第2話 五十年前 茜という名の少女の物語

 茜はいつもよりうんと早起きして、長い時間鏡に映る自分の姿を眺めていた。

 支度はできた。

 ゆっくり階段を降りながら、また、ひとつひとつに目をやった。

 白いブラウスに紺の上着とプリーツスカート、胸には赤いリボン。

 身に着けているただそれだけなのにやっぱり嬉しかった。

 嬉しかったがそんなことは表に出さず、務めて無表情で朝食のテーブルについた。そして、「入学式、来なくていいからね。」と父に告げた。

 怒るだろうと思ったが、父は、聞こえていないような素振りだった。ただ、湯呑を持つ手が少し震えたように見えた。

 流しに立つ母の表情は見えなかった。

 食事が終わるまで、父も母も何もいわなかった。

「行ってきます。」誰にともなく声をかけ、茜は式へ向かった。


  雪の多かった冬もやっと終わり、街はやわらかな優しい春の陽ざしに包まれていた。今日は誰にとっても幸福な一日に見えた。校門に吸い込まれていくいくつもの背中にさえ、緊張と期待とがあふれているように見えた。

 茜を見送った母は、自分の支度を済ませて出かけて行き、保護者席の一番後ろにそっと腰をおろしていた。

 

  翌日はこまごました案内や説明が続き、その後、講堂に移動して部活動紹介となった。

 野球部にバレー部、陸上部、卓球部、美術部、などなどそれぞれの部が次々前に並ぶ。それをぼんやり見るともなしに見ていたが、

「図書部部長、三年二組木村正太」という声にハッとした。

「年二回機関紙を発行している。文化祭で公開読書会を開催。本好きの君を待ってい

 る。」

 それは五分たらずで終わっていたが、一瞬、声の主を目で追い、案内の冊子をあわてて開いた。

 周りの声が寄せては返す波のように耳をなでていく。「あの人かっこいいね。」「野球部の先輩こわそう。」言葉の切れ端が遠くへ流れていく。

「図書部」

 どこかに必ず所属しなければならないといわれた部活は、地味で目立たないものにして、小学校の二年間やっていた図書委員をと思っていた。なのによく見てみると、委員会活動は広範囲の活動を行うため部活動に含まれるとあり、図書と名の付くのはこの「図書部」だけだった。

「申し込み用紙は金曜日までに提出」とあったが、茜は途方にくれた。

 

 彼と顔を合わせるのは気がひける。まだ二年しかたっていないのだ。彼にとっても忘れられない記憶のはずだ。あの時のみじめな思いは今も、多分これからもずっと消えないだろう。助けてもらっておきながら礼もいわずにいる自分に、嫌気がさしてもいた。

 ここは小さな街で、同級生は小学校からそのまま持ち上がりのものばかり。あの場にいたものは誰もかれも面白がって噂し奇異な目を茜に向けた。

 それを見ないようにこの二年間ずっとひとりで本を前に過ごしてきたのだ。

 教室にいなければ図書室にいた。いつもあの薄暗くてかび臭い、ホコリの舞う場所に身をひそめていた。そうやって自分はここでもやり過ごすのだと思っていたのに。

 結局申込用紙は締め切りになっても出さなかった。

 その後再三担任からは催促されたが、「すいません、ずっと体調不良が続いているので、もう少し考えさせてください。」と保留にしてもらった。

 

 図書室には行けないと思っていたけれど、一方でどうにも無性に覗いてみたくて仕方なかった。一週間もするとその気持ちが大きくなって、ちょっと覗いてみるだけ、それだけで帰ろうと、今日は靴箱から引き返した。

 場所は校舎の北側の奥だ。

 別に悪いことをしに行くわけでもないのに、人目をはばかり、入口の戸でさえ恐る恐る開けていた。

 当然だが小学校よりもだいぶ奥行きがある。なのに、庭に面して窓はあるものの、閉め切って厚いカーテンを引いてあるからか全体に暗い。人の気配も無くしんと静まり返っていた。ここが学校の一室とは思えないほどの静けさだった。

 左手に見えるカウンターにも人の気配はなかった。

 茜は通路を順に巡ってみた。

 いくつもの書棚に並んでいる本たちが眠っているように見えた。

 ずらりと並んだ古びた背表紙は大人の顔をしている。気後れして手が出せずにいたがその匂いに惹かれ、思わず立ち止まって深呼吸をしていた。

 

 入口に戻るとカウンターの奥に、入ったときには気付かなかったドアが見えた。

「資料室」と書かれた小さなプレートが上にある。

 ドアにはめ込まれたすりガラス越しになにかが動いた。誰かいるのだろう。

「うううんっと、」唸り声が微かにもれてきた。女性の声だ。中で何かの作業中なのだろう。きっと係の人に違いない。取りあえず貸出カードは作ってもらおうと思い、「話題の書籍コーナー」を見ながら、出てきてくれるのを待つことにした。

 何気なく一冊手にしてながめていたそのとき、「どん」と何かが床に落ちるような大きな音がして、衝撃でドアが開いた。と同時に「あああっー、」と悲鳴が上がった。

 

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