小部屋の一つへ連れ込まれた黒野は、蟠桃と煝煆が、品目と荷を突き合わせる様子を見守らされた。薄暗い、けっして大きくない部屋の中に、雑多な品々が詰め込まれており、特に食料の割合が大きいのか小麦粉の匂いが彼の鼻を擽る。

「麵麭が、ええっと、何個の予定だっけな、」

「84個と書いてあるが、……おいおかしいだろ蟠桃、なんで24の倍数じゃないんだい?」

「24ってなんだ? 完全数か?」

「そりゃ、28だろ。」と即座に返してから、「なんだも何も、八人居て各〻おのおのが一日三食喰うならば、必要な麵麭は24の倍数個になりそうなものじゃないか。」

「ああ、」彼女の方へ向けていた首を、荷棚の方へ直してしまいつつ、「そんな細かい事考えてなかったなぁ。とにかく、……まぁ見た目、80個くらい有りそうだよな。」

 目録を覗き込んでいる煝煆は、大雑把な奴だな、と一言零してから、「後は、冷凍食料か。……これは、ちょっといい加減に出来んぞ。例えば、最終日に不意安だけ喰うものが無い、なんてなったら気の毒だ。」

「確かに、それはそうだな、」と述べる、荷調べの為に屈んでいた蟠桃は、腰を伸ばしつつの振り返り様、

「黒野君。悪いが、ちょっと数えて来てもらえるかな。隣の部屋だ。」

 そう述べてから、何か煌めく物体を鏘然しょうぜんと放り投げてきたので、黒野は、両手で掬うようにしてどうにかそれを受け取った。

 部屋を出て一人回廊へ戻った彼は、手中の冷たいものを明るい中で弄んで、それが、キーホルダーのようなものを伴った、鍵であると気付く。鍵の、真っすぐな棒から左右へ数本の肋骨が伸びているような形状、つまり、元の世界で慣れ親しんだシリンダー錠の物よりもずっと簡素な、しかし、神々しい意匠が持ち手に細やかに施されている様子は、物理的ではなく、なにか魔術的な技術によって施錠や解錠を果たすのだろうと、黒野に窺われた。

 とにかく彼は、隣ってどっちだよ、と独り言ちながら、何と無しに右、正しい方の扉を選んで鍵を挿し込む。

 鍵穴は抵抗なく回り、立派な扉も存外軽く開いたのだが、

「……寒!」

 彼はそう叫んでから、食料を見てこい、と言われたのを思い出した。つまり、この部屋が低温の貯蔵庫であるのだと気付いた黒野は、故郷世界の台所で母親に口酸っぱく言われた事を思い出し、半ば無意識に、慌てるように扉を後ろ手に閉めてしまう。

 そうして得られた冷たい密室における光源は、独房のような高い窓が一つ穿たれているのみで、物寂しさと冷気が相俟って、日中である筈なのに恰も月光が差し込んできているかのような印象を彼へ与える。そして左右には、文字通りに凍てついた観音開きの棚が、モノリスの威圧感で彼を挟んでいるのだった。

「寒すぎだろ、流石に、」

 入室時に零した悲鳴の弾みで、ついそんな独り言を漏らしてしまう彼は、口内へ巻き込むことで脣を守りつつ、棚の一つへ歩み寄る。暗い、硝子張りのそれは、不様に凍えている黒野の姿を良く映しており、彼がそれに気付くや否や、鏡像の眉も顰められるのであった。

 情けない気分になってきた彼は、さっさと用事済ませようと思いつつも、しかし凍む棚扉へ素手で触れる勇気も湧かなかったので、首を伸ばすのみで中を窺い始める。

 のような草鞋型をした、しかし質感や色合いは螺鈿細工の地のように黒く艶やかな箱が、ぎっしりと中に押し込められている。自分が雪だるまにも氷像にもなっていないのだから、これら冷の食品である筈の物体は、より厳しく棚の中で冷やされているのだろうな、などと思いつつ彼がよく注視すると、白地に青で書かれた六芒星のラベルが、目の前の箱一山に貼付されているのだった。そして、より右方に積まれている一群には、十字架の標が貼り付けられている。

