第37話 知りたいの

 クワミさんと別れたあと、俺はクッカーやバーナー、フライパンを購入して、家路を急いだ。駅のホームに向かうと、丁度帰宅ラッシュのピークにかち当たる。圧死してしまうんじゃないかと思えるぐらいの混雑の中、頭の中をよぎるのはあの言葉。 


――同じ時間を生きてるってわけにはいかないからね。


 あれから、クワミさんが別れ際に言った言葉が、妙に頭の片隅にこびりついてしまった。


 ふと今までの人生が脳裏をよぎる。

 人生を変えるような経験もできないまま、あっという間に時間だけが過ぎていった。大人になり切れない大人になって、ずっと後悔していた。


 時間は有限。


 そんな当たり前のことに今更ながらぞっとする。だが、過去の自分の無力感に打ちひしがれるよりも、これから先の未来に対して妙な胸騒ぎがしていた。何か嫌な予感がする。そう思い、山城駅で満員電車から解放されると、駆け足で改札を抜けて、マンションへとひた走った。


 オートロックをくぐり、息を切らせて階段を駆け上がる。


「今日は早かったね。やっほー、元気?」


 いつものグリーン感満載のカナコがいた。通路の手すりに肘を乗せて、待ちくたびれた様子に、なぜか一安心してしまった。


「いつから待ってたの? ひとこと言ってくれたらよかったのに」

「うーん、まあ別に。大して待ってたわけじゃないよ」カナコは俺が手に持った紙袋に気付く。

「ああ、これ?」と購入したアウトドアグッズを袋から取り出した。「暫く、あそこで生活するんだろ? 色々便利なもの買ってきたよ。ほれ、調理道具とかさ。使えると思うぞ。いくら元カナブンでも今は人間だし、コーラばかりだと体によくないからな」

「そっか。助かっちゃった」


 あれ? なんだかしおらしい。いつもなら、『ラッキー、調理器具の他にはなんか買ってないの? スポーツ水ようかんとか? 甘いやつが好きよ』なんておねだりされそうなものだが。この前の映画館といい、どこかカナコの様子がおかしい。


 カナコは少し目を逸らして、「部屋、入ってもいい?」と甘える声をだす。


「お、おお。普段なら勝手に入ってくるのに。どうした?」

「べつに。なんか、わたしも常識ってやつを学んでるわけさ。エイジさん、疲れて帰ってきたのに、ずかずか部屋に入ったらちょっと迷惑でしょ?」

「ま、まあな」

「エイジさんってほんと鈍感だよね」


 俺が鍵を開けると、俺より先に靴を脱いで、ずかずか部屋に入っていく。


「また散らかしてるねー」と、楽しそうに声を弾ませて部屋を見回した。

「男の部屋なんてこんなもんだよ。散らかってるように見えて、手の届く範囲に色々あるってやつだよ。リモコンだって、いい場所に置いてあるだろ? 寝ながら消せるってやつだ。ちゃんと計算されてるのよ」

「なんか言い訳っぽいね」

「まあ、俺の部屋なんかカナコしか来ないしな。別にいいだろ」

「なにそれ」


 こちらも意地が悪いのだが、やっぱりカナコを揶揄うと楽しい。


「コーラでも飲むか? カナコに出会ってから、俺の冷蔵庫にも常時炭酸系をストックするように習慣付いちゃったよ」


 冷蔵庫には腐りかけのキャベツともやし、ウィンナー、ずらりと並ぶ炭酸飲料とエナジードリンクがお目見えする。よいしょとコーラを一つ手に取り、振り返ると、カナコは何も言わずに布団に仰向けになって目を瞑っていた。


「あれ? ひっくり返ったってやつか?」

「うん。そうみたい」

「そういえば、カナブンって本当によくひっくり返ってるよな。あれってどうしてなの?」

「カナブンってね、虫の中では比較的飛行能力が高いのよ。それで勢いあまって壁にぶつかるわけさ。エイジさんはカナブンが飛んでる姿、まじまじと見たことある?」


 ふと考える。言われてみたらないかもな。そう伝えると、じゃあ今度は観察してみてよとぶっきらぼうに言われた。


「早く」とムスッとした顔で催促してくる。


 やれやれ。「ほれ、起こすぞ」とカナコの手を取り、上半身を持ち上げようとするが――


「えっ、うわっと」


 掴んだ手を逆にカナコから引っ張られて、そのまま覆いかぶさるように密着した。


「ど、どうした、急に」


 俺は慌ててカナコから離れようとするが、カナコは掴んだ手を離さず、握っていない手を俺の背中に回してきた。少し汗ばんだカナコの柔らかな肌のぬくもりが、洋服越しからじんじん伝わってくる。


 俺もカナコも、心臓が猛スピードで動いているのがわかった。


 こうして体が触れ合うと、改めてカナコが人間、ひとりの女の子としか思えなくなる。あの、おかしな設定は理性とともに吹っ飛んでいく。

 何も考えられない。どうしたらいい。


 カナコは無言だ。息も少し荒い。俺も無言で少し息も荒く。


「あのさ、エイジさんはどう思ってるの?」

「ど、どうって……」

「わたしのこと」


 その問いは、静かな緊張感を伴って。


「知りたいの。エイジさんが、わたしのことをどう思ってるのか」


 どうって……。どう答えればいいんだ。カナコは俺の背中に回した腕に力を入れた。引き込まれるように、二人の体はより密着していく。

 どうしよう。俺もそこまで鈍感なやつじゃない。ここ最近のカナコはなんとなく様子が変だということは気付いていた。でも、あえて気付かないふりをしていた。なぜなら、それを口にしてしまうと、今までの関係性が全てが終わってしまうような気がしたからだ。

 それに、そこまで俺のことを想ってくれているなんて想像していなかった。


「わたしの見た目が高校生っぽいって理由だから? 年齢なんて気にしなくていいよ。適当にどうとでも言えるから」


 カナコの震える声に呼応して、空気が張り詰めて。


「じゃあ……。わたしが元カナブンだから? てゆうか、ずっと疑ってたでしょ。さわってもいいよ。わ、わたしも普通の女の子だよ」


 カナコは今にも消えそうな声でささやく。

 ちがう。カナコの気持ちに応えられない。決定的な理由がある。それは……。


「エイジさんは、まだ木掛さんのことが好きなの……?」


 木掛さんだ。そうだ。彼女だ。まだ木掛さんを好きなのに、カナコの気持ちに応えることはできない。でも、木掛さんからフラれてしまったが、もう終わったのだが……。


「何も喋らないならこのままでいてよ」


 だめだ。こんな感じで体を寄せ合っていたら変な気も起きてしまう。でも、何かとてつもない重力によって体を引き離すことができない。このまま我を忘れてしまいそうになる。


 それに――。


 この胸の感触、このぬくもり、この息づかい。


 今も記憶に残っている。


 何にもなかった、女性経験なんて0な俺に、恋愛経験値1を与えた、この行為。

 暑い日差しが照り付けるなか、あの日、俺たちはこうして互いに肌を寄せ合ったよな。


 あの時も。

 そっちから。

 いきなり。

 困惑した俺を無視して。


 カナコ――もしかして、おまえは。


 本当は――。


 その時。


 永遠とも思われる時間を切り裂くように、俺のスマホが『ちゃらららっちゃっちゃちゃ~』と、某国民的RPGのレベルアップを示す間抜けな音を鳴らした。



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