発声に差し障りを持っている妻を気遣うのか、どちらでも良いような時は自分が話すようにしているらしく、白沢の方が、

「そうですね、……誤解無いようにまず述べれば、確かに数多の、それこそ貴方方の円頓戒における10や48と言う数が比べ物にならぬほどの規律が、伊斯蘭には存在していますが、しかしだからといって別に、ムハンマドや創造主は我々を苦しめようとしている訳ではありません。この点は、同じく規律ばかりでも、猶太の教えとは異なるところですね。」

 突然な猶太への一撃へ、不意安や煝煆が笑ってから、

「例えば、女は顔や両手以外を――特に髪を――隠せという教えに従って、我が妻はこのような恰好をしておりますが、別にこれは、必ずしも女性への虐遇ではないのです。この、汝の美しい物を隠せという教えには、確かに色目を使うなという戒めも含まれましょうが、しかしどちらかといえば、その美しさへの敬意や、そこから派生した、男共が愚かにも欲情してしまうから済まないが隠しておいてやってくれ、という意図も有るのだと、私や氷織は信じております。」

 不意安は、感心したような溜め息を一つ漏らしてから、自分の両顴骨を触りつつ、

「それで、氷織さんの場合、髪だけでなく目許も隠されていると?」

 妻が頷く横で、白沢は、

「頭から丸きり一枚被って全身を隠してしまうものを装う女性も居るらしいですが、あそこまでくると誰が誰だか分からなくなりますし、それに、氷織のように家の外で仕事を為す者に取っては色々差し障ります。そこでまぁ、彼女においては、この程度にさせていただいているのですよ。」

 自然と氷織へ視線が集まった事で、彼女の眉間がすこし居心地悪そうに寄る中で、夫の方は、

「似たような事で言えば、我々伊斯蘭の集団礼拝は男女別に行う事になっておりますが、これも、どちらかといえば愚かしい男共へ配慮してやってくれ、という向きなのです。礼拝では、学語で言う『土下座』の体勢に何度もなりますから、男女混淆で行ってしまえば、それはもう、後列の男性にとって目の毒になることも御座いましょう。実際、モスクでは男女の礼拝室を別階にするのが理想的とされており、この場合、必ず、女性階が上です。覗き見が出来ないように、ですね。

 また、酒を飲むなというのは、そんなもので心身を壊されるなということでしょうし、適切な手順によってのみ屠られた肉しか口にするなというのは、由来も分からない肉を喰らいて身を壊すな、という意義も小さくないでしょう。他にも、清潔を保てと言う旨の項目は実に夥しいです――この点、ジョセフ・リスターの見に千年以上先立った訳ですが。

 つまり、クルアーンや預言者言行ハディースに語られる数多の規律は、試煉というよりも、健康や清廉を自然と保ちやすくなるようにと言う、慈しみだとも解せるのです。モーセムーサー基督イーサーの時代と異なり、創造主の慈悲が大いに強調されるようになった啓示、クルアーンにとって、実に相応しい思いやりではないですか。」

 不意安は、小さく頷いた後に、

「成る程、一つ納得出来ました。

 ところで、お酒の話で思い出しましたが、確か伊斯蘭の教えは、例えば――私が言うのもなんでしょうが――音楽についても戒めていますよね。また、今お聞きしたところの範疇での情欲の抑制は、確かに適度なものとも思われましたが、しかし、実際にはより厳しい、良くもまぁ血筋が絶えないなと心配になるほどの清廉を求める規律も、存在していると聞いております。

 そうなると、少々、信徒へ禁欲を要求しすぎだとも思うのですが、……ムスリムの皆様は、どのようにをなさっているのでしょうか。」

 白沢は、興味深げに、ふむ、と呟いてから、

「確かに我々は酒を飲みませんし、音楽も――大っぴらには――嗜めませんが、しかし他のこと、例えば遊戯一般や美術に関しては然程縛められませんし、また、幾ら稼いでも幾ら財を積み上げても良い、ともされているのですよ。つまり、正直に申し上げれば、貴方方仏門徒や、或いは、マタイ伝の『富める者の神の国に入るよりは、駱駝の針の穴と通るかたかえって易し』という言葉を信ずる基督教徒の方が、よっぽど禁欲的だと私には思われますね。」

