第8話

 目覚めたとき、テヘナがまず感じたのは右脚の強烈な痛みだった。熱く焼けた石を押し付けられているような感覚がする。

 ぐう、と唸り声を上げて、痛みを逃すようにベッドのシーツを握りしめた。額には脂汗が浮き、唇は強く噛みしめすぎて血が滲んでいる。押し倒された拍子に背中も痛めたらしく、仰向けになっていると苦しい。

 ――私、いつの間に王宮に戻ってたんだろう。

 猪の捕獲を見届けたあと、どうやら意識を失ってしまったようだ。部屋に運び込まれた記憶がない。

「テヘナさま!」

 そばで誰かが呼んでいるのに、遥かかなたから声がかかっているような気がする。今にも泣きそうな声はファリュンか、ベレニか。心配しないで、ちょっと怪我しただけだからと安心させたいのに、頭がぼんやりしていて無理だった。

「テヘナさま、ああ、なんておいたわしい……!」

「でももう大丈夫ですよ、間もなくヴェロニカさまがこちらに来られますから!」

 ――ヴェロニカ……?

 うっすら目を開けると、ファリュンが間近で主の手を握り、ベレニは額に乗せるための氷嚢を準備してくれている。他にも誰かいるようだが、体を起こせないため誰がいるのかは分からなかった。

 再びテヘナの意識が落ちかけた頃、にわかに室内が騒がしくなった。お待ちしておりました、とベレニが頭を下げる気配がする。彼女が一歩引くと、それまでベレニがいた場所に別の誰かが立った。

「大変お待たせしてしまって申し訳ありません。すぐに治療いたします。もう少しだけ我慢してくださいね」

 力強く、それでいて穏やかな響きを含んだ声だった。使命感がありありと滲むそれに励まされるように、テヘナは弱々しくもはっきり頷いた。

 何者かがテヘナの右脚に触れる。びりびりした衝撃がはしり、思わず体をよじりそうになったがファリュンに押さえつけられた。耐えてくださいと懇願されても痛いものは痛い。目尻に涙が浮かび、頭を振るたびに頬を伝って流れていった。

 どれだけ辛抱しただろう。ふと痛みが和らいだ。反対に日差しに包まれているような温かみを感じ取る。

「ひとまず脚は治りました」五分ほど温かさを感じた頃、誰かが手を放して問いかけてきた。「動かしても痛みはありませんか?」

「……ない、大丈夫……」

 呟くようにして答えて、テヘナはファリュンに支えられながらのろのろと体を起こし、そばにいた誰かを見る。

 勝気そうな赤い瞳が印象的な女性が、そこにいた。長い黒髪は邪魔にならないように結い上げられ、動きやすさを重視しているのか、身にまとうのは簡素だけれど刺しゅうが美しいワンピースだ。年の頃は宰相より少し若いくらいだろうか。

 女性は桃色の唇を安心したようにふっと緩め、テヘナの側にしゃがみこんだ。

「お初にお目にかかります。宮廷薬師の任についております、魔術師のヴェロニカと申します」

「あなたが……」

「ご挨拶も出来ないまま治療を施してしまい申し訳ございません。すぐに駆けつけられなかったこともお詫びいたします。他にはどこか負傷していますか?」

「えっと、多分、背中……?」

 一体彼女は何をしたのかと訊ねる間もなく、むしろこちらが問われる。おずおず答えたところで視線を感じ、はっと目を向けると、

 ――シウバさま。

 ベッドの正面で、シウバが椅子に腰を下ろしていた。血にまみれた服は着替えたらしく、いつもと同じ装いに身を包んだ彼は、仏頂面とも心配しているともとれる複雑な表情を浮かべて腕を組み、こちらをじっと見つめていた。

 いや、見つめているのは本当にテヘナなのか。

 ――だって今、ここには……。

 失礼します、とファリュンに代わり、ヴェロニカが背中に触れてくる。再びぽかぽかとした温かさが広がり、間もなく痛みはなくなった。それと共に意識がようやく明瞭になり、テヘナは呼吸を落ち着けたところで、ようやくちゃんとヴェロニカを見た。

 彼女はなんと問われるのか察したのか、にこりと笑う。

「骨折や打撲を神力イラで治療いたしました」

「神力で?」

「はい。……あ、神力はご存知ですか?」

 魔術師も神力も、シウバに教えてもらったばかりだ。テヘナは頷く。

「私は治療に特化した魔術師なんです。病や軽い怪我であれば薬草で対応するのですが、今回、王妃さまは骨折しておられた上に、魔力マナを吸い込んでいる可能性もありましたので、神力での治療となりました」

