第4章 逃走

 バキバキという音で目が覚めた。起き上がってすぐ背後を見ると、ローラーが俺とアレクサンドラの移動小屋を押しつぶしていた。

 一気に血の気が引いた。未曾有の恐怖に脳がたたき起こされ、すぐに逃げなければと思った。

「アレクサンドラ!起きろ、ローラーが来てる!」慌てながら精一杯叫んだ。彼女はゆっくりと目を覚まし「えぇ~、何かあったの」と眠そうに言う。

 再び振り返ると、二つの移動小屋がほぼローラーに潰されていた。おかしい。前に見た時より速い。

 このままでは潰されると判断した俺は、左わきに時計を抱えたままアレクサンドラの手を掴み、「走るぞ!」と叫んだ。

 彼女は「えっ?!」と戸惑いの声を上げるが、俺が「いいから走れ!死ぬぞ!」と言うと「わ、わかった」と返し、走り始めた。

 数分走ったところで立ち止まった。俺も彼女も息が切れていた。どれほど距離を取れたかと振り返ると、すぐ50mほど後ろにローラーがいた。回転も目に見えて速い。

 再び血の気が引いた。普段ならこれだけ走ればローラーはもっと後ろにあるはず。速すぎる。

 これまでただ俺に手を引かれて走っていたアレクサンドラが膝に手を付き、初めて背後を振り返った。彼女は固まった。明らかに異常な速度で迫ってくるローラーに脳が対応しきれていない様子だ。

 ローラーの勢いは落ちない。数秒休んでいる間に距離を半分ほどに縮めている。慌てていて今まで気付かなかったが、あれだけ巨大なものが回転しているのにほぼ無音だ。摩擦すら感じさせない静かさを疑問には感じたが、これ以上考えては明日はない。

 息切れが残る声で「走れるか?」とアレクサンドラに訊くと、彼女は苦しそうな顔で頷いた。

 背後のローラーがあと15mほどに迫った時、俺たちは走りだした。

 また数分走った。強い呼吸を休みなく繰り返したことで喉が傷つき痛みが走る。肺が悲鳴を上げ始めた頃、突然彼女が立ち止まり、その場にしゃがみ込んだ。

「はぁ、はぁ、もう、ダメ」と呼吸とともに断片的な声を上げる。ローラーは40mほど後ろで、これだけ走って25mほどしか引き離せていない。回転が徐々に速くなっているらしい。

 彼女は「イスカンダル、だけでも、行って」と続けた。ここで初めて彼女を見捨てるという選択肢が俺の頭に生じた。

 しかし、その直後に母親が病死し父親までもが同じ病に倒れた時の絶望が鮮明に蘇った。

 その瞬間、俺は迷わず時計を前方に投げ捨てると、アレクサンドラを背中に負った。そのまま「しっかりつかまってて」と囁き、人生で一番の力を込めて走り出した。

 喉の痛みも脚の重みも、胸の苦しさも押し込めて走ったが、ローラーはやはり速度を上げながら転がる。前方に投げ捨てた時計の傍を走り抜けた時には、ついに走ってもローラーとの距離を空けられなくなってしまった。徐々に背後に迫る恐怖と絶望が増大するのを感じる。

 一瞬、意識が空中に投げ出された。脚の力が抜けて転んでしまった。皮膚が砂にめくられる痛みが腕と脚を襲う。背後のソレはおよそ7mまで迫っている。心のどこかで助かる見込みはないと理解しつつ、諦める気には一切ならなかった。

 視界に細くてバランスの良い手が入る。前方に投げ出されたアレクサンドラが起き上がり、俺に手を差し伸べていた。彼女も手足の擦り傷が目立ったが、申し訳ないと詫びる余裕すらもなく即座に彼女の手を握る。身体が起き上がりかけた。その時だった。