 暫くの間すっかり静かに、仏門徒とムスリムの応酬を聞いていた煝煆であったが、ここで久しぶりに、立ち上がりかねない勢いで口を開いた。

「音楽が、禁ぜられている?」

 白沢は、肝が潰れたような顔を一瞬見せてから、

「ええ。クルアーンではなくハディース由来、つまり、神からの預言ではなく人間たるムハンマド自身の言葉、しかも仄めかされている程度という事で、然程厳密には適用されませんが、」

「馬鹿言え。厳密であろうがなかろうが、そんな規律が有るならば、何故氷織は笛の名手として知られているんだ。」

「え?」

 そう間抜けに漏らした不意安は、黒野と共に氷織を凝然と見詰めてしまってから、

「それは、実際、……奇妙に聞こえますね、」

 暫しの猶予いざよいの後、

「氷織さん、その点について、私共へ御教授頂けないでしょうか、

 ……宜しければ、貴女の言葉で、」

 瞳の動きが殆ど窺えないものの、恐らくはきょろきょろと躊躇いを見せた氷織であったが、しかし、カハシムーヌの集いに招かれた以上だんまりもしていられないかとばかりに、気怠げな息を吐いてから、

「では、白沢の述べた事を多少修正しつつ参りましょう。……別に、私の夫が愚かしいという訳ではなく、話を簡単にする為の省略が、逆に命取りとなってしまったのですが。」

 黒野はこの前置きに、煝煆のような、議論に対する生真面目さを感じた。

「まず、そもそもですが、私も夫も、クルアーンに表された教えを心から信奉してはおりますが、しかし、完全に等しい信心を夫婦で抱いている訳では御座いません。」

「シーア派だとか、スンニ派だとかか?」と煝煆が挟まるも、

「いえ。そこではなく、私の方ばかりが『教団』に熱心という事ですね。」

「……教団?」

 飛び出てきた不思議な言葉に、黒野がそう呟く――つまり久々に言葉を発する――と、氷織は容赦なく、おや、口が利けたのか、とばかりに嘲弄的に眉を上げてから、

「本来伊斯蘭においては、丁度プロテスタント諸派の多くのように、宗教的指導者や出家者が存在しません。勿論、文字通り全員が同一だと誰も何も教えられないので、やはりプロテスタントの牧師のような、教導を為す者は居りますが、しかし、それは所謂兄弟子のようなもので、崇める対象などではない訳です。

 ですが、……やはり、それでは満足出来ないのが人間なのでしょうか。本来、規律は多かれど実に世俗的な伊斯蘭には決して馴染まぬ筈の、出家や禁欲、そして神秘体験を伴う形での、精神的な探究を求める者共が出て参ります。学語では、このような求道者を『伊斯蘭神秘家』と訳しておりますが、……余り正確な訳語ではありませんので、片仮名の『スーフィー』と呼ばれた方が自然でしょう。」

「ああ、その言葉自体は聞いた事有るよ、」と煝煆が述べれば、

「同じく、『伊斯蘭神秘主義』と訳されてしまうのが、『スーフィズム』と言うことになる訳ですが、このスーフィズムにおいては、伊斯蘭法学者ウラマーの目指すような実践とは、気色が大きく異なって参ります。つまり、彼ら法学者ウラマーの描く尋常で形式的な教えにおいては、創造主Allāhアッラーフの教えに従い、善行を重ね、また時折多少の無法を働いてもその分懺悔さえすれば、――でのことはAllāhアッラーフの御心のままになるにしても――死後においては緑園にて不自由なく過ごせるとされており、ただ、それを目指すという様相になっておりますが、しかし一方、スーフィズムにおいてはそれで満足されないのです。正確かはともかく『神秘』という訳語が与えられたように、神との合一体験や、クルアーンを文字通りに読んでも知る事の出来ない『神』な教えを、我々スーフィーは、生涯かけて得ようとするのです。」

