二人が談話室へ戻ると、蟠桃の姿だけが見えない。

 見した煝煆が、旦那は?、とイロハへ問えば、

「出港手続きに、また波止場の方へ出向きましたよ。まもなく、この船も動き出すでしょう。」

「それですがの、」黒野も覚えていた疑問を口にしたのは、守谷だった。「この船には我々や黒野さんしか乗り込んでおらんようですが、船員の類いは、」

 イロハは、おやおや、浮世離れも貴男のような方には美徳なのでしょうか、と余計な一言を述べてから、

「我ら以外に、一人も居りませんよ。技術的委細は煝煆や蟠桃の方が詳しいでしょうが、☆△□王国の港へ、この船は自動的に移動します。」

 座ったままの白沢が、発言の為に手をすくりと伸ばして、

「いや、守谷が世間ズレしているのは別に否みませんが、

「『世間れ』は、俗世に精通している事を指す言葉です。」

 即座イロハに腰を折られた白沢が、検めるような視線を黒野へ送ってくる。

 彼が仕方なく、うんうんと頷けば、白沢は溜め息に続いて、

「ネイティヴやそれを子飼いにしている者に、学語では敵いませんね。

 会合の目的に鑑み、婦人イロハ、貴女の御指摘には一応感謝しますが、それはともかく、船員も無しに海外渡航が出来るだなんて、私も聞いた事無いですよ。どういう仕組みか教えてくれ、と願ってもどうせ蟠桃に聞けと言うのでしょうから、そこは差し控えますが、それにしてもそんな、一般的でない何か素晴らしい最先端の、どうせ大層高くつく技術をこんな私的旅行にわざわざ用いるだなんて、それも貴女の財布からだなんて、もしかして、何か妙な事を企んでいるんですか?」

「邪魔者を、排除したいのです。」

 この、やや冗長だった質問をせせら笑うかの如く模糊とした短い返答に、白沢が多少面喰らうのを確認すると、彼女は満足そうに、

「私ではなく蟠桃に強請られた事ですが、新顔の不意安さんも招き入れるのだから、今回はどこまでも奮発しよう、という話になったのです。折角世から離れて皆さんと論議へとっくり耽ろうというのに、などが同乗していては、いかにも片手落ちではないですか。」

 知識人然とした、手に職を持つ者を侮るような発言に、議員らしからぬ――或いは相応しい――危殆な傲慢を黒野が嗅ぎ取っていると、突然彼らを、足許の揺らぐ感覚が襲った。

 座が響めく中で、彼だけが。エレヴェーターが動き出す時の感覚。電車が発進するときの感覚。即ち、古典力学の初等部分に登場する割に、現代的な社会でしか覚える事の難しい、加速する系を奇襲する慣性力。

 蹌踉めいて壁へ手を突いてしまっている煝煆が、揺れの静まってから、そうか今のが、と怡然と口走るのを、聞き咎めた氷織が何か述べようとしたのだったが、丁度それと同時に蟠桃が部屋へ駈け込んで来た。

 息を多少荒げた彼は、きょろきょろしてから、残念そうに、

「なんだよ、収まったか。……狼狽えるアンタらを見るのを、楽しみにしていたのによ。」

 お前等夫婦、やはりロクな死に方を、と煝煆が毒づいた後に、黒野から、

「蟠桃さん。結構な加速度を体感しましたけど、そんなに速度が出ているんですか?」

 蟠桃は、話の分かる相手への喜びを隠さぬ様子で、

「おお、そうとも。ウチの国に有る最速の、……『船』、と呼んでいいのか? まぁとにかく、最速の渡航手段なんだよ、今俺らが搭乗しているのは! 後で外に出て、まぐるしく駈け去る景色を拝んでみるといい。ただ、海へ落ちたらとても拾い直せんから、藻屑になりたくなきゃ気を付けろよ。」

 遠慮しておきますよ、と、黒野が出来る限り生意気に聞こえるように返すと、イロハが夫の肩をつついていた。

 背丈の殆ど変わらない――なんならイロハの方がやや高い――夫婦は、眼を合わせると、

「蟠桃。思ったよりも、早く済みましたね。先の検吏の口振りからすると、相当梃子摺りそうでしたが、」

「ええ、」

 蟠桃はそう述べつつ歩み進み、手近な椅子を、反動で前脚が浮くほど大袈裟にどっかり占めた。苦労させられましたよ、という、妻への雄弁な所作。

「馬鹿正直に付き合っていると、どこまでも出港が遅れそうでしたのでね。まぁ、生き物を持ち込むなと皆へ釘を刺しておかなかった俺が悪いんですが、とにかく堪ったものではないと、色々検吏相手に喧嘩したり交渉したりしたんですよ。」

