第一章 縁切り神社の怪異⑫

「え……あ、あれ?」

 おかしい。さっきまですぐ後ろでごにょごにょと人の話し声がしていたのに、あれは一体誰の声だったのだろうか。

 そういえばやけに耳に近く聞こえたような気もする。

 いつもは人の列ができている縁切り縁結び碑のところまで行ってみるが、やはり人一人、猫一匹いない。

 お守りなどを授与する社務所に明かりはついているものの、そこにも巫女みこさんの姿はなかった。夕暮れ迫る薄闇の中で、社務所の光だけがこうこうとあたりを照らしている。

 こんなことってあるだろうか。

 今この境内にいるのは亜寿沙と阿久津の二人だけになっていた。

 夕日に染まる真っ赤な境内。そこに閉じ込められてしまったような、そんな不安な気持ちが心に押し寄せてくる。

 なんだろう。ここにいちゃいけない気がする。はやく帰らないと、ここじゃないどこかへはやく。

 そう思うのに、立ちすくんだままどこへ行って良いのかもわからない。

 今来た道を戻ればいいだけなのに、なぜかそっちへ足が向かない。

 ただ胸の奥から不安な気持ちだけが、墨汁のシミが広がっていくように心の中を覆い尽くしていく。

「あまり動き回らない方がいい。いまここは、普通の状態じゃない」

 後ろから阿久津が歩いてくるのが足音でわかった。

「普通じゃないって、どういうことですか?」

 いつの間にかのどがカラカラになっていた。ごくりとツバを飲み込んでから、ようやくかすれた声でそう尋ねる。

「いつも見てる景色の中にいるようで、全然違う場所にいるってことだ。霊的に切り取られた空間の中に閉じ込められているともいえる」

 阿久津の説明はいまいちよくわからない。

 そのままポンと後ろから肩をたたかれた。

「ほら、見てごらん」

 彼が肩越しに指さしたのは、縁切り縁結び碑の方。

 たくさんの人の願いをこめた、たくさんの形代に覆われた白髪のような碑。

 その下の方に、形代を持って願いを込めながら行き来すると願いがかなうとされている穴がある。

「……!!」

 亜寿沙の視線は、その穴にくぎけになった。

 今一瞬、その穴の向こうを何かがゆっくりとよぎったのだ。

 ひらりと揺れた白い布のようなもの。

 アレは一体、なんだろう。

 いや、見てはいけない。あれは、見てはいけないものだ。

 本能がそう警鐘を鳴らす。心臓は早鐘のように五月蠅うるさいほどに打っていた。

 見てはいけない、そう思うのにその穴から目が離せない。

 それに、なぜだろう。

 いまは黄昏たそがれ時で辺りは赤い夕日に染まっているのに、その穴の向こうだけがなぜか暗いのだ。

 まるでそこだけ夜を切り取ったかのように暗闇に覆われている。

 その闇の中を、再び白い布のようなものがふわりとゆっくり横切るのが見えた。

 今度はそれが何かはっきりとわかった。

 あれは、誰かの足だ。

 それもへいあん時代の貴族が身につけていたような、すそのふっくらとしたさしぬきとよばれるはかまに黒いあさぐつという靴を召した姿で、誰かが穴の向こうをゆっくりと行ったり来たりしているようだ。

 だがおかしなことに、その人物の身体は見えない。

 縁切り縁結び碑は亜寿沙の目線より低い高さしかない。だから誰か後ろに居るならば碑ごしに頭がみえるはずなのに、視線を上げて碑の向こう側に目をやっても誰の姿もなかった。

 ただ穴の中だけから、誰かが行き来する足が見え、ざっざっと砂利を踏む足音が聞こえてくる。

「この事件は最初からおかしかったんだ。死後硬直がとっくに解けているはずなのに、形代を握りこんだまま固まった指。発火物がないのに燃え上がったゴミ収集車。まるでこの事件を解決させようとしている誰かの意志みたいなものを感じないか?」

 阿久津も同じ不可思議な光景を見ているはずなのに、彼の声には動揺した様子はじんもなかった。

「この神社にまつられている崇徳上皇は、日本三大おんりようの一人とも言われているんだ。戦に敗れ、罪人として讃岐に流されごうの死を遂げた彼のひつぎからは血があふれ出たといわれている。彼の死後、しらかわ上皇や藤原ただみちといった彼のきゆうてきたちの周りで次々と人が死ぬようになり、ついには大火事で平安京の三分の一が焼失する事態にまでなった。平安京の人々は、怨霊と化した崇徳上皇の呪いだと言って恐れおののいたそうだ」