 不意安が、幾らか前傾になりつつ、

「面白いですね。ムスリムの方々といえば、一応諸派が有るとは聞いておりましたが、しかし基督教の、八次にまで渡ったユグノー戦争を始めとして兄弟姉妹の血を夥しく流したような、対立は無かったと理解しておりましたが、……成る程、その実、法学者と神秘家の争いは有った訳ですね。」

 氷織は、こくりとしてから、

「御指摘の通り、法学者ウラマーはスーフィズムを屡〻しばしば攻撃して参りました。初期の高名なスーフィーであったハッラージュは、『我は神なり』と叫んだ廉で処刑されましたし、また、法学者ウラマーであったラシード・リダーは、メヴィレヴィー教団の儀式の旋回舞踏、『セマー』を観じた折りに、憤慨のあまり『これは禁ぜられた行為であり、ムスリムである以上このような行為を黙って見過ごしてはならない』、と絶叫して立ち去ったそうです。」

「『教団』?」と、今度は不意安が反応すれば、氷織は一瞬、はっとしたようにしてから、

「失礼を。これは、すっかり説明が遅れておりましたが、スーフィズム諸派それぞれにおいて指導を行う集団を、『教団』と呼ぶのです。……学者に殆ど対抗する立場であるのに、『教団order』と訳されているのは全くの皮肉ですが。

 そして、……これまた話が前後しましたが、今私が『旋回舞踏』、つまり、当然そこには音楽が伴った筈の活動を、教団のものとして紹介したように、スーフィズムにおいては屡〻、法学者ウラマーの定める規範を踏み越える真似が見られるのです。だからこその、対立な訳ですが。

 伊斯蘭では、規律は絶対であるという共通認識が有りますし、実際、姦淫や飲酒その他に対しては非難や攻撃が為されるわけですが、しかしまた、違法へ処罰が為されるかどうかは、その程度や情況にも依るのです。例えば、断食や礼拝が種々の事情で困難な場合は適宜実施を遅らせて良い、或いは心で念じるだけで良い、と、また体が弱いなどの事情が有れば免除も有りうると、明確に規定されています。規律はとても重んぜられますが、しかし、命を抛ってまでどうのこうのと言う話は――滅多に――無いのです。

 同じく、教団活動のような心からの信仰行為による牴触においても、俗な無法とは、また事情が違ってくるのですよ。大手を振って行える、と言う訳ではないでしょうが、少なくとも、賛否両論、くらいには立場が引き上がるでしょう。――勿論、賛両論ですので、一部の法学者ウラマーは憤る訳ですが。

 では、何故スーフィズムがそのような、いずれにせよ危険な逸脱をわざわざ試みるのかといえば、それは、法学者ウラマーとは違うものを目指している以上、仕方ないのです。語弊を恐れなければ、法学者ウラマーは行儀の良さを、スーフィーは、真理を目指しているのですから。

 真実に従い、神をも畏れぬ放言を発する事、……煝煆、貴女や蟠桃、その他の同僚においても憶えはないですか?」

 矢庭な一撃に、自然科学の女神官が不快げに仰け反ってから、

「前置きが長くなりましたが、つまり、白沢は然程スーフィズムに熱心でなく、私はその反対なのです。そこで私は、瀆神行為などではなく寧ろAllāhアッラーフへ近づく為の階梯として、笛の音を日々磨き上げているのですよ。」

 彼女はそう述べると、腰に挿していたものを取り上げた。木製の長い持ち手の先に、赤い、顔の長さ程度の金属が横向きについており、その一方は重く鈍そうな刃で、もう一方は、鮫の背鰭のように尖っている。黒野は、彼女の職業を思い出してすぐ、それが消防斧であることに気付いた。

 その、無骨物騒極まりない、しかし実際には少なからずの人命を救ってきたのであろう、聖なる彼女のを、左手で少し掲げた氷織は、分かり辛いが恐らくは瞑目しつつ、静かにそれを唱え始める。

 

 創造主よアッラーフ最も慈悲深くアッラヒマーン慈悲遍くアッラヒーム、……慈悲厚き者よアッナーフィア

 其方の緑園の清冽を、今こそ我に垣間見せ給わめ!


