第9話 おひさま

 心臓を鷲掴みにされたみたいだ。


「ヨル!」


 アポロはヨルに駆け寄った。


 ヨルが倒れていたのは、ガスマスクをつけていても危ないと言っていたエリアとの、ちょうど境目の辺りだ。


 アポロの声は聞こえたはずだけど、小さな体はピクリとも動かない。


 どこかでゴミ山の崩れる音がする。小さな爆発音と共に、バベルから新しいゴミが降ってくる。


「嫌だ。ダメだ。それはいけない」


 息が苦しいのは走りすぎたせいでも、充満するガスのせいでもなかった。

 

 抱きかかえたヨルの体はぐったりとしていて、少しも力がこもっていない。


 ブウンッと、すぐそばに転がるモニターが明滅して消える。モニターはまるで、力尽きる直前のひっくり返ったカナブンの足先のように、最後の力を振り絞って動かなくなった。


 1秒だって、こんな場所にヨルを置いていたくない。


「ボクらの家に帰ろう、ヨル」


 だけど立ちあがろうとしたアポロの足はもつれた。ヨルの手がアポロの服を、きゅうっと握ったからだ。


「ああ、よかったヨル。すぐに手当をしよう」


「だめだよアポロ」


「だめなもんか。大丈夫さ、ボクの救急キットがある」


 それでもヨルは手を離さない。それどころかむずがるように身体を捩る。ヨルの視線の先を辿って、アポロは顔を歪ませた。


「あれがあったら、アポロは帰れるんでしょう?」


 リアカーに、たくさんの精密機器が山と積まれている。やっぱりヨルは、ポッドの修理部品を探しに出たのだ。だけどそれにしてはずいぶん多い。


「ヨルは全部アポロにもらった」


 ヨルはそれだけ言うのも苦しそうだった。絞り出すような声には喘鳴が混じっている。


「喋らないで。少しでもここの空気を取り込まないように」


「名前も文字も」


「わかったから、ここから離れたらお話ししよう」


 それでもヨルは喋るのをやめない。


「ヨルはアポロがいなくなるのを考えると、胸ぎゅうってなる。でも寂しいって気持ちも、アポロにもらったから」


「ヨル、君は」


 気がついていたのだ。アポロがバベルに帰る意味に。それでもヨルは、無垢なまま喜んだ。喜んで、悲しくなった。


「ごめんねアポロ、ごめんね。アポロが帰れるだけで良かったのに」


 腕の中でヨルの身体が小さくなっていく。


「だけどやっぱり、ヨルも一緒に行きたかった」


「だから、沢山集めたんだね。もう一つ、ポッドを作るために」


「ごめんねアポロ。おひさまは独り占めしちゃあいけないのに、欲張っちゃった」


 ヨルが激しくむせる。陽光が塔に遮られて翳りをつくった。


「アポロはあったかいねえ。ヨルもまだ、あったかいかな」


 意識レベルの低下。思考の混濁。良くない兆候だ。


 いつだったか寝床に潜り込んだヨルは、「ひとは温かいんだね」と驚いていた。アポロが「ヨルも温かいよ」と返すと、より一層、瞳を丸くした。そのまま寝床から飛び出して喜んでいたっけ。


「ヨルは、アポロが大好き」


 その言葉を最後に、ヨルの腕が落ちた。アポロの視界もぐにゃりと歪む。当たり前だ。マスクがあってもこうなる場所に、自分はあとどれほど耐えられるだろうか。


 アポロは立ち上がる。ヨルを抱えたまま、もう片方の手でリアカーの持ち手を握りしめる。


 一度だけ振り返る。だけどやっぱり、これだけの部品ではもう一つポッドを作るには足りないだろう。


「嘆くな。こんな運命ならねじ伏せろ」


 アポロは足を前に進めた。


 早くヨルを安全な場所に運ばなければ。


「ボクも大好きだよ、ヨル」


 ボクは天才だ。頭どころか、身体だって特別性さ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る