第7話

 おい待て、と制止するシウバの声は無視した。幸い猪よりもテヘナの方が女の子に近いし、本領を発揮していないのか速さもそこまでではない。

 ――男装しておいて正解だった!

 普段の踵が高い靴なら走れなかっただろう。祖国でしばしば隼のようだと評された素早さをいかんなく発揮し、テヘナは女の子を掬い上げるようにして救出した。猪が背後を通り過ぎていったのは、約二秒後だった。

 自分の身になにが起こったのか分かっていないのか、女の子はきょとんとしたままテヘナを見上げている。

「もう大丈夫だからね」

 優しく背中を撫でてやりながら、目の前にあった通りに逃げ込んだ。後ろから迫ってくる足音に一瞬だけ身をかたくしたが、振り向いたところにいたのはシウバの護衛だった。

「ご無事ですか!」

「私は大丈夫だけど、この子はさっき転んだ時に怪我をしたと思う。親とはぐれたみたいだから捜してあげて。任せていい?」

「お任せください」護衛に女の子を預けると、彼は「王妃さまは王宮にお戻りください、陛下がお待ちです」と通りの先を指さした。表に出れば猪と相対しなければならないから、ここを進んだ先で合流してくれということだろう。

 だが。

「ちょうど良かった。あなたが持ってる弓矢、貸してくれない?」

「は……は?」

 返事をしかけて、自分は何を言われたのだろうと困惑するように護衛は首を傾げた。

「ほら、早く」

「いや、しかし王妃さま」

「あんな異常な猪、放っておけるわけないじゃない」

「戦うおつもりですか!? 魔獣を相手にするのは非常に危険です!」

「大丈夫よ」

 半ば強引に護衛から弓と矢筒を受け取り、早く女の子の親を捜すよう無理やり背中を押して送り出したところで、テヘナは建物の陰から猪の様子をうかがった。

 標的を見失い、猪は狂ったように荒い息を吐きながら通りを行き来している。人々の多くは店や家屋に避難したようで、脅威が去るのを二階の窓からじっと見守っている者も少なくない。

 ――そもそもなんで、こんな町中に猪が。

 神経質で、人を見てもこちらが挑発しない限りは逃げ出すことが多い警戒心の塊みたいな動物のはずだ。それにあんな巨体が今まで城下に潜んでいれば、危険と判断されて罠でも張って捕獲されていてもおかしくない。

「誰かが愛玩用なり食用なりで育てていたのが逃げ出したのかしら」

 猪がこちらに尻を向けた隙を見計らい、テヘナは慣れた手つきで矢をつがえ、ぱっと手を離した。

 風を切り裂くような音を上げて、矢は一直線に猪の尻あたりに突き刺さった。痛みを訴える鳴き声を聞かないうちに二本目、三本目と次々に矢を放つ。この程度で死にはしないだろうが、そろそろ痛みで倒れるくらいしてもいいはずなのに、猪は聞き苦しい声で鳴きながら地面を蹴っていた。

 ――あんまり威力ないのね、この弓。

 ――それもそうか。あくまで護衛用だもの。狩猟用じゃないから仕方ないわね。

 とにかく矢を当て続けるしかない。残された矢は九本。テヘナに気づき、襲ってくるのも時間の問題だ。

 再び矢をつがえようとして、「は?」と思わず声が漏れた。

「……そんな馬鹿な」

 目の前で起こった光景が信じられず、テヘナはすぐさま射る。

 異変はすぐに現れた。

 猪の横っ腹あたりに突き刺さった矢が、ぐぐ、と押し返されるようにして抜けたのだ。

 刺さりが甘かったかとも思ったが、違う。猪の体にまとわりついている黒い靄がうごめき、矢柄や矢羽根に絡みついたかと思うと、猪から矢を抜き取ったのだ。

「なに、あれ」

 あんなもの、見たことがない。

 額の角、体の靄、不可解な現象。魔獣、とシウバや護衛は呼んでいたが、確かに魔獣と呼ぶに相応しいだろう。

 さらにテヘナを混乱させたのが、傷の回復だ。

 矢が引き抜かれた箇所には穴が開いて血が流れていたはずなのに、五秒もしないうちに回復していたのだ。これではいくら動きを止めようと矢を放ったところで無意味だ。矢の無駄にもなってしまう。

 猪はおのれを傷つけた何者かを探すように地面や空気中のにおいを嗅ぎ、ついにテヘナを見つけた。

 突進を始められる前に、テヘナは焦ることなく矢を弦にあてがい、狙いを定めた。

 ――的は小さいけど、やるしかない!