 彼女の右手から、軋むような、しかし同時に涼やかなが響いた。驚いた黒野がそこを注視すると、そこから芽生えた氷が、恰も時の魔術で生長を加速された木賊とくさのように、見る見る内に伸長して、手に遙か余る棒状を為していく。よりつぶさに観察すれば、その氷柱は棒というよりも筒で、側面には、中空へ通ずる横穴が幾つか穿たれているのだった。

 氷の横笛フルート

 氷織は、仕上がったばかりの透き通るように美しい、文字通り凍むほどに冷たい筈の凍て笛へ、その小さい硬い脣を宛てがうと、一旦、肩が持ち上がるほどに大きく息を吸ってから音色を奏で始めた。

 寥々とした哀しげな調べが、瞬く間に狭い部屋の中を占め、壁に反響されては、気にされ始めていた人いきれを打ち水の如く爽快に払う。その涼やかな音色は、成る程、神秘の宗教儀式を破壊するものとは黒野にも思われず、実際、夾雑物の淘汰された神々しき雰囲気を、座へ迅速に齎したのである。当の氷織は、眉間へ皺を寄せたりもせず、いとも優雅な態度で、躰を僅かに左右へ揺らし続けた。

 あまりに玄妙、しかも豊麗な音色に、黒野の涙腺が刺戟されて、彼がその辺りへ気合を入れねば堪えられなくなってしまった頃、漸く横笛が口から外された。銹鉄のような印象ばかり与えていた、その脣が、単に体温に負けた氷が解けたという事情ではあろうが、とにかく瑞々しく潤って、色っぽく光っている。

 陶然とした様子の不意安が両手をぼんやりと持ち上げつつ、「拍手を、……送っても?」と問えば、氷織は「御自由に、」と素っ気なく返してから、何か小規模な呪文を唱えて手中の氷柱を消失させた。

 何度か手を叩いた、不意安が、

「お見事、ですね。氷織さんの神への帰依については、私は全く共感出来ない訳ですが、……しかし、垣間見せて――或いは、垣間聞かせて、でしょうか?――頂いた気がします。貴女の、真剣で命懸けな信心を、」

 そこまで、素直に述べたらしかった不意安であったが、絶世の吹鳴による余韻が醒めて素面になったことで、自身の言葉が恥ずかしくなってきたらしく、喉だけで咳払いをしてから、何か慌てるように、

「ところで、白沢さんの方はどんな魔術を得手とするのか、お聞きして宜しいですか?」

 こちらも、余情から苦労して抜け出すようにしてから、

「私の場合は、治癒、ですね。外傷の治りを速めます。」

「成る程、」不意安は、一転欣然きんぜんと、「成る程成る程、とても面白いですね!

 いえ、例えば私は、阿弥陀の無辺なを崇め奉っており、そしてそのまま、光の魔術を修めている訳ですが、貴方方御夫妻も、やはり信心へその魔術を依っている訳ですか。先程の白沢さんの語りにおいては、クルアーンを齎して以降の唯一神は慈悲深いのだ、という信条が隠顕しておられましたが、そのような慈しみは、治癒の魔術に良くそぐうものなのでしょう。また、氷織さんの方も、その――わたくし詳しくはないですが――『緑園』なるものの冷たさを思い描きながら、氷の魔術を用いる訳ですね!」