 背後から強烈な青い光が射した。思わず振り返ると、光でほとんど何も見えなかった。しかし、先ほど投げ捨てた思い出の時計がローラーに吸い込まれる瞬間だけははっきりと見えた。

 青い光はすぐに空気に吸い込まれた。ローラーは相変わらずこちらに猛進する。

しかし、先ほどと違う点が一つあった。その表面には直径3mほどの白い穴が出現している。飛び込んでどうなるかはわからないが、このまま逃げ続けて助かる見込みは時と共に減っていた。

 俺の脊髄はローラーの穴に賭けて飛び込むべきと判断した。アレクサンドラも同じだったようで、アイコンタクトを飛ばすとすぐに走り始める。俺もそれに続いた。

少しずつ目標の穴が近づく。しかし、回転を続けるローラーの表面にある穴は徐々に下方へ向かう。地面に呑まれる前に入れなければ、俺たちは押しつぶされるしかない。即死と隣り合わせの状況に、脳は経験したことのない興奮状態を味わっていた。身体が熱さと冷たさの両方を宿している。

 穴の下部が地面に接した。あと少し、本当にあと少しだけと願いながら走る。穴の高さが下がっていく。7mを走り切った時、穴は1.3mほどしかなかった。

 アレクサンドラが右手で俺の腕を掴むと、俺たちは内部を確認する余裕もなく、地面に呑まれつつある穴に飛び込んだ。

 穴の中を満たす青白い光に全身が包まれると、逃げ切ったんだという安心感で脳と全身が満たされた。握られた手の感触はあるが、アレクサンドラの姿は見えない。


 気が付くと青白い光は消えていて、俺は白い壁に囲まれた部屋にいた。腰かけていた白いベッドから立ち上がると周囲を見渡した。アレクサンドラは見当たらない。手の感触もない。

 空気は湿っており、砂漠のそれでは決してない。

 さっきまでのことが夢や幻かとも思ったが、身体にはしっかりと擦り傷と砂が付いている。

 入ってきた時のものとは明らかに別の、白い金属の扉がある。ここを出てアレクサンドラを探そうと思ったが、ノブも突起もない。

 部屋の中に外界に通じるものがないか見渡すと、ドアのすぐ右に拳大の赤いボタンを見つけた。押すと、スーッと静かな音を立てて左にスライドした。

 一歩外に出ると室内同様に真っ白な廊下があったが、前方の壁には窓がある。覗いてみると、そこには見渡す限りの青々とした森林が広がっていた。ローラーは見当たらない。

 窓の外に広がる森林を見るとかなり下にあるようで、この廊下が高層階にあることがわかる。しかし、先ほどまで身を置いていた砂漠では、基礎を持った建造物すら本の中の世界だったため新鮮ながら実感が湧かない。

 足元に紙切れが落ちていた。拾ってみると、「リセッター管理棟23F」という文字とともに地図が描かれていたが、ここがどこなのかはわからない。ローラーの中なのか、全く別の場所なのかすらも。

 地図をポケットに押し込み左右を見ると、どちらも同様の廊下が遥か彼方まで続いており、金属の白い扉が5mほどの間隔で並んでいる。扉の反対の壁にはさっきまで眺めていたような窓が、扉と同じ間隔で並んでいる。ここから見える範囲では、廊下に彼女らしき人影は見えない。

 一部屋ずつ探すには膨大な時間を要すると予想できるため、叫ぶことにする。

「アレクサンドラーッ!いるのかー!?」左の廊下に向けて叫んだ。細い廊下ではあるが、声がこだましながら遠くに消えていく。返事はない。

「いるなら返事してくれーっ!」今度は右の廊下に叫んだ。こちらも返事はない。

 やはり歩いて探すべきだったかと、右の廊下へ踏み出した。その時だった。

 スーッという音が聞こえ、三つ先の扉が開くのが見える。

 あの金髪が目に入った時、俺はやっと、真に逃げ切ったのだと感じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Roller World T-Kawa @tkawa2630

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