Lovely Dear Underground


 ウシオさんと過ごす時間が夢なのか現実なのか、実のところ私にもよくわからないのです。

 お会いするのはいつも真夜中ですし、私が靴を持って窓からこっそり約束の場所へ行こうとするとき、不思議と隣家の犬は吠えません。洗濯物を取り込んでいるときや花壇に水をあげている間には、ずっと不機嫌そうに唸っているような犬なのに。


 そのうえウシオさんと一緒にいる時の私はとても幸せだから。箸が転がるだけでも楽しくて笑ってしまいます。本当に夢のよう。

 大嫌いだった兄がお勤めのため家からいなくなったことも私の心に安寧をもたらした一因と言えましょう。けれど今となってはそんな些末なことはどうでもよいのです。


 今朝、親戚の静子姉さんから手紙が届きました。

 昔から大好きだった、可愛らしくて優しい静子姉さん。昔から物静かで引っ込み思案なひとでしたから、東京から松島へ疎開したとき意地悪な大叔母や従姉弟たちに虐められて辛い思いをしたそうです。

 空襲で家が焼けてしまい、終戦後も帰れず、長い長いあいだ下女よりも酷い生活を強いられていた静子姉さん。うちの近所にも東京から逃げてきた人は多くいましたが、その頃はまだ乱暴な兄も居りましたし、幼い私にはどうすることもできませんでした。


 そんな静子姉さんを救ってくれたもウシオさんです。本当に慈悲深くてお優しい方。私たちに救いの手を伸ばしてくださるときに感じた力強さも、此れからはもう大丈夫だと微笑むご様子も、さながら女神のようなご威光と、女王のような威厳に充ち溢れておいででした。


 静子姉さんは昨年、足柄の大きなお屋敷へ嫁いでゆきました。嫁ぎ先のお家はウシオさんの遠いご親戚で、新しい家族は皆親切だと聞いております。手紙には生まれたばかりの赤ちゃんの写真や、幸せそうな家族写真が数枚添えられていました。


 私がウシオさんとお会いできるのはいつも夜ですが、待ち合わせ場所は色々です。今日は「でこぼこ松」で落ち合う約束でした。私の家の周りは温泉宿や民宿が多く、夜中に酔っぱらって帰って来るお客さんも多いので、道が真っ暗ということはほとんどありません。

 とはいえ、ウシオさんと約束を交わした日に、私はそのような千鳥足の湯治客と出くわしたことがありません。このような不思議も彼女との逢瀬が夢ではないかと疑ってしまう要因のひとつです。


「でこぼこ松」は大昔に根元の土が落雷で抉れたと言われていて、松の根っ子が椅子のように出っぱっています。

 私たちはそこに並んで腰かけてお喋りをするのです。松の根に座ると視界が大分下がりますから、まるでぽっかりと空いた世界の穴の中に二人きり、ひっそりと内緒話をしているようです。


 ウシオさんは私のことを「サデイナ」とお呼びになります。それは私の名前が稲本いなもと貞江さだよだからに違いないのですが、ウシオさんしか使わない呼び名ですから、私にはたいそう特別な響きに感じられました。

 ウシオさんの名前もまた御本名ではありませんが、最初からそう呼ぶようにと言われておりました。


「サデイナの兄貴はちゃんと手前てまえの役に立っているよ。親父にもそう言うと良い」

「まあ、ありがとうございます。兄にとっても幸せなことですし、父もきっと鼻が高いでしょう」


 嘘です。父も母も兄のことなどもう忘れています。

 狂った獣のようにところ構わず暴力をふるう兄を、父も母もとっくに持て余していたのです。誰も「万歳」と言わないだけで、兄がいなくなってひそかに喜んだのは私だけではありません。


 お喋りをしながら、私とウシオさんはいつも想像の街を造って遊びます。空想の街はこの世界の裏側、つまり地底世界にありました。私達は図書館や病院、学校、それからお菓子のお店に純喫茶、色々なお店を考えては並べるのです。

 大きな病院の隣には広い公園を。洋服のお店と帽子のお店は一箇所に並べてセーラー通りと名付けました。セーラー服を着た女学生が沢山集まる場所だからです。

 ふざけて変なお店を作ったりもしました。一年中定休日で何を売っているのか誰も知らないお店や、自分の誕生日にしか入れないお城などです。


 けれど、私はまだ母ほどきちんとお化粧をしたことがありませんので、お化粧品を売る店については保留にしました。


 地味であか抜けない私とウシオさんはどこからどう見ても正反対でした。

 ウシオさんはいつも真っ赤な口紅を付けていらして、口角を上げて笑うと顔に赤い三日月が浮かんだようになり、私はいつも見惚れてしまいます。

 髪色も不思議な白色で、初めてお見掛けしたときは思わず目が釘付けになってしまいました。根元は暗い金色で、毛先にかけてだんだん白くなっています。もとは黒色の髪であるのを、アルカリを使って徐々に色を抜くのだと聞きました。