 氷織の方が不愉快げ或いは面映ゆげに顰める横で、白沢の方は、莞爾と顔を歪めながら、

「まあ、そういうことですね。そして貴女は奇術師、私は医者、彼女は消防士なのですから、結局は皆、信心を生業へ籠めているという事になりましょう。」

「それは、それは、……同じ教えへ帰命を為していないのがとても残念ですが、しかしそれでも、なにか祝福を計りたくなるような縁ですね。」

 こんな睦まじい交流を聞きながら、黒野は一つ思っていた。ならば、煝煆の美事みごとな火術もやはり、具体的な何かへ帰依した結果なのだろうか。

 いっそ、この疑問を議論の場へ放り込んでやろうかとも思った彼であったが、しかし一瞬躊躇った隙に、煝煆当人が、アグリッパの『隠秘哲学』第三巻の受け売りかい?、と皮肉げに述べてから、

「ところで、その、『緑園』というものが何なのか、今一度教えてもらっても良いかい。」

「ええ、」またも白沢の方が、「伊斯蘭の用語で、簡単に言えば、猶太や基督の『天国』に相当するものですね。……これらの諸先輩方の標する教えの原典においては、実は、天国や地獄というものは非常に曖昧模糊としているのですが、その一方、クルアーンの啓示では明瞭に説明されています。」

 煝煆が、首を搔きながら少し唸る。

「そうか、……そうだよ、そういえば、私が新旧の聖書を読んだ限りでは、神に認められた者は千年王国だか神の国だかに蘇る、或いは入れるというだけで、明確な天国や地獄の存在は読み取れなかったぞ。よく分からんが悪魔の巣窟、という意味での『奈落』は有ったが、」

「とはいえ、地獄や天国が存在しないと、教化や布教において色々差し障りますのでね。過激派福音主義の急先鋒であるイロハ婦人ですら、それらの存在は認める筈です。なにせ、認めない宗派は、異端として殆ど根絶されたらしいですから。

 まぁ、基督教の事はイロハ婦人に譲るとして、緑園の話に戻りますと、そこは、生前の善行や悪業、そして懺悔などを全てAllāhアッラーフが勘定して、相応しいと見做された者のみが向かう場所なのだと、教えにされています。そして、そんな信賞制度のみでなく、緑園自体の光景もクルアーンで詳細に述べられておりますから、我々ムスリムは只管そこへ入る為に励む事が出来、また、氷織においては、そこへの憧憬を魔術の媒介に出来る訳ですよ。この点は、猶太や基督の教えに対して、明確な強みでしょう。」

 そこまでいとも楽しそうに述べていた、白沢であったが、しかし、「ふむ、」と述べた煝煆が続けて「どんなだい?」と問うと、その顔が矢庭に渋くなった。

 押し黙る彼へ、再び、その愁然とした眉を訝しげに寄せた煝煆が、

「どうした白沢、何をそんな応え辛そうに、……その、詳細に述べられているという緑園とやらの様子は、一体どうなって

「各自72人の処女にをしてもらえ、また、彼女らは処女性を失わないし、自分のは決して萎える事が無い、……だそうです。」

 夫を見かねたのか、氷織が毅然と述べていた。

 ぎょっと皆が彼女を見詰める中、氷織は、しかし先程注目された時の態度とは全く異なって、そのゴーグルの色濃さで視線を弾き返しているかのように、露も動ぜす、平然と、

「クルアーンに人数が明記されていませんので、解釈者によって100人だったり70人だったりしますが、とにかく、一般にそう見做されております。」

 氷織はそう述べつつ、自分の皮鞄の中から分厚い本を一冊取り出した。垣間見えた頁に記された、黒野には蜿蜒と目茶苦茶な線が続いているとしか見えない筆記は、どうやら亜剌比亜語で、つまり、彼女らの聖典、クルアーンである。

「一応検めながら説明しますが、……緑園には錦の織物の寝所が有り、永遠の若さを持つ少年が巡り、彼らは酒や食物を運んでおります。この酒は――それで楽しいのかは知りませんが――幾ら飲んでも酔わず、また、食べ過ぎても障りを残しません。果実も鳥の肉も思いのままに食せ、また、真珠のように美しい乙女も、……まぁ、のでしょうね。」

