き疲れて伏せって寝ていると、従者が木の実と水を持って戻ってきた。


 どうも、洞窟の中に湧き水があったそうだ。木の実も山の奥に入ったところ、まだ手つかずの場所があったらしく、拾ってきたのだという。


 もう一人の従者は小舟を回収して、山で集めた木々で破損した場所をなんとかしているらしい。この島を出られるまで何日かかるか分からぬが、確かにあの粗野な男のいうとおり空き家があるだけましだったのかも知れぬ。


 とにかく上手く事が運ばないのは飢饉のせいなのだろう。京を落ちた最大の理由は飢饉で死ぬ者がたくさん出て、父上の荘園から送られてきていた食べ物が尽きてしもうたからだ。


 わたしにできることは、ただ打ち伏し、故郷に戻れぬ哀しみにくれることだった。


 そんなわたしを訪ねてきた人がいた。


 その人は自分のことを絵仏師だと名乗った。ありがたいことだ。この末法の世において、お釈迦様はわたしに救いをもたらしてくれるのか。


「あなた様にお話ししたいことがあります。わたしは絵仏師で、廻向寺えこうじに身を寄せる者です。和田津の正光寺のご住職に九相図の依頼を受けたのですが、どうしても着想を得ることができず困り果てていたところ、あなた様のことを教えていただきました」


 彼は元々京の者だったのだが、沖の島にある廻向寺の修復の為に滞在しているのだそうだ。わたしたちがこの島に漂着したとき、正光寺のご住職もいたらしい。わたしの姿を見て、これぞまさしくと思い、彼に伝えた。


 少しでも悟りの手助けになるのならば、いくらでも我が身を写し描いてもよろしいと伝えた。


 翌日から、絵仏師が迎えに来て、ともに元は志々岐神社と呼ばれていた正光寺に赴き、わたしの姿を紙に書き写したのだった。


 その間にも飢饉は酷くなり、水だけしか飲めぬ日が続いた。頬もこけ、痩せさらばえた姿はまるで髑髏のよう。手も足も枯れ枝のようになっていく。仏の教えを一身に唱えながら、わたしは九相図のように朽ちていくのだと思うようになっていた。


 横たわって、「南無阿弥陀仏」と唱えるわたしに、絵仏師が穏やかな声音で話しかけた。


「この島には屍喰い蝶という蝶がいるのです。わたしも何度も見ましたが、それは美しく恐ろしい蝶なのです。屍喰い蝶は他の蝶と違い、死体につきます。飢えて死んだ屍に群れて、死体を喰うのです」

「それではまるで鬼ではありませぬか……」

「まさしく、と言いたいところですが、この蝶はこの島に流れ着いた鯨がもたらした女神の使いなのだそうです」

「鯨?」


 初めて聞く言葉にわたしは興味を覚えて、絵仏師に聞き返した。


「大きな海の勇魚いさなです。とてつもなく大きな魚が、島の西にある碧の洞窟に流れ着いて、それでこの島は食べ物に困らず、ああして鯨をもたらした女神の恩恵にあずかっているのです。蝶も鯨が流れ着いた頃から現れたと聞きます」


 そうして、わたしたちは正光寺のご住職を通じて食べ物をわけてもらい、飢えから解放された。


 海の女神は碧の洞窟と呼ばれる穴の奥に御座おわすそうだ。とても美しい女神だが、とても恐ろしい女神でもある。誰も洞窟の近くには行かない。海に呼ばれてしまうからだと聞いた。


 とても恐ろしい女神なのだ。

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