第9話
翌日、念のためベッドで休んでいたテヘナを訊ねてきたのは宰相だった。
「お体の加減はいかがですか」
「もうほとんど大丈夫なんですけど、シウバさまに大人しくしていろと言われてしまったので、お言葉に甘えて休んでいます」
えへへと笑ってみせると、宰相は少しだけ目を丸くし、すぐに嬉しそうに唇に笑みを乗せる。おかしなことでも言ってしまっただろうか。
「名前でお呼びになるほど親しくなられたのだなあ、と思いまして」
「……あ」
城下町で話して「陛下と呼ぶな」と言われた時のまま、テヘナは夫を名前で呼んでいる。
「私のことも宰相ではなく、アタラムと呼んでくださって大丈夫ですよ。その方が呼びやすいでしょう」
実は宰相の名前を覚えていなかったので呼べなかっただけなのだが、とは言わないでおく。テヘナが「アタラムさん」と試しに呼びかけてみると、彼は満足そうに瞬きをしていた。
「
「ええ。彼女は優秀な魔術師であるばかりでなく、宮廷薬師としても活躍してくれています。自慢の妻ですよ」
なんと見事な惚気だろう。それほど二人の仲は良好なのだ。
アタラムはただテヘナの様子を見に来ただけでなく、他にも報告があるという。彼は小脇に分厚い書類を携えていた。
「城下では昨日の猪のほかに、ウサギや犬、ネズミの魔獣が確認されました」
「そんなにたくさん?」
「いずれも捕獲し、浄化は完了していますが、今後も同様の魔獣が現れないとは限らない。ですので、王妃には少し退屈かも知れませんが、安全が確認されるまでしばらく外出はお控えください」
「今までも魔獣が暴れ回ったことってあるんですか」
「国内外で報告はあがっていますが、城下では滅多にありません。なにせ王宮には妻が取りまとめる魔術師たちがいる。魔獣を放ったところですぐに捕えられて浄化されますからね」
魔獣を放つ目的が「人々に危害を加える」「ただ
幻獣を作れば処刑されるように、魔獣を作った者にも罰は下る。アタラムは城下で見つかった魔獣たちの作り主を捜すことに決めたと語った。簡単に見つかるものなのかと思ったが、彼の渋い表情を見る限り一筋縄ではいかないのだろう。
「私にも何か出来ることはないでしょうか。魔獣を捕まえたりとか」
「王妃の身に危険が及ぶ可能性もあります。捕獲への同行はご遠慮いただけますと幸いです」
アタラムは言葉にしていないが、彼が一瞬だけ見たのはテヘナの右脚だ。また同じような怪我をされると困ると言っているのだ。
仕方がない。負傷した事実は消せない。自分の力を過信してしまったから怪我をした。
テヘナは素直に「分かりました」と頷き、それならばと顔を上げた。
「他に私に出来ることがあれば教えてください。何もせずにじっとしているだけなのは性に合いません」
「そう仰ると思いました」
少し待ってください、とアタラムはどこかへ行く。どうしたのだろうと行動を黙って見ていると、彼は壁際に置いてあるクローゼットの側に移動し、なにかを確かめるようにじっと見つめている。
なんの変哲もない家具のはずだが、なにがそんなに気になるのか。疑問を感じていると、アタラムはクローゼットの横に手をつけ、ぐっと力いっぱい押し始めた。重みもあるし簡単に動くはずがないと思っていたのに、意外なほどあっさりと横にずりずりと移動していく。
あ然として口を開けるテヘナの前に現れたのは、這いつくばると入れそうな四角い穴だった。
そういえば以前、ベレニが言っていなかったか。王宮には隠し通路がある、と。
もしかしなくても、四角い穴は隠し通路に通じているのでは。
わくわくしながら訊ねたテヘナに、アタラムは「お察しの通りです」と頷いた。
「通路は王宮の各所だけでなく、城下の一部にも通じています。今ではほとんど使われる事なく忘れ去られたものではありますが、覚えておくと便利ですよ。人目を避けたい時に活用できる」
「王宮の各所……というと」
「例えば、陛下の執務室とか」
「!」