 追って来て自分も座ろうとするイロハの隙を衝き、不意安から、

「梃子摺りそうだった、という話と、それを切り抜けたという話。それぞれ面白そうですが、詳しくお訊きしても?」

「まぁ、大した話じゃないさ。魂の個数が事前の申請と一致していなかった船舶――船舶なのか?――は、その後にちゃんと数を一致させたとしても、通常よりも徹底的な再検査をしないといけないんだと。徹底的と言っても、測定は船外からの作業ですぐに済んで、値解析の方に時間が掛かるというのだが、……彼奴等冗談じゃない、半日待てとか言い出しやがった!」

 これを聞いて、申し訳なさげに身を少し沈める白沢と、完全に平然としている氷織の様子は、ムスリムといえど生来でない事でか、黒野らへも理解しやすい倫理観も併せ持っているらしい夫と、一転此方はムスリマらしく、まぁそれも神の計らいでしょう、と、なんとも思っていないらしい神秘家の好対照となっており、黒野には興味深く映ったが、蟠桃は特に気付かない様子のまま、

「そこで俺は、冗談じゃない、解析は後回しにしてとにかく出港させろ、と言ってやったんだよ、」

「え?」日頃鷹揚としているイロハが、久々に黒野の前で駭然を見せつつ、「そんな、無茶が通ったのですか?」

「ええ、一応。ただ、条件付きにはなりましたが。

 解析結果が万一陽性、つまり渡航不許可となったら、その時点で港へ引き返して来い、とのことで。」

「ああ、成る程。……しかし、どうやって、洋上の我々は解析結果を知るのです?」

「『無線機』、と言って分かりますか?」

「……さあ?」

 ここまで衒学をほしいままに振り回していた挙句、漸く多少のかわいげを見せたイロハへ、夫は鄭重ていちょうに、

「まぁ、武器軟膏による経度特定の、まともなヤツです。あんな妄想ではなく、本当に、陸地と信号を遣り取り出来るのですよ。」

「え、電気も無いのに?」と、黒野がつい口を挟めば、

「電気が使えないなら使えないで、色々手は有るのさ。デジタルはちと厳しいが、アナログな演算や通信でいいなら、魔術で賄える場合も有る。――君に仕組みを講義する暇が無いのが、残念でならないね。」

 そこから蟠桃は、勝手に首を傾げて、

「あ、いや。モールス信号に倣っているから、デジタルといえばデジタルか?」

「どうでもいいだろそんなこと、言葉の問題だ。」と、一応筋の通った指摘をしつつ、立ち上がった煝煆は、「それより、その無線機とやら、私や塔也も拝ませてもらっていいかい? お前に万一が有ったら、他の誰かが扱わねばならないんだろ?」

「おう。」応ずるように立ち上がって、「それは、こっちからも頼もうとしていた話だ。黒野君は俺らの言語が分からんのだからどの道手に負えんだろうが、装置自体については理解してもらっておいた方が良いかもな。一から不意安に教えるよりはマシだろ。」

 何故か突然、技術にくらき者の代表として挙げられた不意安は、ふ、と吹くように笑ってから錫杖を琅然と抱き寄せつつ、では貴方方へは、今度「十住毘婆沙論」についてでもたっぷり講釈して差し上げますよ、と返しながら、一応は莞爾と三人を見送ってみせた。

 ちなみに、この不意安の反撃を聞いた煝煆の、眉が苛立たしげに蠢いた事について、蟠桃や黒野は気付かずじまいで、彼らはただ無邪気に、技術の話をする為に無線室へ向かったのである。

 

 再び第二階層の部屋の一つへ連れて来られた黒野は、そこの怪しげな光景に目を奪われた。数多の、金属質で角張った装置が壁面を覆い尽くしているのだが、最も目立っていたのは、スティームパンクを思わせる、くすんだあかがね色の金属――元アルケミストの煝煆に訊ねれば正しい金属名を教われるだろうかと、彼は少し思った――で作られて床へ据えられた大箱で、蜘蛛の脚のような配管をそこから伸ばしたり、また逆に纏わりつかれたりしつつ、暗く巨きな藍色の覗き窓を不気味に光らせている。黒野はそれを見て、本日の為に慌てて取り込んだ知識の一つ、カーバの黒石の姿を思い泛べるのだった。