 真っ直ぐに放たれた矢は、狙い通りの場所に突き刺さった。

 爛々と光る猪の右目だ。

 吸い込まれるように矢は右目を射抜き、猪は痛みから逃れようとしているのか激しく頭を振った。テヘナは急いで潜んでいた物陰から飛び出し、向かい側にある別の通りに飛びこむ。は、と吐き出した息は熱く、自分が無意識に興奮していたことを物語っていた。

 なにせ嫁いでくるまでは弓矢を手にあたりを駆け回っていたのだ。久しぶりに獣と相対して、これまで大人しくしていた反動か、高揚感もすさまじい。

 ――さて、猪は……。

 通りからそっと顔を出すと、矢はやはり目から引っこ抜けていた。傷も元通りである。

 再び獲物を見失い、猪は怒りをぶつけるように近くの建物に突撃を繰り返した。頭蓋骨が割れてしまうのではと思うのほど鈍い音があたりに響く。割れたところで他の傷と同じように回復するのだろうか、と思いつつ、テヘナは息を整えた。

 ――さすがにあんな大きな猪を一人で仕留めたことはないなあ。

 ――矢は刺さるけど抜けるし、傷も治る。厄介すぎる。

 罠を仕掛けられたら良いのだろうが、そんな暇はないし、仕掛けている隙を狙われたら終わりだ。あの巨体に突撃され、牙や角で抉られようものなら間違いなく死ぬ。

 どうしたものか、とため息をついた時、猪がぎゃっと喚いた。

「民や家屋に被害を出させるな!」

 鋭い声が響き、先ほどまで自分が放っていたものと同じ音があちこちから聞こえてくる。

 何事かと顔を出すと、付近の屋根の上にいくつもの人影が見えた。彼らは一様に弓を構え、眼下の猪に矢を注いでいる。

 それを指示しているのは、他ならぬシウバだった。

 シウバさま、と呟いたテヘナの声が聞こえたわけではないだろうが、彼はふとこちらに目を向けた。唇の動きを見るに「あなたは馬鹿か」と言われたようだ。隣にはファリュンの姿もうかがえる。テヘナを見つけた途端、彼女はほっと息をついたように見えた。

 猪が頭上から降り注ぐ矢に引きつけられているうちに、剣を携えた部隊がゆっくりと近づいていく。中には縄を手にしている者もいた。縛りつけるつもりなのだろうとその場で展開を窺っていたが、

「なっ……!」

 またしても予想外の事態が起きた。

 猪の周囲に漂う靄がうごめき、落下してきた矢を全て弾き飛ばしたのだ。

 靄はまるで猪の体の一部のように次から次に矢を防ぎ、近くにいる兵にまで襲いかかろうとした。

 思わずテヘナは表に飛び出し、弓を捨てて腰に提げていた小刀を抜いた。

 絡みつこうとしていた靄を両断するように、刃を振り下ろす。まるで霞を切っているように手ごたえはほぼ無かったが、どうにか切断には成功したようだ。テヘナに助けられた兵は目を白黒させ、ヒッと引きつった声を上げて後退した。

 勢い余って飛び出してきた結果、猪は再びテヘナに狙いを定めた。走り出される前に逃げたが、今度はテヘナを見失ってくれなかった。石畳を蹴る激しい音が瞬く間に近づいてくる。

 咄嗟にそばにあった通りに逃げ込んだものの、すぐに間違いだったと感じた。

 テヘナ同様、猪から逃げたであろう民が一人、通りで立ちすくんでいたからだ。

 商人と思しき男は恐怖で体が固まっているのか、その場から動こうとしない。猪が来るかもしれないから逃げてとテヘナが叫ぶより早く、猪は背後に迫っていた。

 ――ここで避けたんじゃ、この人が……!

 先ほどシウバが「民や家屋に被害を出させるな」と指示を下していたのを思い出す。テヘナはすぐに体を反転させ、猪と向き合う体勢をとった。

 このまま突撃され、吹き飛ばされるかも知れない。けれど避ければ後ろにいる民が同じ目に遭う。死すら覚悟したテヘナだが、意外にも猪は急に速度を落とし、通りに侵入してきた。

 だが威力があることに変わりはない。突き刺すようにして振るわれた額の角を小刀で防御したが、鼻面で勢いよく押し倒された。そのまま体をまたぐようにして圧し掛かられ、下から抜け出そうとしたが服が踏みつけられていて無理だった。

