第10話

 テヘナが部屋に閉じこもるようになって一週間が過ぎた。

 口数がめっきり減り、ベッドから出てもそれ以上のことをする気力がなく、ぼんやり外を眺めていることが増えた。見るに見かねたベレニが図書館からいくつか本を借りてきて歴史や詩を学んだりしたけれど、字を追っても目がうわすべりするだけで内容が頭に入ってこない。

「いったいどうなさったのです、テヘナさま」

 はいどうぞ、とファリュンが粥を匙ですくい、口元に運んでくれる。こうでもされないと食事を摂る気すらない。

「もうずっと体を動かしておりませんわ。馬を駆ったり、城下に出たりなさらないのですか」

「行くのが面倒くさい……」

「陛下も心配しておられましたよ」

「…………そんなことないと思うわ」

 隠し通路に侵入し、執務室でシウバとヴェロニカが仲睦まじそうにしているのを見たことは誰にも言っていない。ファリュンに相談することも考えたが、いくら口が堅いと言えど噂というのはどこから漏れてしまうか分からない。

 執務室で国王と魔術師が逢引きなんて、かっこうの噂話だろう。どちらにも妻、そして夫がいるのだから。

 ――もし噂が広がったらシウバさまの評判は一気に悪くなるだろうし、アタラムさんとの仲も悪くなっちゃうかもしれない。

 今はテヘナだけが苦しんでいるからいい。耐えれば済む。だが他にまで影響が出てしまったら。

 心配するファリュンに一人にしてほしいと頼み、窓際に置いた椅子に腰かけてぼーっと外を眺める。窓を開ければぬるめの風が庭園の花の香りを運んできた。空は中途半端にくもっていて、雲の切れ間から時々太陽が覗くものの、すぐに翳ってしまう。まるでテヘナの心境みたいだ。

 はあ、とため息をつきながら窓枠に頬を押し付けるようにしてうな垂れる。

「私がここに居る意味ってあるのかな……」

 シウバはヴェロニカを愛しているに違いない。改めてそれを思い知らされて、彼と愛し愛される仲にと望んでいたのが馬鹿らしくなってきた。叶うはずがないのだ、テヘナが入り込む余地なんてどこにもない。

 テヘナが嫁いできたのは両国の同盟の証、それ以上でもそれ以下でもない。それ以上を望んで、勝手に心が折れてしまっているだけなのに、なんだかシウバに裏切られたような気になって立ち直れないでいる。

「シウバさまも多分、心配なんてしてないんだろうな」

 本人が直接訪ねてくるのは難しくても、代理でアタラムが来ることすらない。完全に放っておかれているらしい。

 ――シウバさまが色んな婚約を破棄されたのは、結婚相手はこんな気分を味わうってみんな分かっていたからなのかしら。

 彼がヴェロニカと親しい仲なのは、きっとエストレージャに詳しければ誰もが知る事実だったのだろう。他の女を愛していると分かりきっている相手に嫁いでくるなんて確かに嫌だ、断りたくもなる。テヘナの父は知らなかったからシウバとの婚約を受け入れたし、テヘナもこうして嫁いできた。

 そして心が折れたわけだ。

 王妃としてこれではいけないと感じているが、動こうと思うと体が重くて仕方がない。天気のいい日には外に飛び出していきたくもなるが、結局気怠くなってベッドで横になるか、こうして椅子に座っているかのどちらかになる。何度目か分からないため息が漏れた。

 今は何時だろう。ぼんやりしていることが多いせいで時間感覚さえ分からない。

「もう魔獣は現れてないのかな……作った人は見つかったのかな……」

「魔獣は出てきていない、安心しろ」

「そうですか、良かっ――――」

 はっとして振り返り、テヘナは目を大きく見開いた。

「な、なんで、シウバさまがここに」

「入る時に何度も声はかけたぞ。ノックだってした」

 思いもよらない人物が現れて、テヘナは喘ぐ魚のごとくはくはくと何度も口を動かした。一方シウバはテヘナの顔色を確かめるように腰を折ったかと思うと、「風邪は引いていないようだな」と不思議そうに首を傾げた。先ほどまで執務室で書きものに勤しんでいたのだろうか、かすかにインクのにおいがする。