 後者を見て、漸く、ああ、こっちが基督教であっちが猶太のマークか、と理解した彼は、足を動かして、棚の他の場所を覗き込み始めた。天文学的事実とは異なり、「欠け」の部分の半径が本体よりも明らかに小さい三日月が印された箱は、他のマークのものと比べて二倍の量が積まれており、すぐに、白沢と氷織の夫婦の分であると彼に諒解される。しかし彼は、仏教の記号、法輪のラベルについては、「舵? 船員用か?」としか思わず、無神論者の記号、「A」の字の周囲を古典モデルの電子が翔り巡っているものについても、「そう言えば今朝煝煆さんが憤っていたなぁ、」などと言う、当ての外れた事しか思わないのだった。

 とにかく、それぞれの記号を背負った小箱の数をどうにか数え上げた彼は、身を顫わせつつ、廊下へ出ようと扉の把手を摑もうとしたのだったが、その右手が美事に空振った。扉が、外から引かれるように開かれたのである。

「おお、無事だったかい、」

 煝煆だ。

 彼女は、抱き取る様に彼を廊下へ引っ張り出しつつ、

「済まない。蟠桃の馬鹿(この言葉のみ三回りほど声が大きくなった)が事も無げにほざいたから、私もうっかりしてしまった。装備も魔術の心得もなしに、入るような部屋じゃないよな。……凍傷だとか、怪我は無いかい?」

「ええ、恐らく。……死ぬほど寒かったりはしましたが、」

「いや、そこは本当に済まない。……どれ、」

 煝煆は、再び彼を搔き抱いた。しかも今度は、彼を解放せずに抱きしめたままなので、彼女の、密かに用いているらしい香水の匂いと、移動の最中に搔かれた汗の香りが、黒野の鼻腔を擽ってぎょっとさせる。

 黒野が色々な意味でどぎまぎさせられていると、煝煆は、大きな、しかし彼へ囁くようでもある声音で、

 

 帰命し奉る。除き給え、除き給え、戦駄利せんだりよ、摩橙祇まとうぎよ、……スヴァーハー!


 そう彼女が唱えると、抱かれる黒野は、突如湯船へ放り込まれたかのような錯覚を覚えた。凍みていた全身が、言い知れぬ暖かさに包まれる。彼の躰が魔術的に暖められ、また、掩う煝煆の身もどうやら加熱されているらしく、相乗的な効果で、彼の凍えが癒やされゆくのだった。

 一分か、二分か、たっぷりな時間静かにそうされてから、彼は漸く解放される。

 すっかり全身がぽかぽかとした黒野は、紅蓮な寒気から救われたことで、心からの感謝を煝煆へ述べようとしたのだったが、しかし、聞こえてきた軽々しい拍手に阻まれた。

 振り返れば、愉しそうな顔の蟠桃が、

「いやはや、お美事。」

 煝煆は、苛立たしげに、

「流石に御挨拶じゃないかい、蟠桃。塔也を、あんな危ない場所へ誘い込んでおいて、」

「いや、流石に俺も、黒野君には悪いと思っているさ。お詫びに、この旅から戻ったら、何か一つ言う事を聞かせて欲しい。また、劇場観賞でもなんでも手配しようじゃないか。

 ……というか、煝煆、お前何か勘違いしてないか?」

 彼女の金眉が、持ち上がった隙に、

「俺が今拍手で揶揄からかったのは、黒野君がどうこうじゃないぞ。流石に、傷つけた相手を馬鹿にする程下種じゃない。」

「意外だな、」

「五月蝿い、混ぜっ返すな。」そう述べた蟠桃は、困ったような顔を、すぐに、皮肉を叩きつける為の不遜で蔽いて、「俺が揶揄いたかったのは、……お前だよ、煝煆。お前は相変わらず、必死になると、真言マントラを唱えてしまうのだな。」

 凍りついた火術師へ、

「そりゃ、黒野君に万一が有ってはと必死になってくれた事については、俺からも心から感謝するよ。本当に有り難う。

 しかし、……友人としても同僚としても述べるんだがねぇ、お前は、密教のたぐいへの未練を何時になったら断ち切れるんだ? 別に何へ帰依しようとお前の勝手だが、しかし、絶つと決心し、その旨の宣言も済ませたものへ、必死な情況とはいえ縋ってしまうようでは、つまりそんな、根柢こんていすら定まっていないようでは、お前は、最早、何者でもないのではないか?」

