第6話「変わらないのはクレープの味」


 久しぶりに先輩と話をした。


 少しやつれたような大人になった先輩は、やっぱりかっこいい大好きな先輩だった。

 でも、やっぱり十年という時間の壁にはどうにも抗うことができない。


 ……できなかった。


 先輩の心はすでに違う人のところにあって、もう私に向けられていないのだと思うと心が張り裂けそうだった。


 泣きそうになるのを必死にこらえ、階段を下りて行く。

 今は仕事中だ。切り替えなければ。

 自分に言い聞かせるように、そう何度も繰り返す。


 廊下を歩き、診察室へと向かう時間が迫ってきているのを確認していると、点滴をつけた老人がおぼつかない足取りで病室から出てきていた。


「どうされましたか!」


 あまりにも危なっかしく、今にも倒れそうなので駆け寄り手を貸す。


「ああ、すまないねぇ……」

「っ! お爺、さん……」


 見間違えるはずもない。そこにいたのは、先輩のお爺さんだった。


「……。私が耄碌もうろくしたのでなければ、希美さん……で間違いないかな?」

「はい」

「おぉ……大きくなって、と言うのもおかしいかねぇ。本当に大人になって……お医者様にもなれたのかい」

「はい。おかげさまで。とにかく危ないですから病室に戻りましょう」

「……だが、その前に公衆電話を借りたいんだ。あいつに伝え忘れたことがあってね」

「伝え忘れたこと、ですか?」

「ああ。この病院に希美さんがいたと伝えなければならん」

「え?」

「先ほど希美さんの姿をチラッと見かけたもんでね。私の見間違いかもしれないとは思ったが、伝えなければと思ったのよ。こうして確信が得られたのだから余計にねぇ」

「あ、いえ、それは大丈夫です」

「ん? どうしてだい?」

「先輩にはさっき会って話をしましたから」

「おお、そうかい。それは安心した」

「ですから戻りましょう?」

「……面倒かけてわるいねぇ」

「いえいえ」


 そのまま、お爺さんをベッドに寝かせると、


「では」


 とだけ、伝えて行こうとしたのだが。


「希美さん。忙しいとは思うけど、一つ良いかね?」

「なんですか?」

「あいつとはどうなった?」

「え?」


 言っている意味が解らなかった。


「ああ、すまないねぇ。あいつに嫁がいないからって希美さんにいないとは限らないし、そもそもお医者様になるほど頑張ったんだ。周りには良い人もたくさんいるのだろう」

「……え?」


 何を言っているのかわからなかった。あいつにお嫁さんがいない? でも先輩は結婚してるって……。


「希美さん? どうかしたかい?」

「先輩は、ご結婚されているんですよね?」

「あっはっは! 何を言いだすかと思えば……希美さんと別れてからというもの、彼女の一人も作らないんだよあいつは。いつまでたっても希美さんのことが忘れられないのか……まったく未練がましい奴で……」

「でも、先輩が結婚してるって自分で……」


 私の言葉に、お爺さんの表情はみるみる真剣なものになっていく。


「……それは本当かい?」

「はい」

「……はぁ。あいつは正真正銘のバカたれだ! この期に及んで希美さんのためだと思って嘘をつきやがったんだっ!」

「……それは、本当ですか?」

「ああ! 間違いねぇよ!」


 確かに。先輩はそういう人だったと思いだす。

 まっすぐで、自信がなくて、優しくて。

 私のことになると空回りをしてしまう。

 そんな先輩が大好きだった。

 でも……。


「でも、私も良い歳です。それに、私は自分の力不足で先輩のことを傷つけてしまいました。先輩を信じることもせず、先輩の気持ちも考えず、誰かのせいに、何かのせいにして、そうやって先輩を傷つけてしまったんです。だから……」


 私にもう一度先輩のところへ戻る資格は……。


「馬鹿言ってんじゃないよっ!」

「っ」

「希美さんみたいな素敵な人がほかにいてたまるかいな! 十年以上もあのころと変わらずそうやってあいつのことを想い続けてくれている。それだけで希美さんは、あいつにはもったいないくらいの人だってことは誰だってわかるんだ」

「お爺、さん」


 私に訴えかけるように、お爺さんから絞り出される言葉は、強く暖かかった。


「私ももう長くない。なんだかこうして未だに生きちゃいるが。今回のように運ばれたりもした。……自分のことだ、よくわかってる」

「……」

「希美さんが、あのバカたれに愛想をつかしたってんなら、当然だから何も言わねぇよ? でも、そうじゃないなら……」

「……それでも」


 それでも、この年になっても先輩の気持ちを汲み取ることができなかった。いや、できなかったとしても、怖がらず、逃げずに、もっと聞くことだってできたはずだ。なのに逃げたんだ。そんな私に本当に資格があるのか……。


「希美さん!」

「は、はいっ」

「自分に自信がないならそれでも良い! それも希美さんの長所なのだろうさ! けどなぁ……後悔は二度はいらないと私は思うぞ?」

「っ!」


 後悔。先輩のところに行かなかった後悔。先輩と向き合わなかった後悔。努力を怠った後悔。我慢と偽って逃げ続けた後悔。


「希美さん。これは老人のわがままだけどね、あいつの隣にいてくれるのが希美さんであるのなら、私は安心だ。もし、自分に対して負い目があるのなら、老い先短い老人の最後の頼みだと思って聞いちゃくれないかい?」


 お爺さんの優しい笑顔に、私はいてもたってもいられなくなった。


「はいっ!」


 年甲斐もなく、勢いよく病室を飛び出そうとして立ち止まる。


「お爺さん。私は私の意思で、先輩のところに行きます。最後の頼みは後に取っておいてください。必ず、また先輩と一緒に伺いますからっ!」

「……あっはっは! ああっ、そうしとくれ! 待ってるよ!」

「はいっ!」


 私は走り出す。

 あの時とは違う。


 先輩との離別のためじゃない。

 先輩と一緒にいるために、私は走り出した。

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