第12話 希望と不安
母が出て行ったことで、思いがけず父に変化があった。
残業がある日以外は定時に帰宅し、何を思ってか家事をするようになったのだ。
食事の用意だけではなく掃除や洗濯もやろうとする。
茜も時間があれば手伝うようにしていた。食器はしょっちゅう割られ、色移りするものも一緒に洗濯するで、とても見ていられなくなったのだ。
父のお酒の量も減ってきたように見えた。
これが希望の兆しなのかはわからないが、そうであってほしいと茜は願った。
期末テスト開けの日曜日、戸継先生と、佐々木さんの曾おじいさんのいる老人ホームへ行くことになった。
迎えにきてくれた先生は、ジーンズに白の袖なしブラウスというラフな格好で、またさらに近所のお姉さんといった感じだった。
ただ不安なことがひとつあった。
このきれいになった錠前が、どうにも佐々木さんのいうものとは違うような気がするのだ。
鍵を差し込む穴がなかった。確か鍵を差し込んで祈るとかなんとかではなかったのか。
佐々木さんの曾おじいさんに見てもらうしかないと先生はいう。資料室にはほかに錠前はなかったのだからと。
老人ホームの玄関で佐々木さんと初めて顔を合わせた。
「こんにちは、叔父さん。こちらが高橋さん。」
「よく来てくれたね。」「こんにちは。」
長身の佐々木さんは、灰色の短髪の頭を傾け茜に笑顔を向けた。
「今回はお世話になったね。ありがとう。」
先生よりずい分年上のようだけど、やり取りが兄妹にも見える仲のよさだった。
「お前、忙しいなんていって、むりやりこの子に押し付けたんじゃないのか。」
「いやあね、ほんとに忙しかったんだから、」
そういいあう二人の後を茜は付いていく。部屋は三階だった。
ドアを開けると、窓際のベッドの背もたれを立てて、外を眺めているお爺さんの姿が見えた。痩せた身体が枯れた木のように見える。
「こんにちは。」「あら、恵子ちゃんいらっしゃい。」
傍らにいた年配の女性が迎えてくれた。佐々木さんのお母さんだという。
紹介されて茜も挨拶を交わし、先生が布にくるんだ錠前を渡すのを見ていた。
お爺さんの青いパジャマの胸が、痛々しいほど薄く見えた。体調が悪いといっていたけれど訪ねてよかったのか。
不安そうに遠慮がちに見ている茜に佐々木さんのお母さんは、
「今日は、だいぶ調子よさそうなのよ。」といった。
梅雨は明けたのに外は薄曇りで時々細かい雨も降っていたが、窓からのぞく緑の木々に日が反射して部屋は明るい。
お爺さんはまったく動かず、外を向いたままだった。
佐々木さんのお母さんが耳元で呼びかけると、はっとしたようにこちらを向いた。
「おじいちゃん、ほら、これ、このお嬢さんがきれいに磨いてくれたのよ。
ずっといってたでしょ、あの錠前ですよ。」
メガネを渡され、よく見ようと顔を近づけしばらく一心に見ていたが、なにやらぼそぼそ聞き取りにくい声でささやき、首をふった。
とても喜んでいるようには見えなかった。
「えっと、うーん。そうなのね、」
当惑した顔で佐々木さんのお母さんは戸継先生を見る。そして、
「ごめんなさい。せっかくもって来てくれたのに、
これ、違うっていうの、おじいちゃん。」と申し訳なさそうにいった。
「ち、ちがうの、これ。」
見守っていた三人が同時に、困惑のまなざしを向けた。
茜は内心やっぱりとは思っていたが。
「そう、らしいわね。こっちの鍵はそうだけど、この、こっちがね。」
佐々木さんたちが、そばで何度もよく見るように声をかけるが同じだった。
「ひいじいちゃんの、記憶違いじゃないのか。」
と小声で佐々木さんがいう。
「そんなこといったって、お前、おじいさんが、違うっていうんだから、違うんでしょう。」
お母さんも戸惑っている。
静まりかえった部屋の中で、四人が四人共何ともいえない顔をして錠前を見ていた。
少し時間をおいてまた佐々木さんが話しかけてみるものの、やはり、違うと首を振るばかりだった。
老人ホームを出て幹線道路を、茜の家とは反対へ先生は車を走らせた。
十五分ほど行くと、その先にいちご狩りをさせてくれる施設があった。そこへ車を向けていた。佐々木さんのお礼だという。
いちご狩り用のビニールハウスの横にある建物が、最近できたばかりの、評判のデザートのお店だったから、茜を連れていってあげてといわれたのだ。
「あんなに、きれいにしてくれたのに、やっぱり、違ってたのね・・・」
ずい分とあなたに、申し訳ないって、叔父さんたちいってたわ。」
「いえ、いいんです。でもそうすると、本物はどこにいったんだろう。」
気落ちするより本物の行方が気になっていた。
林に囲まれた駐車場で車を降りた茜は、そこに見覚えがあった。
「あっ、ここ小学校の入学式の後、連れてきてもらったとこ。なつかしい。」
「あら、そうなの、親御さんに?」「はい。」
いちご狩りはその頃から始まっていた。大好きないちごをたくさん食べられると楽しみに行ってはみたものの、食べ過ぎてお腹をこわしたのだ。
この駐車場の向こうに確か釣り堀があった。
そこで、思い出したことがあった。
そう、あの日、帰りにその釣り堀を見に行ったのだ。
堀を囲む林を抜けたときの驚いた父。いや驚くというよりもそれは、なにか恐ろしいものを見たという顔だった。しばらく愕然として立ちすくんでいた。
そしてみるみる青ざめ、父は、母と茜を置いて車に駆け込んでいた。
家に帰るまで父は無言だった。
その日、ひとりで夜遅くまで出かけていた父は、そうとう酔って帰ってきた。
娘の小学校の入学式の夜のそんな父を、母は非難した。言い争いになったふたりを見たのはその時が初めてだった。
父が浴びるように酒を飲み始めたのは、あの日からだったような気がする。
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