 渋面の煝煆は、暫し、釘付けられたかのごとく苦しげに黙り込んでから、

「この旅で、何かしら結着させるつもりだよ。」

 これを聞いた蟠桃は、皮肉げに片頬を吊り上げる。

「まぁ、今回は大姉不意安君も居るしな。回心し直すなら、彼奴とお友達になると良いさ。」

「どの道、最澄の系譜とは相容れんだろうがねぇ。」

 この、煝煆の吐いた、黒野にはいまいち理解出来なかった機知を気に入ったらしい蟠桃は、肩を少し竦めてから、

「で、黒野君。冷凍食料はちゃんと有ったかい? (両手で橢円だえんを象りつつ、)こんな形の、黒い箱だが、」

「ああ、はい。猶太マークのと基督マークのが、12個ずつに、」

 そこから仔細な数を述べ上げようとした黒野であったが、しかし蟠桃は、気分じゃないな、という態度で押し留める。

「ま、有ったのなら、細かい事は良かろう。有り難うな。」

 それから彼が手招きのような素振りを見せたので、気がついた黒野が鍵を投げ返すと、蟠桃は、キャッチボールのごとく動的に受け取ってから元の談話室へ向かってしまい、黒野と、気折れた様子の煝煆のみがその場に残された。

 居た堪れなくなった彼は、堪らずに、今出て来たばかりの冷たい扉を指しつつ、

「あの部屋がどういう仕組みか、訊いても良いですか? まさか、電力じゃないですよね、」

 こんな、答えやすそうな質問をぶつけるという露骨な気遣いに、しかし煝煆は、少し元気を取り戻した様子で、

「ああ。そこは、悪魔の実在なのだよ。」

「……は? 翼馬ペガサスとかだけじゃなく、悪魔まで居るんですか?」

「あ、済まん。」混乱していた返答を詫びるように、「確かにそういう意味での『悪魔』も居るが、そっちの話じゃない。今私の触れたのは、〝マクスウェルの悪魔〟だな。」

「……あー、」

 熱力学の晦渋な講義内容を懸命に思い出そうとする彼へ、煝煆は、

では、特殊な術式を用いる事で、エントロピー増大則を無視しつつ、平温を、冷温と高温に分離する事が出来るんだ。この技巧を応用する事で、海洋から高温を取り出して推進力としつつ、低温を冷蔵へ回す事が出来る。この船ではそのどちらも利用されている訳だが、そのような技術によって、我々は、一足飛びに遠海航行を可能とさせてもらっているよ。」

「いや、まぁそれも凄いですけど、でも、本来それどころじゃないですよね?」困惑を漏らしながら、「熱力学の第二法則を超越出来るなら、永久機関でも作れてしまうじゃないですか。」

「そう、思うよな。」悄然を、幾らか取り戻しつつ、「しかし、少なくとも今日こんにちは、我々の技術が全く追いついていないのだよ。例えば、君の世界から将来された数多の文献によって、数多くの便利そうな電器を我々は知っているが、しかし、一つ残らずこっちでは実現していないんだ。電線網も乾電池も、まるで作成出来ていないからね。」

 ああ、成る程、と一旦述べた黒野だったが、続けて、

「しかし、冷蔵兼推進機関は現に作成出来たんですから、既知の技術についても、頑張って模倣してしまえば良いでしょうに。役に立つ事は、分かり切っているのですから。」

「それが、なかなか旨くいかないんだ。」軽く頭を振って、「まず、熱分離式冷蔵機関が実用化出来たのには、それがそれだけで完結しているという強みが有った。これに対し、例えば電算機を作成しようとしても、電源が用意出来ないとどうにもならない。ボルタ電池では、化学実験はともかく電器に用いるにはちょっと厳しいからな。

 ならばまともな電源をとっとと発明すれば良いのでは、と思うかも知れないが、これもそう旨くいかない。何せこの世界では、電源やその他の技術に需要を感じる事が難しいのだ。」