「何日も部屋から出てこないからよほど重い病にでも侵されているのかと思ったんだが。食事もろくにとっていないと聞いていたし」

「ご飯を食べる気力がなかっただけです……」

「どうして」

「どうしてって」

 あなたが宰相の妻と浮気しているのを見たからです、なんて言えない。

「魔獣の作成者はまだ見つかっていない」

「え?」

「あなたがさっき呟いたことに対する答えだ。作成者がどこの誰なのか、さっぱり分からないでいる。魔獣が現れれば様子を近くで見ているはずだからまだ捜しようがあるが、そうでない限り作成者を見つけるのは難しい」

「そう、ですか……」

 ぷつりと会話が途切れ、風の吹く音だけが二人の間に流れる。シウバの顔が見られずテヘナは俯いたまま膝の上に手を乗せ、うろうろと床の上で視線をさまよわせた。

「あの……なんで急に部屋に来たんですか」

「今まで呼んでいなくても私の部屋に来たり、こそこそ後ろをついて回っていたくせに、急に大人しくなったら誰でも心配すると思うが」

「後ろをついて回ったりなんて、そんなこと」

「していただろう。気付かれていないとでも思っていたのか?」

 シウバが一日にどんな行動をしているのか探っていた時のことか。気付いていたうえで黙っていたと知って、テヘナは急に顔が熱くなった。完璧に隠れられていた自信があったのに。

「それで? 魔獣に踏みつぶされた脚は完治しているだろう。風邪も引いていないのならどうして部屋から出てこない」

「…………言いたくありません」

「言いたくなくても教えてもらう。余計な心配をしたくないんだ、私は」

 テヘナが落ち込んでいるのはシウバにとって余計な心配なのか。

 ただでさえ気分が沈んでいたのに。より一層深い沼に浸されたような心地がした。

「魔獣に敵わなかったのが悔しいのか?」

「違います。心配してくださってありがとうございます、私はもう大丈夫ですから、出ていってください」

「あなたが真相を語るまでは無理だな」

「…………私のことは名前で呼んで下さらないのに」

「なに?」

「なんでもありません」

 気になるから言え、いやです言いたくありませんをしばらく繰り返し、シウバが呆れたように腕を組む。眉間に寄っているしわが深い。だいぶ苛立っているようだ。

 私のことは〝あなた〟として呼んでくれないのに、ヴェロニカさんのことは〝ヴェラ〟って呼んでたじゃないですか。話し方だって私に対するそれとは全然違う。そう訴えられたらどんなに良いだろう。けれど白状すると、必然的に執務室をのぞき見していたことが知られてしまう。

 いっそ見たままのことを伝えて、夫婦としての関係を完全に破たんさせた方が楽だろうか。シウバも浮気現場を見られたと知れば動揺するはずだ。

 言うべきか、言わざるべきか。

 膝の上でぎゅっと手を握っていると、ぽん、と頭になにかが乗った。反射的に顔を上げると、シウバがテヘナの頭を軽く叩くようにして撫でていた。

「あなたが落ち込んでいるとこちらの調子まで狂う」

「……勝手なことばかり仰いますね」

「人間なんて誰だって自分勝手だろう」

「じゃあ私が落ち込んでるのも勝手なことです、放っておいてください」

「それは困ると今言ったはずだが」

「……なんで私に優しくするんですか?」

「は?」

「好きでもなんでもないのに優しくされるのは苦しいんです!」

 頭を撫でていたシウバの手を押しのけ、テヘナは彼から逃げるようにベッドに飛び込んだ。枕に抱き付いてうつ伏せになり、顔を押し付けたまま叫ぶように言う。

「陛下はヴェロニカさんのことが好きなんですよね? なのにどうして私に優しくするんですか。嫌いなら突き放してくれた方が楽なのに!」

「……おい」

「名前で呼んでくれたことなんて一回しかないし、それだって呼ぶしかなかったから呼んだだけみたいな状況でしたし。なのにヴェロニカさんのことは〝ヴェラ〟って愛称で呼ぶし! 嫉妬だって分かってます、分かってますけど止められないんです! シウバさまがヴェロニカさんのことが好きなんじゃないかって聞いてはいましたけど、でも頑張れば振り向いてもらえるはずだって思ってました。愛すだけじゃなくて愛されるようになりたいとも思いました。だけどもう無理だって分かってしまったんです」

「おい」

「だってシウバさまはやっぱりヴェロニカさんを愛していて、私のことなんてどうでもいいんでしょう? どうでもいいのに、なんで様子を見に来て下さるんですか。気にされてるんだって勘違いしちゃうじゃないですか」