 その白い髪の間から覗く黒曜のような瞳の、なんと美しいことでしょう。


 そうしてウシオさんは鮮烈な白と赤と黒をしたがえてらっしゃるのです。私にとってはもはや世界中の白も赤も黒も、ウシオさんを彩るために在る色なのです。

 ウシオさんは手指にも染料を付けていらっしゃいました。刺青ではないのでときどき色や模様が変わります。手指を染めるのはアビシニアという遠い国の古いおまじないだと聞きました。

 ウシオさんご自身も博学ですが、ウシオさんのお父様も異国文化に詳しい方だといつか聞いたことがあります。狭い町に住んでいると、そういう話は自然と耳に入って来るものです。


 とはいえ、ウシオさんがそのようなご両親を取るに足らない人間と見做しているのは明らかでした。私は最初こそ、髪にアルカリを塗ることなどもご両親から強要されていらっしゃるようで痛ましく感じたものですが、ウシオさん御自身のお言葉を拝借するなら、現在のご両親はすっかりただの『木偶』なのだそうです。


 ウシオさんは不思議な模様の描かれた指先で土に触れ、サデイナ、と機嫌良く歌うように私を呼びました。ウシオさんのお声は静謐な響きを含んでいて、この世の誰にも似ていません。


「今日は新しい教会を作ろう」


 私は首を傾げました。空想の街には既に教会が二つあったのです。その上、そのうちの一つは私達の街に最もはじめに配置したものでした。

「最初に置いたのは生まれてくる者を祝福する場所さ。次に置いたのは罪人に許しを与える場所だ。生きている人間はみな罪人だから、生者のための場所と言えるだろう。今日作るのは死人しびとのための教会さ。教会の地下深くには美しい墓場が広がっているんだ」


 ウシオさんの紅い三日月のような口唇に見惚れながら、私はほう、と溜息をつきました。

 地面を掘って死んだ人間を埋める様子を、私は幼い頃に見たことがありました。おそらく彼らは戦地から帰還した兵隊さんだったのでしょう。彼らはとても慣れた様子で、一連の作業は淡々と進められました。

 むくろとは、死者とは、これほどあっさりと人ではないものとして扱われるのか。当時はそう思い、何か希望を失ったような気がして胸が痛くなったものです。埋められたその方もきっと、願って死んだわけではないでしょうに。


 けれどウシオさんの世界には、死人が人の尊厳を保ったまま安らかに眠っていられる場所があるのです。なんと慈愛に満ちた美しい世界でしょうか。


 私とウシオさんがこれまで作ってきた空想の街は、そんな死者のための王国だったのです。


「私もその世界がいいわ。天国や極楽はお年寄りが盆栽を楽しんでいるような静かすぎるところで、ラジオだって無さそうな退屈な場所に思えるんですもの」

「サデイナはいつかそこへ呼んであげる。手前が迎えに行くよ。連れて行ってあげる。ずっと一緒にいよう」


 私は嬉しくて嬉しくて、両目から少し涙が零れました。


 これまでも、私はウシオさんのためなら何でもできる気がしていました。けれどこれからは、どんな困難もウシオさんと、さらには私自身のため。私たちの美しい世界のためなら、どんな無理難題が待ち受けていても解決できる気がしたのです。そのとき私の胸の中に、何か熱いものが宿った気がしました。

 それを正直に告げましたら、ウシオさんは可笑しそうにくっくと笑いました。


「それは光に違いない。違うか? 手前は光だから。サデイナの心の中に手前がいるんだろう。ただそれだけさ」


 言われてみれば、確かにその通りです。私もつい可笑しくなって笑ってしまいました。


 ウシオさんはまさしく真っ白な光でいらっしゃるのです。私たちが永遠のときを過ごす地底世界の創造神であり、あるいは死者の魂や私達を統べるしたたかな王であり、本来なら太陽の届かない地底の奥底を温かく照らしてくださる唯一無二のきらめき。


 少しへんてこな、けれど可愛くて愛おしい私たちの地下の王国。深い深いその地へ行くことが約束されている私にはもう、怖いものなど一つもありはしませんでした。













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