 ふいにふわりと、鼻を甘く華やかな香りが掠めた。

 紫色の小さな花が連なって垂れ下がる情景が頭に浮かぶ。

 これは、藤の花の香りだ。

 そういえば、この神社はかつて藤寺と呼ばれていたということを思い出す。

 その藤をとても愛した人が居たことも。

 その人はきっと、とても情の深い人だったのだろう。

 想いの力の強い人だったのだろう。

 愛する力が強ければ強いほど、恨む力もまた強くなる。

「怨霊としてそこまで大暴れできるほどの力を持つ崇徳上皇がだ。自分のところに救いを求めて来た山際綾子を傷つけた犯人のことを許すと思うか?」

 阿久津の言葉に同意するかのように、穴の向こうで行き来していた袴の足がこちらをむいてゆっくりと止まった。

 次の瞬間、碑に貼られていた何百枚という形代が突然突風でも吹いたかのように一斉にバサバサと音を立ててはためき始める。

「な、なんなのっ!?」

 何百という鳥が一度に飛び立ったかのような騒がしさに、亜寿沙は両耳を手でふさいだ。それでも音は防げない。

 形代一枚一枚が怒りを持ったかのように、バサバサとはためく。

 バサバサバサ

 バサバサバサ

 ユルスマジ

 バサバサバサ

 ユルスマジ

 ユルスマジ

『許すまじ』

 はためきが、声のように聞こえる。

 願いを込めたのに。

 願いを聞き届けたのに。

 間に合わなかった。

 離せなかった。

 切れなかった。

 許してなるものか。

 逃がしてなるものか。

 何百という形代がそう叫んでいるように亜寿沙には聞こえた。

 思わず亜寿沙は叫び返す。

「そんなことわかってるわよ! 私もみんなも一刻も早く犯人を捕まえたいわよっ! でもそれができないから、もがいてんでしょ!! 怨霊だかなんだか知らないけど、言われるまでもないわ! 普通の人が突然理不尽に普通の生活を奪われていいはずがないじゃない!! だから、私たちがいるの!! 警察がいるの!! ここにいるの!! そんな理不尽、絶対許さないためにっ!!」

 声を振り絞った喉が痛い。いつの間にか耳を塞いでいた手は、胸でコブシをつくっていた。

 日頃は胸の奥に隠れている、警察官という仕事を選んだわけ。

 それが、こんなとき胸をついてあふれてくる。

 まだ形代はバサバサとはためいていたが、そこからヒラリと一枚の形代ががれて地面に落ちた。

 阿久津がその形代を拾い上げて亜寿沙に見せる。

 そこには、『鹿ざわホームズの彼と関係を切れますように じまはる』と書かれていた。

 これも縁切りを願った形代だ。

 顔を上げて再び碑を見るが、さっきまでのはためきが噓のように静かになっていた。亜寿沙は腰を曲げて碑の穴の向こうをのぞいてみるものの、もう袴の足も夜の景色もなくなっていた。いまはただ、夕焼けに照らされた穴の向こう側が見えているだけだ。

「ようやく元に戻ったみたいだな」

「え……あ……」

 いつの間にか境内にはちらほらと人の姿が戻り始めている。

 社務所の中には巫女みこさんの姿も見え、お守りを片付けはじめていた。

 すっかり元の境内の様子に戻っている。

 まるで白昼夢でも見ていたかのようだった。

「私は何を見ていたんでしょう……」

 思い返してみても、あり得ないことばかりだった。

 穴の向こうに見える足だけの人影。風もないのに激しくはためく形代。

 だが、阿久津の手の中にある形代が、あれは夢ではなかったことを示していた。

「言っただろ? 俺は怪異にあいやすいって。あれが崇徳上皇だったのか、本当のところはわからない。確かめるすべもない。でも」

 阿久津は形代を亜寿沙に差し出す。

「これは怪異からのメッセージだ。もしかすると、ここに犯人逮捕の重要な何かが隠れているかもしれない」

 あれだけ派手にはためいていたのだから、ノリが甘くつけられていた形代が落ちてしまっただけとも考えられる。

 しかし、先ほど自分の目で見てしまった現象が何だったのかを亜寿沙は理解できないでいた。

 疲れのあまり、阿久津と二人で集団幻覚を見てしまったとも考えられたが、たとえそうだったとしてもこの形代に書かれていることを調べてみたところで損をするということもないだろう。

 調べてみて、事件とは無関係だとわかればそれでも構わない。

 無視してしまうのは、気持ちが悪い。

「署に戻って調べてみますか」

「そうだな。早いほうがいいだろう」

 二人は急いで安井金比羅宮をあとにした。

 そして警察本部の自分のデスクへ戻ると、ノートパソコンで『木島晴美』なる人物を検索してみる。しかし、京都府警のデータベースでは該当する人物はヒットしなかった。

 念のために行方不明者届や被害届も調べてみたが、それも見当たらない。

 この人も山際綾子のように行方不明になっていたらどうしようと心配だったが、とりあえず行方不明者届が出ていないことに亜寿沙はほっと胸をなで下ろす。

「こうなってみるとあれだな。役所が持ってる情報にもあたってみるしかないな」

 後ろから阿久津がディスプレイをのぞき込みながらうなった。

 京都市役所はとっくに閉庁している時間なので、問い合わせることはできない。

 とりあえずもう遅いので本日の調査は終わりにして、翌日しきりなおすことにした。

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