事情を摑みきれていない黒野が、矢庭な呼び出しに如何にも怪訝そうにするカハシムーヌの面々をどうにか従わせて階段を下りると、しかし、蟠桃や煝煆の姿はそこに無かった。

 ありゃ、と、漏らしながら彼がきょろきょろすると、イロハが先頭を奪いつつ、

「議場室、でしょうね。全く、蟠桃も何を考えているのやら、」

 そうして回廊を半周回って、例の扉の中に入ると、そこは、イロハの用いた「議場室」という言葉が如何にも相応しい空間だった。広々とした部屋には、巨大な、20人は悠々と掛けられそうなオーク無垢材の円卓が据えられて面積の大部分を占有しており、入って真正面の空席の両脇を、蟠桃と煝煆が、少し離れて掛けつつまもっている。浩然たる天板は、しかし完全な地平とはなっておらず、円心に、小さくて低い、ワイングラスで覆える程度の円柱が、季節を誤った双葉のごとくぽつんと生えていた。その黒っぽい色から、自爆スイッチか何かみたいだな、と黒野は訳の分からぬ想像をする。

 先客二人の内、ただ愁眉を顰めている煝煆とは対蹠的に、どこか怡然いぜんとした様子の蟠桃は、立ち上がりもせぬまま、

「いらっしゃい、さぁアンタらも掛けてくれよ。……ああ、イロハさんは是非此方に。」

 そうして妻を、真正面の議長席らしい場所へ誘った蟠桃は、全員が適当にばらけつつ席を占めるのを確認すると、矢庭に立ち上がって、例の紙葉を読み上げ始めた。

「貴船において不一致が――ええっと――検出、された。人数が八であるのに魂の数が七と検出されたという事は、『悪魔』が同乗している可能性が高い。目的地は、……科学を、知ら、ず、自分の、理解出来ない事を――あー――排、斥?するような国だから――ええっと――どんな目に遭うか、分かったものではない。よって、……すぐに?、戻ってくるか、或いは、悪魔を見つけてぶち殺せ、と、」

 彼が吐き捨てるように、糞みたいに古い文体遣いやがって、と、所々吃った言い訳を述べながら受信紙を抛り出すと、イロハがそれを勝手に拾い上げる。

 蟠桃は、顎を擦りながら自分の目でも読み進め始めた妻をさておいて、を期す為に可能な限り原文の意図を則して学語に訳しつつ読み上げた事と、この船が引き返せない事とを、一座へ説明した。

 まず、堪らぬという様子で立ち上がったのは、白沢で、

「なんですか、……と称されていた事態、着港不可能情態へ、本当に陥ったと!? そして、確か貴男こそが、その時には引き返せばいいさと言っていたのにもかかわらず、この航路は実際には引き返せない、一方通行だったと?」

「あんまり、俺を責めないでくれよ白沢。別に悪意をもって隠したのではなく、本当に万が一だと思っていたからこそ、帰港不能についてはわざわざ説明していなかったのだし、それに、そうやってお喋りの時間を惜しむことになったのも、そしてそもそも、まともな形式の検査を受けられなくなったのも、アンタの女が鶏なんか持ち込んだせいじゃないか。」

 むう、と黙ってしまう白沢に代わって、守谷が、

「実際、誰かの失態や不誠実というより、不幸や被災に近しい情況でしょうから、責任所在を求めても仕方ありますまいよ。

 それよりも蟠桃殿、貴殿の用いる『悪魔』という言葉は、我々が、タナハ、聖書、或いはクルアーンに見出す存在とは、また異なるものですかな?」

「そりゃ、妄想の話なんかしないさ。」

 守谷は、この蟠桃からの軽打ジャブを無視しつつ、

「すると、希臘神話に準える事の出来るオクトロスや翼馬ペガサス蛇髪ゴルゴンのように、『悪魔』に準える事が相当な生物が、不信心者の貴殿も認める程、この世界には明瞭に存在していると?」

「概ね、然りだよ。……だが、どうかな。『生物』なのかは、少々怪しいぜ。何せ、」妻が未だに苦労しつつ読み込んでいる紙葉を、軽く爪弾いてから、「ここにも書いてあったように、『悪魔』は、魂を持っていないんだからな。鶏ですら備えているそれを持たないにも拘らず、人間と同じように笑い、喰らい、泣き、そして話すんだ。不気味この上ない、言うなれば、まるで哲学的ゾンビだな。生物よりも、寧ろ、と称した方が正しそうだぜ。」

 不意安が、その天稟てんぴんとしての超然を、些かばかり崩しつつ、

「つまり、なんですか、ここに集まっている論客、あるいは加えて黒野さんの中に、人の姿をしており、人の如く振る舞う、しかし人ならざるもの、……『悪魔』とやらが、混在していると? そして、その存在により、我々は窮していると?」

 この言葉が響いた瞬間、氷織が露骨な身顫いを起こし、夫に心配げに寄り添われた。平時の不意安の物静けさを、豊かな自信と余裕故の超然とすれば、隔絶や何かの欠落による恬然てんぜんという所になるであろう、氷織のそれ。これら双方が、非常な事態によって毀たれ始めている。

「それで、」

 イロハが、読んでいた紙を押すように抛り出すと、それは、ひらりと気流を捕捉して宙を舞い、円卓の中心へ着地した。例のちいさな円柱の上に覆い被さったことで、その暗い色が紙を透けている。