「魔力って……神力とは別ものなの?」

「私から説明しよう」

 黙り込んでいたシウバが立ち上がる。彼はヴェロニカや侍女たちを退室させたため、必然的に二人きりになってしまった。

 シウバは先ほどまでヴェロニカがいた場所に立つと、すうっと大きく息を吸い込み、

「馬鹿者が!」

「っ!」

 あまりの大音声で怒鳴られ、思わず耳を塞いだ。

「魔獣は素人には倒せない。あなたがいくら狩りに慣れ親しんでいるといってもだ! 不測の事態があればアタラムが兵を遣わせるのは分かっていたし、あなた一人が突っ走る必要はどこにもなかった! 骨折と打撲で済んだのは奇跡だ。死んでいてもおかしくなかったんだぞ!」

「だってあのまま放っておいたら危なかったじゃないですか! 女の子だって踏みつぶされていたかも知れなかったし!」

「確かにな。あなたはあの少女を救った。私が問題視しているのはその後の行動だ! 周りを頼れ、一人で魔獣と戦うな! そもそもあなたは王妃なんだぞ、戦う必要はない!」

「それを言うならシウバさまだって剣を握ってたじゃないですか! 猪にだって刺されて……」

 言いかけて、彼が怪我を負ったはずの箇所を見る。

 おい止めろと拒否されるのも構わず、ベッドから身を乗り出して服をまくり上げた。角が刺さっていたはずの脇腹には傷一つなく、血が通っているのかと怪しみたくなるような白い肌があるだけだ。

 もしかして、彼もヴェロニカに治療してもらったのだろうか。だが牙や角が刺さったあと、すぐに血が止まっていたような。

「もういいだろう。手を放せ」

「あっ」

 ぺしっとテヘナの手の甲を叩き、シウバはため息をつきながら服を整えた。彼はベッドに腰かけると、こちらを見ることなく話し始める。

「私には幻獣に使われるのと同じ〈核〉が埋め込まれてると話しただろう。これがある限り、私は老いないし死なないんだ」

「……え?」

「幻獣は〈核〉を破壊されたり、取り出されない限りは神力の力で半永久的に生き続ける。心臓ではなく〈核〉で動く私もな」

「じゃあさっき猪に刺された時の怪我は」

「治った。ヴェラの力も借りることなく」

 これが〝化け物〟と呼ばれる理由だ、とシウバは諦めたように乾いた笑みをこぼした。

「たとえ致命的な傷を負おうと、致死量の毒を飲まされようと、私は〈核〉がある限り死なない。老いもしないからこの先ずっと外見も変わらない。そんな国王を不気味がらない者などいないだろう。まあ、あなた以前の婚約を破棄されたのには他にも理由があるだろうが」

「老いないって……失礼ながら、二七歳という風には見えないなと思っていたんですが、もしかして」

「外見は十九歳のままで止まっているからな。完璧な〈核〉を得た頃のままだ」

「でも〈核〉を心臓代わりにするようになったのは子どもの頃って聞きました」

「十九歳まで埋め込まれていたものは不完全だったんだ。怪我や病気が治るのは変わらないが今より速度は遅かったし、神力を消費すれば体の動きは鈍くなり、補給されなければ最終的には死人同然に動かなくなった」

 もし子どもの頃に完璧な〈核〉を得ていたら、テヘナの前にいたのは二七歳なのに見た目は幼児の国王だったかもしれないのか。

 宰相はシウバより一つ年上だというから、「普通ならあれと似たような見た目になっていただろうね」と彼は指を組む。

「あの、シウバさま」

「なんだ」

「魔力とか魔獣とか、いったい何なんですか?」

「神力は神に由来するが、魔力は人から生まれた力だ。魔獣はそれを吸収、あるいはあたりにばら撒く獣のことを指す」

 どういうことだとテヘナが首を傾げると、シウバは「最後まで聞け」と横目でこちらを睨む。

「猪の体にまとわりついていた黒い靄があっただろう。あれが魔力だ。魔力は人の負の感情を源に力を増し、神力と違って人に簡単に影響を及ぼす」

「影響って、どういう……?」

「負の感情を源に、といっただろう。人の体内に入り込むと、その感情を増長させるんだ。とはいえ適性や影響には個人差がある。イライラするだけで済む者もいれば、怒りを発散させるように暴れ回る者もいる」