きっとテヘナは餌を見つけた子犬のような顔でもしていたことだろう。アタラムはいたずらを思いついた子どもかと思うほどの意地悪気な笑みを浮かべ、隠し通路を指さした。
「ここの通路は先ほどまで塞がれていましたが、執務室に通じる道はちゃんと開けてありますのでご安心を。向かったところで部屋に出られない、なんてことはありません」
「でも以前、部屋にお邪魔した時にそんな穴は見かけなかったと思いますよ」
「気付かれないよう壁に偽装してありますから」
ほとんど使われていないと言っていたように、今では隠し通路を使い、また道がどこへ繋がっているのかとちゃんと把握しているのはシウバとアタラム、そしてヴェロニカくらいだという。
「この時間、陛下は執務室に居られます。魔獣の対策だけでなく、各地から届いた陳情に目を通しているはずです。誰かがそばにいないと飲食すら忘れてしまわれますから、ぜひお近くにいて差し上げてください」
「それなら私にも出来そう! 悩んでおられたら助言とかしたりしても大丈夫かしら」
「きっとお喜びになります。待機している侍女の二人には『お疲れのようだったので王妃さまはお眠りになられた』と伝えておきますよ」
「ありがとう!」
「隠し通路の中は暗いですし、道は入り組んでいます。じゅうぶんお気をつけて」
アタラムが退室してすぐ、テヘナは寝間着を脱ぎ捨ててクローゼットから服を引っ張り出した。少年のような膝丈のズボンと縞柄のシャツは、お忍びで城下を歩くようにとベレニに用意してもらったものの一つだ。
ドレスで這いつくばると汚れてしまうが、これなら自分の膝が汚れるだけで服はきれいなままだ。よし、とテヘナは気合を入れ、さっそく隠し通路に侵入した。
しばらく四つん這いで進んだが、ある程度すすんで頭上が開けたところで立ち上がる。腕を上げてみるとぺたりと手のひらがついた。大人の男でも余裕で立てるだろうが、横幅はそれほどなく、人が並んで歩くのは難しそうだ。
シウバの執務室へ行くにはどこを進んでいけばいいのだろう。アタラムに聞いておけば良かったような気もするが、せっかくだし自力で辿りついてみたかった。
「勢いで入ってきちゃったけど、せめて燭台だけでも持ってこれば良かった」
通路が通じていると思われる部屋の壁からところどころ光が入ってきているため、完全な闇ではないのだが、薄暗いことに変わりはない。道が曲がっていることに気づかず、激突することもままあった。
壁に手をつきながらゆっくりと、好奇心の赴くままに歩いていく。道が二手に分かれているところでどっちへ行こうかと悩んだり、階段を下ったり上がったりするだけでも楽しい。狩りとはまた別の面白さがある。
今は王宮のどのあたりだろう。試しに近くの光が漏れている場所から外の様子を見てみると、有名な画家が手掛けたという絵画がずらりと並ぶ部屋だった。今は清掃中の女中が三人ほどいる。もちろんテヘナがのぞき見していることなど気付いた様子はない。
――ここが〝絵画の間〟ってことは。
確かここから二つか三つ部屋を移動したところが、執務室だったはず。
物音を立てて驚かせてしまわないように、こっそりと絵画の間から離れた。再び壁に手を伸ばして執務室を目指す。
ここかな、違うな、じゃあこっちかな、と二、三回繰り返したところで、テヘナは漏れ出る光から近くの様子をうかがう。見覚えのある棚や机が見えた。やっと目的の部屋に辿り着いた。達成感と安心で肩から力が抜けた。
夫はどこにいるのかと探してみる。書類にとりかかっているのかと思いきや、意外にも机の周囲にいない。
――シウバさまはどこ……あ、いた。
多少見えにくいが、机から少し離れたところに彼はいた。
なにやら話し声が聞こえてくる。客が訪れたから立ち上がっていたのか。テヘナは興味津々に耳を壁に押しつけ、誰と話しているのか聞いてみようと息を殺した。
「また無茶をなさったそうですね」
――女の人の声……?