「と、言いますと?」

便魔術や魔獣が、殆どあらゆる技術を用無しにしてしまうのだよ。」煝煆は、恐らく先の詠唱の為に固く握りしめていた、佩いたままの剣の柄から、今気づいたかのように手を離して、「例えば、君の世界で航空機が為す仕事を、ここでは、龍なり翼馬ペガサスで賄えてしまう。消防車やその為の緊急水道網も、氷術師を抱えた方がひとまず楽で確実だ。

 先程守谷が、衣服や靴底を自作しつつうろから蜜を漁るガリヴァーの、『必要は発明の母』という言葉を引いていたが、あれは正しくでな。それなりに快適な社会を作れている以上、我々の市民は、技術を求める気になれないのだよ。……翼馬ペガサスも、ジャンボ機のような量の荷物はとても運べず、だからって大型化も出来ないのだから、いつかは苦しくなってしまう筈なのだが、そういう、長期的な視点を社会に持たせる事は、どうしても難しい。

 つまり、発明だけでなく模倣にも、『必要』という息吹が不可欠なのだ。」

 語り続ける煝煆は、懶気ものうげに瞬いてから、

「そして、より重大な問題として、……我々神官の行っている業務が、そういう、科学や技術に専念出来ていない。塔也、君も先程見聞きしたように、君の世界から学びを得た宗教家達の語る信心も、中々面白い物だが、しかし、あれらの芳醇な知識を為にも、国家や我々神官の、凄まじい労力が費やされているのだよ。

 もしもこれらを、一つの目標、具体的な発展の為に差し向ける事が出来れば、」

 煝煆は、二三度首を振ってから、

「君の世界では、人類の発展に宗教が様々な役割――慰藉、啓蒙、排悶、煽動、督励、恤救じゅっきゅう、厚生――を果たしてきた訳だが、しかし、成果を直截学ぶ事が出来る我々は、本来、そこをスキップ出来る筈なのだ。君の世界の文明を現代まで継続させた、補助輪というか支えをわざわざ築く手間を省略して、その果実のみを得られる筈なのだ。……だが、現実にはどうも、殆ど無為な事へ、我々の資源が多く費やされてしまっているように思われるよ。例えばイロハや不意安が、あの理性と知識慾で自然科学を語ってくれれば、どれほど、我らの発展へ助けになっただろうか、」

 この語りを嚙み締めた黒野は、先刻煝煆へ抱いた、口先では公僕らしいではないか、という嘲弄的な評を反省した。彼女の本質、学者気質というよりも真率な無私が、その苦悩と言葉に瞭然と表れている。

 彼は彼女へ、贖罪を試みるかのようにおずおずと、

「つまり、もしかして、カハシムーヌの目的って、そういうところにも有るんですか? 他分野への志向を持つ論客を、此方の領域へ与するように説得してやろう、みたいな、」

 煝煆は、嬉しさと寂しさ――黒野が問い掛けてくれたことによるそれと、質問の中身によるそれ――の混淆した、複雑な笑みをうかべつつ、

「もしもそれが叶えばこの上ないが、……しかし、難しいだろう。寧ろ、私が現実的に願っているのは、あの難物共との侃々諤々によって、少しでも自分を研ぎ澄まそうという事だよ。例えば、私や蟠桃が練達の論者となれれば、彼奴等は手遅れにしても、今後現れてくる才気ある者を、卒なく自然科学の領域へ引き入れられるようになるだろう? それに、私自身の将来を考えても、論の力を磨き上げることは不可欠なのだ。……まぁこれらは私個人の想いであって、あの夫婦が、何を考えて倶楽部を主宰しているかは知らんがな。

 ただ、……成る程。蟠桃の言う通り、私がふわついるようでは、なんにもな、」

 将来、という言葉が気になった黒野であったが、彼がそれについて問う前に、煝煆は、面映ゆさを隠すように背を向けてしまい、

「そろそろ戻ろうか、君の主が心配するかも知れん。」

 そこから黙ってついて行く黒野は、殆ど面識の無かったこの女性を、しかし何か助けられないかと、かつて同じく、自然へ殉ぜようとした同志として思うのだった。

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