 あの猪のように、とシウバは小さく付け加えた。

「そういえばあの猪、額に角が生えてましたけど、あれは魔獣の特徴かなにかですか。普通の猪にあんなものありませんよね」

「勘がいいな。あなたの言う通り、あれは魔獣の証とも言える。幻獣で言うところの〈核〉と同じものと考えていい。魔獣は角から活動に必要な魔力を吸収し、増大させたうえで周囲に振りまく。たいていの場合は無茶苦茶に暴れ回るだけだが、時たま操られている個体もいる」

「どういうことですか」

「そのままの意味だ。魔力の発生源――使用者に、操り人形のように操作されているんだ」

 いかな目的でそんなことをするのかは、動機によって異なるそうだ。

「……今日の猪も、操られていたんでしょうか」

「さあな。それは分からない。判断のしようがない」

 神力や幻獣と違って、魔力も魔獣もごく最近発見されたものらしい。そのため研究は不十分で、いまだに謎な部分が多いそうだ。

 捕獲された猪は王宮に運び込まれたという。どうなったのかと訊ねると、シウバから返ってきたのは「浄化した」という一言だった。

「魔力は神力を注ぐことで浄化できる。あなたを治療したヴェラは、ここに来る前に猪を浄化して元に戻していた」

「殺してしまったわけではないんですね」

「今回は家屋の損壊こそあれど、死人は出なかったからな。人の勝手な思惑で魔獣にされた獣に罪はない。ただまあ、あんな巨体がまた城下に現れると困る。離れた山にでも連れていくつもりだ」

「そういえば魔獣を殺したら呪いがどうとかって仰ってましたけど、あれはなんですか」

「魔獣には幻獣と違って心臓がある。人工生命体ではないんだ。怪我は魔力で治るが、心臓や脳を傷つければ死ぬ。そうすると体内に渦巻く魔力が爆発的にあふれ、殺した本人に襲いかかって殺してしまう」

 だから殺すなと言ったのか。テヘナが死んでしまわないように。

 ふと猪の下敷きにされていた時のことを思い出し、テヘナはぐっとシウバに体を近づけた。急に接近されて驚いたのか、彼はわずかに身を引く。

「初めて『テヘナ』って呼んでくださいましたよね」

「……何の話だ」

「とぼけないでください。ちゃんと聞きましたよ。私を助けに来てくれた時に叫んでいたじゃないですか。あっ、あの時って屋根の上から飛び降りたんですか? 他の人に行かせても良かったでしょうに。あんな高さから飛び降りたら骨を折りますよ」

「ただの人間が迂闊に飛び込んだら怪我では済まなかった。その点、私は死なないし怪我は治るし、あなたを助けに行くには私が最適だっただけだ」

「私、私って……シウバさま、普段はご自分のこと『僕』って言っておられるんじゃないですか?」

 僕と違って怪我の治癒だってしないんだぞ、とテヘナを叱ったセリフを一言一句間違えずに復唱すると、シウバはがっくりうなだれた。もしかして隠しておきたかったのだろうか。

「……あなたとは一線を引いておきたかったのに」

「私は引いてほしくなんかありません」

 テヘナの目標は「シウバと愛し愛される仲になること」だ。そう伝えると、シウバは面倒くさそうにため息をつきはしたけれど、「断る」とは言わなかった。拒否すれば余計に面倒くさいことになると思っただけかもしれないが。

「ね。もう一度呼んでください」

「なにを」

「名前を」

「……必要を感じない」

「そうやって逃げるのはよくありませんよ。言ってくださるまで部屋から出しませんから」

「ふざけるな、私には事後処理が」

「宰相さんに任せておけばいいじゃないですか」

「……怪我をしていた方が大人しくていいな、あなたは」

 神力で治療されたとはいえ、まだ体にはだるさが残っている。あと二日くらい大人しくしていろ、とシウバは立ち上がり、テヘナが引き止めても構ってくれなかった。

「じゃあ二日後、私の快気祝いと思って一緒にお食事を摂ってくださいませんか? もっとシウバさまとお話したいです」

「………………考えておく」

 去り際に残された答えに、テヘナの顔に満面の笑みが広がった。

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