呆れたようなそれには聞き覚えがあったが、少しくぐもっていて上手く聞こえない。テヘナは息を殺して聴覚に神経を集中させた。
「平気だよ」と答えたのはシウバだ。「ヴェラが作ってくれた〈核〉があるから」
「〈核〉があるからといって無茶をしていいわけではないと何度もお伝えしたはずです。一時的とはいえ血が流れますし、痛みだって感じるのですから」
「心配しなくても大丈夫。血はすぐ止まるし、痛いのも我慢できるようになった。猪の牙なんて、アタラムに刺されたよりも痛くなかったしね」
心を許している相手なのか、シウバの口調はテヘナに対するそれよりずいぶん気安いように思う。
ここからではよく見えない。他にも覗けそうな場所は、と視線を巡らせて少し横にずれたところから光が漏れているのを見つけた。いそいそとそちらに場所を変えて再び覗いてみると、こちらからはシウバの背中と、話し相手の顔が細い隙間から辛うじて窺えた。
声からなんとなく気づいていたが、執務室に訊ねてきたのはヴェロニカだった。彼女は髪を昨日と同じようにまとめ、国王と相対するからかドレスを身にまとっている。
――君はヴェラとは違う。
シウバに放たれた言葉が胸をチクチクと刺す。心臓を直接握られているような息苦しさまで感じるが、単純に閉塞的な場所にいるからだと自分を落ち着かせた。けれどなかなか上手くいかない。
「魔力の影響はなにも受けていませんか? 神力が魔力を浄化するように、魔力は神力を汚染します。体の不調等はありませんか」
「心配性だなあ。大丈夫だって言っただろ? そこら辺の魔獣が振りまく魔力より、ヴェラの神力の方が圧倒的に強いんだ。その力で作られた〈核〉を持つ僕も当然、ね」
「陛下は私たちと違って自力で魔力の浄化は出来ないと以前もお伝えしましたでしょう? 気分が悪い時はすぐにお知らせください」
「分かったよ」
ヴェロニカは心の底からシウバを心配しているのだろう。声の様子からもそれが伝わってくる。
――私はヴェロニカさんとは違う、かあ。
髪や肌の色は当然違うし、目の色だって異なる。ヴェロニカはいかにも〝淑女〟といった風体で、きっとテヘナのように狩猟だってしないだろう。体格だって、テヘナの身長がシウバよりわずかばかり低いだけなのに対し、ヴェロニカは頭一つ分ほどの差があって華奢だ。
見れば見るほど差が出てくる。見た目も性格も違うことも分かっていたはずなのに、なんだか泣きたくなってきた。
――やっぱりシウバさまは、ヴェロニカさんのことが今も……。
隠し通路からいきなり現れてシウバを驚かせるつもりだったけれど、もうそんな気力がない。これ以上ここにいると打ちのめされてしまいそうだ。
去り際にもう一度だけ部屋を覗き見て、テヘナは目を見開いた。
シウバとヴェロニカの顔が、重なり合っているように見えたからだ。
――――な、なに。
テヘナから見えているのはシウバの後頭部だけだが、それでも分かる。
二人は今、口づけを交わしていたのではないか。
数秒だったか、数分だったか分からない。
「ヴェラがいてくれて本当に良かったよ」
シウバの一言が胸に突き刺さり、テヘナはよろよろとした足取りで執務室の隠し通路から立ち去った。
双眸から溢れた涙の染みだけが、その場に残っていた。
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