「おいって言ってるだろ!」

 ぼすんっとベッドが大きく揺れる。シウバが勢いよく腰かけたらしかった。顔の横に手をついた気配がしたと思った直後、耳元で思い切り叫ばれた。

 驚いて黙りこみ、おずおずと顔を上げて体をよじる。怒気を瞳いっぱいに漲らせた彼と至近距離で目が合った。

「テヘナがどうでもいいなんて誰が言った」

「い、言われてはないですけど、でも」

「どうでもよかったら部屋まで来るか。面倒くさい。どうでもよくないから来たんだろうが」

「え…………」

「要するに君は僕に好かれてないって言いたいんだろ」

 急に口調が変わった。「私」から「僕」になった。きょとんと眼を瞬くテヘナに、シウバはゆっくりと顔を近づけてくる。

 えっと思うのとほぼ同時に、テヘナの唇に柔らかいものが触れた。それがシウバの唇だと理解したころに彼は顔を上げ、分かったか、と言いたげに鼻を鳴らす。

「好いてないわけがないでしょ、あんなにつきまとわれて」

「は?」

「そりゃあ最初は鬱陶しかったし面倒くさかったけど、逆に気になり始めた。なんでここまでして僕の気を惹こうとしてるんだろうなって思って面白かったよ」

「お、面白いって……で、でもそんな感じ、全然」

「表に出さないようにしてたからね。今までの奴らみたいに、いつ態度を変えるか分かったもんじゃないし」

「だから一線を引いていたかったんですか、私と」

 深い関係になって、自分が傷ついてしまわないように。態度と口調であえて突き放して。

 シウバの冷たい指がテヘナの頬を緩やかに撫でる。熱くなったそこに、ひんやりとした指先は心地よかった。

「僕がヴェラを愛しているって言ったよね。はぐらかす必要もないから言うけど、確かに僕はヴェラを愛していたよ」

 テヘナが傷ついた表情をしたと分かったのだろう。シウバはくす、と肩を揺らした。

「愛していた・・んだよ、もう過去の話だ。正直けっこう最近まで引きずってたけどね」

「じゃあどうして『君はヴェラとは違う』なんて仰ったんですか」

「僕がこんな体になっても態度を変えなかったのはヴェラだけだったんだよ――僕の〈核〉を作ったのは彼女だから当然だよね――。あの時は『どうせこの子もすぐに怖がるなり、不気味がるなりするだろう』と思ってたから言ったんだ。聞こえてると思わなかったけど」

「で、でも」

 それならどうして口づけていたんですか。

 愛していたのが過去の話なら、あれは何だったのだ。あの時だって「ヴェラがいてくれて本当に良かった」とか言っていた。

 テヘナは諦めて素直にのぞき見していたことを打ち明け、なにを見たのかも全て話した。てっきりまずいものを見られたと動揺するかと思っていたのに、シウバは「はあ?」と不愉快そうに首を傾げている。

「キスなんてしてないけど。そもそもヴェラは今も昔もアタラム一筋だよ」

「でも私は見ました! シウバさまとヴェロニカさんが顔を、こう、近づけて……」

「顔を……? ああ、魔力マナの影響を受けてないか確認してた時のこと?」

「へ?」

「のぞき見してたんなら聞いてるでしょ。神力イラが魔力を浄化するように、魔力は神力を汚染する。神力の塊である〈核〉を有する僕は当然、魔力の影響を受けやすい。前科もあるしね」

 彼にぐいっと顔を近づけられ、テヘナの喉から「ひゃ」と変な声が漏れる。シウバはテヘナの手を取ると、自らの頬にそれを導いた。

「僕の目は瑠璃色だろ。けど魔力に汚染されて自我を無くすと金色になる。ヴェラはそれを確認してただけだ。君も見る?」

「え、えっと」

 戸惑いながらシウバの瞳をじっと見つめる。彼は視線を逸らすことなくテヘナの目を見つめ返し、「分かった?」と訊ねてくる。瑠璃色の瞳は息をのむほど美しく、どこも金に染まっていない。こくこくと頷くと、シウバは安心したようにふっと笑った。

 かと思うと、また唇を重ねられた。柔らかさを確かめるように時々甘噛みされ、くすぐったくて笑い声をこぼした隙に舌が入り込む。一方的に貪られるような口づけに息も絶え絶えになった頃、ようやく解放された。

「その顔」

「なんですか」

「まだ足りないって顔をしてるけど?」

 ――足りないのは私じゃなくて、シウバさまの方じゃないんですか。

 そう反論したかったけれど、言う間もなく唇を奪われる。テヘナは安心と喜びに涙をにじませて、そっと彼の首に腕を回した。

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