 そして、その巨大な青き一つ目の少し下には、間抜けな口のような、一文字の隙間が空いており、初見で憶えた不気味さが脳裡を過ぎ去ってしまうと、全体的には、愛嬌の有るように見えてこなくもない。

 蟠桃は、得意そうに指差しつつ、

「あの、あおぐろい球面の埋まっている赤茶色が、くだんの〝無線機〟だ。」

「ふうん、」眉を興味深げに寄せつつ、「で、いざ何かを受信したらどうなるんだ? 我々は、それに気が付けるのかい?」

 そう述べた煝煆へ、蟠桃が振り返りつつ、

「〝現代〟的な電話機のように音でも鳴らせれば良かったんだがな、残念ながらそれはまだ難しいらしくて、まぁ恐らく、郵便受けのごとく、気が付いたら何か届いているという運用になるだろう。」

「……具体的には?」

「何かを受信した暁には、あの窓が光るんだよ。……ああ、此処だけでなく、確か一階の大部屋にも通知装置が有った筈だから、議論の最中ならそれで気が付けるかもな。」

「光るって、どのように?」

「丁度、青いセロファンを貼ったランプが点燈するかのごとく、と光るんだ。」

 ふんふんと頷いていた煝煆が、矢庭に、反った指で指し示す。

「あんな風に、かい?」

 蟠桃は、慌てて装置へ振り返り直すと、ひゅう、と、軽薄な音を口先から飛ばした。彼も「窓」と呼んだ、巨大な目玉のような硝子部分が、毒々しく耀いている。

 黒野はその、鼓動のような律で瞬きを繰り返す、妖しき青光を暫く見惚れたくなっていたのだが、しかし、欣然と駈け寄った蟠桃が庇となってしまったので、仕方なく、煝煆と共に装置へ歩み寄った。

「おうおう、来た来た、」

 昂奮している彼へ、逆にどこか冷やかされた様子の煝煆が、

「まさか、お前も初めて操作するのかい?」

「おうとも。いやな、この手の装置は、俺ばかり気合入ってても使えないからな! さんざん口説いた挙句漸く海運庁が腰を上げやがったから、今年になって、どうにか港に発信機が導入されたんだよ。これで、ますます本邦の貿易や漁業も発展するってもんだ!」

 黒野も覚えた感想を、溜め息をいた煝煆が代弁する。

「そんなたのしげにされると、国益がどうこうと言うよりも、お前個人が新しい玩具で遊びたかったようにしか見えんが、」

「まぁ、そんなモチヴェーションもゼロではないさ。何せ、神官だしな。」

「まさか、……今日の出港トラブルも、こうして受信を体験する為に?」

「馬鹿言え、」憤然と言い返そうとしたのかも知れないが、しかしあまりに愉しげに装置を撫で回しているので、まるで上手くいっていない様子で、「流石に、そりゃ勘定が合わんぜ。……全く、いや、俺が悪いんだろうが、しかし、事前に言ってやらないと鶏なんか持ち込む奴が出て来るだなんて、どう想定出来たものかねぇ。異教徒、というか、そもそも宗教なんぞに入れ込むような奴はまるで分からんよ。」

 そう文句を述べつつ、漸く探し当てた装置のツマミを、蟠桃はバチンと右へ捻った。一文字の可愛げの有る開口部が、詰まったような音を漏らしつつ紙葉を吐き出してくる。

 黒野がつい、「ファクシミリみたいですね、」と漏らせば、まるで神から恵みの雫でも受け取らんとしているかのように、怡々いいと手を差し出している蟠桃は、

「いや、そんな、図画を送れるだなんて高級なものじゃないさ。モールス信号と同じ理窟で、アルファベット情報を伝えて印字させる、……まぁ、せいぜい電報みたいなものか?」