「我々は、どう、すればよいのです? つまり、このまま『悪魔』を伴って向こうへ着けば、生死も不確かな目に遭うが、しかし、この船は引き返す事が出来ない。……と、なると?」

「ええ。俺達の中に潜む『悪魔』を見つけ出し、打ち殺して海へ棄てるしかないでしょう。さもなくば、全員破滅です。」

 夫婦の会話によって、不気味な沈黙が円卓の上を迸る。

「蟠桃殿、」それを切り裂いたのは、果敢なラビだった。「結局、貴殿の用いる『悪魔』という言葉の意味がまだ分かっていないのですがな、それは、どういう性質の、なのでしょうかの。そこが分からねば、何も出来ますまい。」

「率直な質問には感謝するよ、守谷。

 神学的や民俗学的でない意味の、『悪魔』とは、現在全く原因が特定出来ていない現象乃至存在だ。何せ、黒野君の世界、つまり、我らがそこから多くを学ばせてもらっている世界においては全く見られないものだから、教材が無いんだよ。翼馬ペガサスの種付けについて、旅人達から習えないのと同じかな。」

「そんな、背景の話は良いのですが、」既に、妻から身を離していた白沢が、「具体的に、その『悪魔』とやらは、どういうものなのです?」

「ドッペルゲンガー。……不正確だが、大雑把にはそう思ってくれ。

 偶然な的中だとは思うのだが、17世紀にラ・ヴォワザンに関わったかどで起訴されたブィヨン公爵夫人も法廷で述べていたように、『悪魔』は、己の姿を自在に変化させる事が出来、そうやって人間社会に溶け込むんだ。」

「それは、何の為に?」

 この白沢からの問いに、しかし、ここまで快弁を発していた蟠桃は、一転頰を搔きながら、

「正直、良く分からん。

 例えば、宗教論を抜きにする場合、『人が生きるのは、生命が生きるのは、何の為か』という問いも、一応、『遺伝子を伝える為だ』と答えられようが、しかし、では、『遺伝子を伝えるのは何の為か』と、問われたらそろそろ困るだろう。」

 不意安が、弾みで錫杖を璆鏘きゅうそうと鳴らしつつ、手を少し伸ばして、

「『そもそも遺伝子とは、伝わる為のものだったからだ』、というのはどうですか? つまり、特に形式を伝える気が無い有象無象、森羅万象ばかりが宇宙に蔓延っていた中で、生じたRNAやDNAのみが、『伝わる』という性質を持っていたからこそ、それらのみが生物という形態を箱船として、今日まで伝わっているのだ、……というのは?」

 蟠桃は、頷きつつ、

「悪くない、な。ただ、お前の論筋から換骨奪胎するなら、『悪魔』は、社会に溶け込む為の存在だからこそ、『悪魔』であり、そして、だからこそ、社会へ欺瞞的に溶け込もうとするのだ。それ以上の答えは、きっと無いのだろう。」

「とにかく、」イロハは、珍しく厳粛な様子で、「姿を変える事で人を演ずる事が出来るという、正体不明瞭な存在を特定せねばならない、という訳ですが、……蟠桃、何か、具体的な方策は有るのですか?」

 ここで、黒野は目を疑った。蟠桃は、返事をするかわりに、にぃ、と、片頬を吊り上げたのである。

 こんな不謹慎へは、当然煝煆が釘を刺してくれると思った黒野であったが、しかし当の彼女は、何かを諦めたように瞑目しつつ首を振っている。

 そこで蟠桃は、彼の思う儘に語り出した。

「別に、実は、何の事も無いのではないですか? 我々は結局、殆ど予定通りに船旅を楽しむだけです。」

 何を訳の分からない事を、と口にした白沢を、立ち上がったままの蟠桃はびしりと指差した。それが余りに堂々としていたので、具体的な威力でも有ったかのように白沢が椅子の中で少し身を引いてしまう中、蟠桃は、そうして暴力を働いたばかりの指で自分の眉を触れて、伊達なポーズを作りつつ、

「分からないかな、……分からないかな白沢!」

 この一喝によって、程度は各〻で差が有れど、とにかく一座が揃ってぎょっとした隙に、彼は、両腕を天秤のように広げてから、朗々と、

「分からないかなぁ! ……いいか? まず、『悪魔』が、姿を変化させる事で人間界に溶け込む存在であるのならば、外見ではなく、その中身を検査して炙り出すしかないじゃないか!

 ……一応言っておくが、麵麭の焼き加減のように、串を突き刺して血肉が付着するか確かめるって意味じゃないぜ。今俺の言った、、というのは、つまり、性癖であり、信条であり、……知識だ。精神だ! つまり俺達は、、暗愚の徒、、という寸法だよ!」

 皆が皆――恐らくは氷織すらも――目を瞠って言葉を失った。海上に舞い降りた、緊張と驚愕の沈黙。それが、近くを通ったらしい、海に住まう魔獣か何かによる物悲しげな啼き声に破られると、その裂け目を押し広げるようにして、蟠桃は円卓を打ち叩いた。

 その、耳を劈く大音に、黒野が椅子から尻の浮くような思いを覚えさせられていると、蟠桃は、耀かがやかんばかりの意気で、

「さぁ、やろうぜ野郎共! 、思う存分の紛議を、これ以上もなくとことん、真剣に、……つまり、文字通り、俺達は演ずるのだ!」

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