第三章 恋愛経験0は、何度も死んで立ち上がれ!

第11話 夜の里山、カナコのあんな姿

 その夜、俺はとある里山を歩いていた。


 とあるといっても、ここは標高150メートルにも満たない近所の里山。子供たちや近所の高齢者が気楽にハイキングするような場所である。


 木掛さんから突如として『最低ですね』と、人生で初めて突き付けられたパワーワードに、蚤の心臓の俺は軽いショックを受けてしまった。そのため、今日は残業をする気も起こらず、とぼとぼと訳がわからないまま頭を抱えて帰宅した。


 ドアを開けると、はらりとメモ書きが玄関に落ちた。


『里山にいます。カナコ』


 えらく達筆な文字の書き置き。どうやらカナコは自分の居場所を伝えにきたらしい。このシンプルな伝言。なんとなく蒸発した妻からの書き置きみたいだ。見た目は女子高生みたいだが、一体、彼女は何歳なんだろう。そもそも彼女に年齢って概念はあるのか?


 普段なら、この伝言に「了解」と心の中で頷くだけだ。さっさと風呂に入って、夜飯に冷凍チャーハンでも食べて就寝するのだが、木掛さんからまさかの一言を喰らってしまったので、平日の夜にも関わらずカナコに会いに行こうと身支度を整えた。


 里山はマンションから駅に向かい、そこから西に向かった住宅地の脇から入ることができる。俺の住んでいる山城市は、多摩川を越えた、人口五万人も満たない小さな街。そのため、他の市に比べて開発が遅れた分、まだまだ自然が残されている。


 九月に入っても日中の最高気温は三十度を超えている。アスファルトで目玉焼きが作れそうな焼け付く残暑でも、里山っていうのは不思議だ。生い茂る葉に遮られて昼夜問わず日陰になっている場所は、夜になると一気に気温を下げる。こんな小さな里山でも、街中と比べると嘘のように涼しく、心地よい緑の香りに包まれる。


 懐中電灯片手に三十分ほど林道を上ると、それは見えた。この暗闇の中、恐らく緑色をしているであろう一張りのテントが、少し視界が開けた峠に突如として現れた。


 カナコだよね?


 近所の小学生の体験学習以外で、こんな里山にテントなんか張っているのは彼女しかいない。俺の虫の勘ってやつだ。


 カナコは未だ起きているようで、小刻みにライトが揺れている。テントの外からも彼女がもぞもぞと動いている様子が窺えた。

 とりあえず声でもかけようか。多分、わざわざメモ書きを残すぐらいだから、今日は里山まで会いにきてねって言いたいんだろうし。


 だが、声をかけようとしたとき、一瞬躊躇してしまった。


 テントを開けたら――

 中にはカナコ、いや人の形をしたカナコではなく、虫の形をしたカナコがいたら、きっと俺は腰を抜かすだろう。


 いや、別に怖がる必要もない。なんだかんだいっても小さなカナブン。でも、今まで人として接してきた彼女が、夜だけは本来の虫の姿に戻っていたら、それはそれで何だか奇妙な怖さがある。

 余計な緊張感に手のひらに汗をかいて、恐る恐る声を掛けた。


「カナコ? カナコだよな?」


 返事はない。

 もしかして……。

 ごくりと唾を飲み込む。すると――


「あっ、ちょっと待ってー」といつもの甲高い声。


 その声にほっと胸を撫でおろす。必要のない冷や汗までかいて、喉が渇いてしまった。

 のだが――。


「もうちょっとだけ待ってー」


 カナコがテントの中でもぞもぞ動いている姿が闇の中で映し出される。

 テント内部のライトから映し出されたその様子は……一言でいえば、何となく虫っぽい。


 いや、カナブンっぽい。


 大きさは人間なのだが、女性特有の柔らかみのある肢体とともに、妙に虫の足っぽい長い棒がうねうね動いている。なんだか奇妙な感覚に襲われた。ひどくいやらしく、凝視してはいけないものを見させられている。そんな背徳感を感じてしまった。