 一旦ページを送ってから、

「木陰には冷たい水が流れ、豊かな果物が取り放題で、……まぁ、永遠の処女がどうのこうの、ブラブラブラ、」

 そう、あまり面白くなさそうに読み終えてから、叮嚀に、その立派な詩句集を閉じると、

「というわけでまぁ、……詳細である挙句、正直、特に男性へ魅力的に描かれてはしまっておりますね。」

 そうやって、「吐き棄てる」と表現しては言い過ぎにせよ、しかし聖典について語るには少々乱暴な態度を見せた氷織を見て、黒野は、スーフィーとして法学者に逆らいがちだという彼女は、逐語的な表現へ不満を覚えられる自由を確保しているのだろう、と一つ推測した。

 苦笑している不意安は、何か二三言口籠ってから、

「……ええっと、正直反応に困っておりますので、宗教学的な意見だけ述べますと、その緑園の様子は、白沢さんは強みと仰言りましたが、しかし寧ろ、異端や勝手な解釈を許さない伊斯蘭ならではの、アキレス腱にも聞こえますね。いえ、例えば仏教では、先も述べましたように誰もが釈迦の教え――の様なもの――を新たに語る事が出来ますし、また、釈迦の言葉自体も、時期や場面によって全く一致しない、寧ろ矛盾の夥しいことが当たり前な訳ですよ。つまり仏教では、聞き手の段階に応じて、種々の色合いの教え、極端な場合には譎詐をも、方便として用いられてしまうのですから。」

「譎詐?」ぎょっとした白沢が、居心地悪さを誤魔化さんとする勢いで、「それは、……中々、釈尊も無体な真似をしますね。」

「しかし、譬えれば、数学の初学者へは『あらゆる数は自乗すれば正となる』と説明してしまう事も多いでしょう。また、力学の初学者には、物へ仕事を与えれば何処までも加速すると教えておくでしょうし、舎密の初学者には、希瓦斯は化合物を作れない、と述べてしまうではないでしょうか。これらは正しくない訳ですが、しかし教えとは、対象の到達度に応じて然るべき段階を踏まねばなりません。」

 物理や化学に対してすらの造詣を仄見えさせた不意安に、黒野が戦いていると、彼女は、白沢がそれらを理解出来ずに当惑しているのをまるで気にしない様子で、

「とにかく、原典において記述が空疎な故に、プロテウスの如く変幻自在な猶太基督の天国観、そしてそもそも教えそのものが柔軟極まりない仏教と異なって、その、伊斯蘭の、楼閣の如き確乎たる論理は、暑熱地域の男性にばかり魅力的と思われる霊界描写を固定してしまった訳ですから、そこはアキレス腱だろう、と、私には思われたのです。処女や冷たい水に、魅力を覚えなければならないのですから。」

 此処で一旦話が決着した筈であったが、なおも不意安は止まらずに、

「柔軟な仏教の例をもう一つ挙げれば、古くさい、広義な女性蔑視は仏経のそこかしこに含まれており、我らの最も尊ぶ『阿弥陀四十八願』にすら、女身は成仏出来ないという思惟が仄見えておりますが、しかし、仏教においては経典の取捨選択や新たな解釈が許される以上、そんな点も悠々と糊塗こと出来るわけです。実際浄土教一般においては、現世からの直接の成仏ではなく、浄土という理想的な修行地への転生、即ち『往生』を一旦経ることで、今現在が女性であっても結局、浄土から問題なく成仏出来るのだとしています。また、同様な柔軟性によって、悪党へ成仏の機を認める教義すらも展開されうる訳ですね。

 この手の寛大さと言いますか、いい加減さは、世の広い人口に訴えられるということで、伊斯蘭には無い強みとなるでしょう。」

 漸く満足したらしい不意安が口を閉じると、氷織から、

「責任を取って私から弁解すれば、伊斯蘭観における最後の審判では、緑園へ行けない者は全て地獄へ落ちるとされています。浄土だの六道だの煉獄だの辺獄だの永遠の死だのという、半端なものは無いのです。緑園か、さもなくば地獄です。なので、緑園の酒池肉林を求めようが求めまいが、我々は地獄を避ける為に結局そこを目指さねばならず、つまり、クルアーンの当該箇所を引きつつ、ムスリム一般が欲望豊かであるとする攻撃は、全く成立しません。

