第12話 髭と涙と、ゼリーと乙女①

 やばいぃぃぃ。でも頭痛いぃぃぃ。ああああ遅刻しちゃうぅぅぅ。私はキリキリ痛むこめかみと戦いながら車で狭い公道をのろのろ走った。


 昨夜はよっぽど疲れてたのか、私もエイルも軽く飲んだだけで睡魔に襲われてしまった。初めてのダンジョン探索に、恋人だと思っていた人から財布扱いされていた事実、さらには悲しすぎる名前の由来まで知ってしまい(まじで余計だけど)、心身ともに昇天寸前だったんだろう。


 でもでもそんな日こそ飲まなきゃ一体いつ飲むの? というなぞの使命感に駆られ、エイルが海底に寝そべるマナティーみたいに静かに寝落ちした後も、ひとり白目を剥きながら酒を呷った。


 その結果が出勤時間の30分前に起床という大失態。……でも後悔なんてしないもん!


 若干不安ではあったけど、とりあえずエイルに鍵を預けて飛び出てきた。信用してないわけじゃないけども、まだ出会ってちょっとだもの。通帳と印鑑、その他諸々大事なものは鞄に突っ込んで持っている。帰ったら姿を消していた、なんてないよな……。


 掌に描かれた四角形やら円やらが折り重なった不思議な模様をチラと見た。なんでもエイルの祖国に伝わるおまじないらしく、二日酔いに効くらしい。今のところ効果の実感はまるでないんだけどね。


 家に一抹の不安を抱えながらも出勤時間ギリギリに異跡管理局に滑り込んだ。目覚めた瞬間に有休という二文字がちらついたけど、人間本気を出せばどうにかなるもんだわ。


「ああ、なんてこった! 僕のマホガニーのデスクが! それにヴィンテージのハンガーラックまで飲み込まれるなんて!」


 執務室に入ると、床を食い破るように開いたダンジョンの入口前で支所長が仰々しく騒いでいる。どうやらこの非常事態であっても関心事は自分のコレクションだけらしい。昨日は仕事を部下に押し付けてたらふく飲み食いしてたんでしょうが。その代償よ。


「あ! 阿沙加あさか君。キミ、昨日ダンジョンの中に入ったんだろ? そのとき僕の机を見なかったかい?」


 支所長は私を見つけると真っ先に私有物のことを聞いてきた。知らないわよそんなもん。部下に労いの言葉ひとつないんかい。こちとら疲労と深酒で体調最悪だっつーの。


「すみません、保管庫を探すのが精一杯でした」


 努めて体温を低く保ちながらあしらった。この人のダメ上司っぷりは今に始まったことではない。というか人としてどうかと思うレベルよね。


 私はとりあえず座りたくて無事なデスクの前に二日酔いの体を引きずっていった。うぅ、昨日は大人しく寝とけばよかったわ。遅刻の危機感でどうにか出勤はできたけど、きっつーい。


 なんとなく惰性でパソコンを立ち上げると、すでに帰宅した田中さんが片付けてくれた仕事の数々がクリップされていた。夜勤と昼勤の人が交代するときはこうして引き継ぎをするのだ。それにしても田中さん、むっちゃ働いてるな。アルコールでやられた頭にはなかなかヘビーな内容ね。


「あ、ヘリヤさん大丈夫でしたかー? 局内にダンジョンなんてマジうける」


 田中さんのびっしり書かれたクリップに目を回していると、小山桃こやまももがにやにやしながら近寄ってきた。


「田中さんも事故った後に大変でしたねー。あの人この前も窓口でタチの悪い探索者に絡まれてたし、ほんと運ない。顔も幸薄だしぃ」


 そのタチの悪い探索者が来たことを察して窓口から離れたのはお前だろうが。要領よく生きるのはいいけど、その陰で泣いてる人をディスってんじゃねぇ。


「残ったのがヘリヤさんでマジよかったですよ。色んな手配も済ませてくれたみたいで。ありがとうございますー」

「8割方田中さんがしてくれたから。小山さんもクリップに目を通しといて。あ、運搬業者の来てくれる時間わかる? クリップからは拾いきれなくて」


 私がパソコン画面を小山の方に向けると、

「私もまだ出勤したばっかりで。よくわかんないです」

 と手を振った。わからんなら調べんかい! くそ、それならこいつでも今すぐできる仕事を与えてやろう。


「それじゃ運搬時間とか私が調べるから、窓口お願い。田中さんが窓口縮小のアナウンスをホームページ上でしてくれてるけど、見てない人は来るだろうし」

「えー、苦情とか言われたらどうしよ。ヘリヤさんは窓口立たないんですかぁ?」

「業者の受け入れ準備が整ったら行くから。ね、頼んだわよ」


 小山はなおも何か言いたげだったけど、渋々窓口の方に行った。


 すごいわ、この支所の職員たち。執務室内にダンジョンが現れるなんて非常事態に、みんないたって平常運転。ああ、出社10分足らずでもうストレスが臨界点に達しそう。


 いや、ダメよヘリヤ。負の感情に振り回されるなんて愚の骨頂。労働の本質は健康的で幸せな生活を送ることでしょ。だったらその労働のせいで不健康で不幸せになるなんて馬鹿らしすぎる。


 私は支所長や小山の存在を深酒でやられた頭から押し出し、淡々と田中さんの仕事を引き継いでいく。ふむ、グループメールに運搬業者とのやり取りが残されてるぞ。


 昼前には保管庫を引っ張り出すために業者が来てくれるみたい。費用も新しく新調するよりよっぱど安い。……保管庫の中身だけでも先に運び出しておいたほうが安心かしら。運ぶ途中に保管庫の中で壊れちゃってもいけないし。


 でもなぁ、正直なところもうダンジョンになんて入りたくない。エイルと出会えたことはよかったけど、それでも私はあそこで恋人を失い、悲しい名前の由来で自尊心をぼろぼろにされた。


 そんな場所にわざわざ自分から戻りたくはないわけで。

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