第5話「それはビターな大人のクレープ」(後編)

「私は今、とてもひどいことを口にしている。だが、これが偽りなき私の本心だ。……わがままな親ですまないね。ただ、それでも最終的に決めるのは君達だ。希美の幸せを願っての言葉ではあるが、これは私のエゴであるし、私の価値観でモノを語っているに過ぎないことも理解している。だが、私の気持ちを踏まえたうえで君には真剣に希美と向き合ってもらいたいのだ」

「……はい」

「世の中、平等とはいかない。環境一つで優劣が決まり、努力は報われないだろう。それでも、私は希美に幸せになってほしいんだ。……だから、君の気持ちを踏みにじった。君が良い人であるから、私の話を受け止めてくれるだろうと思ったから話をした。だから、これは私のわがままだ。……でも、だからこそ君なりの答えを出してほしいとも思う」

「……はい」

「……すまなかったね」


 そう言って俺のことをまっすぐ見据えてきた希美の父の顔を俺は忘れることができない。

 切なそうに辛そうに、自身を責めているかのようなその表情を俺は生涯忘れないだろう。



 ――そんな過去を思い出し、俺は飲み干した缶コーヒーを地面に置いた。



「医者に、なれたんだな」


 隣に座る、すっかり大人になった元彼女を前に、少し寂しさを覚えた。

 俺はほかに言葉が思いつかなかった。


「先輩は、今、何してるんですか?」

「俺は……しがないサラリーマンだよ」

「そう、ですか」


 しばらく流れる沈黙が、どうにも心地悪かった。

 でも、俺にはそれを打ち破る勇気はなかった。

 希美の今を聞くのが怖かった。

 もう、幻想の中の存在にしておきたかった。

 なのに……。


「先輩は、彼女とか……いえ、結婚されているんですか?」

「え?」


 希美の真剣なその表情が、どうにもいたたまれなかった。

 別に何かを期待しているわけではない。

 わかっている。

 希美も自分の夢を叶えたのだ。俺が今、幸せなのかを聞きたいのだろう。


「俺は……」


 ここで事実を言うのは簡単だ。直面している辛さとか、理想通りにはいかない日々とか、そんなものを赤裸々に語ってしまえば楽になるのかもしれない。

 それでも、それは逃げている気がした。

 自分の決意と希美の決意を否定しているような気がした。

 だから……。


「ああ、結婚……してるよ」


 そう答えた。


「そう、ですか」


 希美の表情が少し曇ったような気がしたが、それはきっと俺の幻想だろう。そうであってほしいという願望が俺を錯覚させたのだ。


「先輩……」

「……なんだ?」

「空き教室で私をフッた後、友達と私の話をしていたの、覚えてますか?」

「ああ、覚えてるよ。……お察しの通り、あれはわざと聞こえるようにやったんだ。友達に協力してもらって。……希美が俺を吹っ切れるように……」

「……やりすぎですよ」

「ああ」


 今考えるとそう思う。でも、あの頃の幼稚な俺には、他の方法が思いつかなかったんだ。


「先輩が元気そうで何よりでした」


 そう言って、希美は立ち上がった。


「行くのか?」

「はい。仕事が残っているので」


 淡々とそれだけを言って、希美は屋上を去ろうとドアに手をかけ、


「先輩。さようなら」


 ぼそっとこぼした希美の言葉が聞こえて、俺の心は握りつぶされるように痛かった。

 去っていく希美の足音と、ドアが閉まる音が俺の中で反響する。

 何か、絶望のどん底に落とされたような気がして、俺はただ、自分の陰を見つめることしかできなかった。

 立ち上がることができない脱力感にさいなまれ、何も考えられなくなっていると、俺の陰にもう一つの陰が重なる。

 ふと顔を上げると……。


「久しぶりだね」

「……お久し、ぶりです」



 希美の父が立っていた。

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