 手に汗を握り、息を呑んで見守るなか、里山一帯に『あの絶叫』がこだまする。


「たたたた、たすけて――――っ!」

 テント内でどたばた、もぞもぞ。お約束のコントが登場。


 ああ、多分あれだろう。


「ああ、よかった、起き上がらせてくれ~」


 ジッパーを上げると案の定、カナコがひっくり返っていた。

 やれやれとカナコの手を握り、よっこいしょと上半身を起こす。


「はあ~、よかったよかった。助かっちゃった。なんか、荷物片づけてたら、急にエイジさんから声かけられたから、変に焦っちゃって」


 カナコは、箸やらトレッキングポールやらを手に持ち、可愛らしく舌を出した。

 どうやら、俺が虫の足だと勘違いした長いものの正体はこれだったようだ。なぜだか、妙に安心してしまう自分がいる。


「普段ここに住んでるの?」

「うーん、まあね。だって住むとこないし」

「一人でこんなところに住んで、ひっくり返ったら困るだろ?」

「まあ、そんときはそんときだね……」


 なんだか寂しそうにうつむくカナコ。何かを期待して、その続きを待つような甘えた目をしてくる。

 まあ……なんだ。

 なんだかんだでほっとけないんだよな。これしか思いつかないし。頭をがしがし掻いて、こう提案する。


「暫くうちに居候するか? 荷物置きになってる部屋があるから、そこ掃除してくれたら使っていいよ。その後、安く借りられるアパートでも探してあげるよ。ここら辺、賃貸相場安いから、贅沢言わなければ結構安く借りられるぞ。ずっと居候ってわけにはいかないから、バイトとかも一緒に探してあげるし。カナコは実家っていうのも無さそうだし、親元に帰れるってわけじゃないもんな」


 家出娘なら親元に帰せば一件落着なのだが、カナコは少し事情が違う。

 なにせ、もともと虫だし。

 たぶん。


 この提案に微かに頬を赤らめる。少しだけ怯えた目をしている。

 ああ、なるほど。その真意がわかった。じゃあ、こうも付け加えるか。心配させちゃかわいそうだもんね。


「もしかしてだけど、俺がカナコに変なちょっかい出すって思ってる?」

「……」


 カナコはこの問いには答えない。

 なんだよ、やっぱりかよ。

 はあ~と深いため息を吐く。


「もし、カナコが俺のことを疑った目で見てるなら、そこははっきりと否定するぞ。ちなみに俺は木掛さん一筋だから。まあ、今のご時世居候を提案だなんて、カナコからしてみれば怪しい社会人だと思うかもしれないけどさ。なんなら、寝る時は部屋に鍵かければいいよ。あと、カナコが風呂入ってる間は外で待っててもいいし。アパート探すまでの仮住まいってとこかな。でもコーラ飲むなら、買い物だけは手伝ってくれよ、そこは譲らないぞ」


「いい」


 カナコはきっぱりと俺の提案を拒否。


「わたし、ここがいい。だって、カナブンの妖精だし。森の中の方が落ち着くし」

「そ、そう。でも大丈夫か? さっきみたいにひっくり返ったら、すぐに助けてやれないぞ」

「……それは困る。助けにきてよ」

「うーん。俺も普段は働いているからな。なんか連絡手段持ってる? スマホは?」


 カナコは仏頂面で首を振る。


 なんとなく笑ってしまった。無鉄砲すぎだろ。そりゃ、しょっちゅうひっくり返るわけだ。うーん、しょうがないな。色々相談に乗ってもらっているし、なんかほっとけないし。そうだ、カナコにはアレを買ってあげるか。それがあったら、ひっくり返ってもなんとか自力で起き上がれるよな。どうせ金なんてもってないんだろうし。


 でも、金もないのになんで洋服やらテントは持っているんだ?

 まあ……、そこは目を瞑ろう。

 どうせ『ひょんなことで一式揃ったわけさ』って言われるのがオチだし。


 とりあえず、最後にこれだけは確認しとくか。


「こんなキャンプ場でもない里山に住んでいて、トイレや風呂とかどうしてるんだよ」


「……それ、きく? デリカシーなさすぎじゃない」


 どんと突き飛ばされて、ぴしゃりとジッパーを閉められた。



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