 送り出しが止まると、明らかに紙質の悪いそれを、彼はナイフで切り取った。装置の方で切断してくれる訳でもなく、また人間が切らねばならないにしても排出口に刃が付いてない辺り、如何にも洗煉されておらず、成る程、確かに最近漸く実用化された技術なのだろうなと黒野が思っていると、蟠桃は、まるで卒業証書をもらった小学生のごとく、誇らしげにその紙葉を、明るい天井へ透かすのだった。

「さあ! ……ええっと、」

 質の悪い印字を、嬉々と読み始めた彼であったが、しかし、すぐに、その表情が暗くなる。

「……あ?」

 そう、眉を絞りつつ固まった彼を、見かねた煝煆は、一人で楽しむなよとでも言いたげに受信紙を引っ取ってしまう。

「どれどれ、」と読み始めた、彼女の昂奮した様子にも、やはり、技術や科学を受け持つ神官らしい好奇心が表れているよなぁ、と思いつつ、黒野は、

「で、なんて書いてあるんです?」

 しかし、蟠桃のことを腐したばかりの彼女も結局、そこに呪いの呪文でも書いてあったかのように、紙葉を手にしたまま凍りついて絶句するのだった。

 解凍されたのは、火術師らしく(?)煝煆の方が先で、

「おい蟠桃!」悲鳴のような声。「どうなってるんだ、……、おい!」

 渋面を極めつつ、蟠桃がかぶりを振る。

「あー、これは、……これは、あれだな、……これは、」

 あまりの衝撃に学語の語彙が混乱してしまったらしい彼の、深い周章は、それなりに永く付き合っている黒野も初めて目にするものだった。

 地面へ取り落とされた、亜剌比亜語よりは文字らしく見える、しかし結局一字たりとも読み取れない受信紙を無為に見詰める事しか出来ない黒野に、気が付いた煝煆は、それを拾い直して、顰め面のまま読み上げ始める。

 一息吸ってから、

「貴船において、不一致見出されき。人頭八にして、魂数七にありければ、『が疑われるべし。目標地未だ自然へ頑冥にして未知を擯斥するところにて、貴船への処遇、窺測能わるところならず。着時に帰港するか、さもなくば『悪魔』を特定して誅戮すべし。」

 古風な表現にぽかんとする黒野を気遣った煝煆が、これを嚙み砕く。

「出港時の検査によって、魂を持たない存在、『悪魔』が、この船に検出された。その『悪魔』を突き止めて船から叩き落とさない限り、☆△□王国での無事は保証出来ない――何せあそこは、半分未開の地みたいな国だからな。

 と言う訳で引き返して来いと、検吏共が述べているんだが……」

 飛び付くように蟠桃の方へ直って、

「おい蟠桃! そんなこと可能なのかい、この船の進路は、変更出来るのか!?」

 一瞬裡にして憔悴しきったかのような蟠桃は、首を振りつつ、

「その言い草、……流石、詳しいじゃねえか。同僚として、誇りに思うね。」

 そこから自棄っぱちに、演劇でもしているような態度で、

「そうだよ! この船の自動進路は、さ! いや、その筋の技術を持った者、つまり船員ならば可能かも知れないが、……今回は、一人も同乗していない訳だからな。

 かと言って、向こうの港へ到着した途端に尻へ帆を掛ける、という訳にもいくまい。そんな船は不審船でしかないから、結局拿捕されちまうよ。どうしたって、向こうの原始的な態度と検査法、……そして、処遇に接する羽目になるだろう。八つ裂きにされたりはしない、……とは、思うんだがなぁ。」

巫山戯ふざけろ、八つ裂きを免れたとしても、何年何十年と拘留されたりするんじゃないのか!? 絶対に、嫌だぞ! 遺跡を観に行く程度ならばともかく、あんな不潔でくらい国に、何年も閉じこめられるだなんて!」

「分かってる分かってる、俺だって、死んでも御免だよ。」

 そう叫んでから数秒押し黙って、漸く、伏していた顔を上げた蟠桃は、勿論真剣な面立ちであったのだが、しかし、そこに剣呑な欣然をも織り込んでいるのを、長く同居してきた黒野は見逃さなかった。

 好悪の感情を押し殺すような、ふるえ声で、

「実は、打つ手は、無くもないんだよ。まずは、彼奴あいつ等のところまで戻るぞ。」

 そう述べて数歩踏み出した彼であったが、しかし、ふと立ち止まると、

「いや、……一階の方が、相応しいか。黒野君、あの連中を全員連れて来てくれ。」

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