 ようやく恐怖に竦んでいた体が自由を取り戻したらしく、留まっていた男が走り去る音がした。彼がつけていたと思しき甘酸っぱい香水のにおいをテヘナがかぎとった時、ひときわ興奮したように猪が地団太を踏んだ。

「ぐっ……!」

 重く激しい痛みが右脚を発端にして全身を貫く。踏みつけられて折れたのだと分かった。

 気を失いそうなほどの痛みに耐え、テヘナは精一杯、小刀を振った。ず、と首筋に深く突き刺さった刃をそのまま横に動かし、ぼとぼとと落ちてくる血や黒い靄を顔面で受け止める。

「テヘナ!」焦ったようなシウバの声が耳に届いた。「魔獣は殺すな、呪われるぞ!」

 どういう意味だ。それにシウバはどこに、と猪の下から力を振り絞って体を少し上にずらした直後、頭の上で着地音がした。はっとした直後、何者かが剣を振るって猪の顔を真横に切り裂いた。

 剣を振るったのは、先ほどまで家屋の屋根にいたはずのシウバだった。

 ――い、今のって……?

 目に映った光景に呆然としそうになって、そんな場合ではないと思考の邪魔をするように右脚が痛んだ。猪が痛みで後ずさっている間に、テヘナはシウバに抱き起された。

「なんて無茶をしてるんだ!」

「す、すみませ……」

「知識もないのに魔獣と戦う馬鹿がいるか! 仮に普通の猪だったとしても一人で戦うには無理な大きさだってことくらい分かるだろう! 僕と違って怪我の治癒だってしないんだぞ、あなたは!」

「あとでいくらでも叱られますから……!」

 とにかく今は言いあっている場合ではない。猪の顔に刻まれた傷はすでに回復し、新たな標的であるシウバを瞋恚しんいの瞳で睨みつけている。

 テヘナは彼の肩に腕を回し、痛みを堪えながら立ち上がった。気を抜けば意識を失ってしまいそうだが、小刀を持つ手に力を込めることでなんとか気力を保つ。シウバは右手の剣を猪に突き付けるようにしながら、テヘナを引きずりつつじりじりと距離を開けようとしていた。

 猪はブオォ、と鼻息を荒くして唸り、牙を勢いよく振り上げながら一歩、二歩と前進してくる。

 まずい、とテヘナの顔から血の気が引く。牙はちょうど人の太ももくらいの位置に当たるのだ。まともに食らえば血管が傷つき、最悪の場合は血を大量に失って命が危うい。そして猪に近い位置にいるのはシウバだ。

 護衛たちは屋根にいるようだが、矢を注いだのでは猪だけでなくシウバやテヘナにも当たって危険だ。地上にいる兵たちもうかつに近づけないでいる。

 国王であるシウバを守れるのは、この場ではテヘナしかいない。

「っ!」

 咄嗟にシウバを押しのけ、庇うべく前に出ようとした。だがシウバはびくともせず、むしろ自分が犠牲となるように猪に体を差し出している。

 その直後、猪の牙がシウバの太ももを、額の角が脇腹を、それぞれ貫いた。

「――――――――ッ!」

 声にならない悲鳴がテヘナの喉からほとばしった。血が止めどなくあふれ出し、衣服と地面を鮮烈に染めていく。

 テヘナの骨折をはるかに上回る痛みのはずだ。気が動転したままシウバに目を向けると、彼はなぜか勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。

 ――な、なんで。

 笑顔の理由が分からないテヘナの前で、シウバは剣を逆手に持ちかえると、躊躇うことなく猪の鼻筋に突き立てた。刃は貫通してあごの下から先端が覗き、靄は引き抜こうとそこや柄に絡まるが、許すものかと言わんばかりにシウバはさらに剣を押し込む。

「今だ、捕えろ!」

 シウバが指示を下すと、猪の後ろに控えていたであろう兵たちが次々に縄を投げ、胴や後ろ足を縛り上げた。兵の一人は剣を片手に近づいてくると、シウバの体を傷つけないように細心の注意を払いながら額の角をへし折った。

 シウバが剣を引き抜くと、猪はどうっと音を立てて倒れた。同時に太ももに刺さっていた牙も引き抜ける。殺すなと言っていたから死んではいないようで、猪はびくびくと体を震わせていた。

「シ、シウバ、さま……?」

 彼に体を支えられながら、テヘナはゆっくりと名を呼んだ。シウバの脇腹には圧し折れた角が刺さったままだが、不思議ともう血は流れていないように見える。

 こちらを見下ろすシウバの瞳には、悲壮な光が揺れていた。

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