 ところで、……不意安、その、浄土教における悪人への救いについて、少し述べてもらっても良いですか?」

 不意安は、彼女としては枝葉のつもりであったらしい話へ興味を持たれた事に対して、驚きと嬉しさの交じった微笑を見せてから、

「『悪人正機』、という思想ですね。どちらかというと、法然上人よりも親鸞によって強く展開されたところなので、あまり私は親しくのないですが、……そうですね、猶太思想における、原罪に近いものです。厳密には、生まれる前からと限らないですが、とにかく、衆生は生きていれば悪を働いてしまうものだと。完全なる善悪の基準なんて分からないのだから、これは不可避だと。つまり、生ける者は必然皆悪人であるのだが、それでも、――いや、それだからこそ、憐れみ深い阿弥陀のお力によって救われるのだ。……位、ですかね。」

 小首を傾げる氷織へ、続けるに、

「ただし、流石の親鸞も、敢えて積極的に悪事を働く事については、強く戒めております。盗むとか人を殺すとか、そういう意味の『悪』とは、少々違うかも知れません。」

 何故だか氷織が、どこか残念そうに、そうですか、とだけ返した直後、再び部屋の扉が開かれた。

 高い音の余韻が残る中、皆が其方を注視すると、

「なんだなんだ、」見よがしにきょろきょろしながら、「どうやら、あんたらだけですっかり娯しんでるじゃないか!」

 そう言いつつ入って来たのは、何か重そうなものを手に提げた蟠桃で、イロハと、そして、黒野の見知らぬもう一人を伴っていた。黒い、小さ過ぎる水泳帽のようなものを被っていることで、最近焼き付け刃の知識をつけた黒野にも猶太のラビと分かるその男は、イロハや白沢よりも更に一回り年上、不惑過ぎに見られ、柔らかそうな白藤色の鬚を雲のように蓄えている。

 しかし彼は、黒野の素朴に抱く、ラビという存在のイメージを裏切ってもおり、その、南国の猿のようにギョロリとした黒目勝ちの両目は、厳粛さや柔和さよりも、少々始末に負えない好奇心を窺わせるのだった。律法に通ずる聖職指導者という事で、学者肌と世俗的愛想が屡〻同居する、ラビという職業だが、この美髯夫の顔貌においては前者が勝っているようだと、黒野は感ずる。

 そんなラビは、見知らぬ二人の中で手近な黒野の方へ挨拶に寄って来ようとしていたし、遠巻きな不意安も、立ち上がっては彼へ名乗ろうとしていたが、しかし、蟠桃は、手を叩いて注目を強制的に集めた。

「よし、全員集合してるな! まずは、そこの新入りのことを皆へ紹介するのが筋だろうが、……どうせお前等の中では、もう野生な自己紹介がとっくり済んでるんだろ?」

 不意安が、苦い笑顔を見せるだけでうべなえば、

「と言う訳でだ。ちゃんとした紹介よりも先に、出港手続きを済ませちまうぞ。」

「手続き?」煝煆は、まるで溶けたかのように上体を椅子から食み出させつつ振り返り、無理に蟠桃と視線を合わせながら、「荷物検査は受けたけどな、後は、何が必要なんだい?」

「取り敢えず、……これだ!」

 蟠桃は、そう半ば叫ぶと、手に持っていた鉄籠を高々と掲げた。その中には若鶏が二羽詰め込まれており、急に持ち上げられたことで檻の中で蹌踉よろめいている。

「誰だ、こんなもん船に持ち込んだのは!」

 氷織が控えめに手を挙げる横で、白沢が、

「その鶏が、何か?」

「何かって、氷織、お前、……そもそも何で鶏なんざ、」

 やはり白沢の方が、

「何故って、当然食料ですが、」

「飯なら、冷凍ものをちゃんと十二分に用意させるって言っただろうがよ!」

「ですが、」白沢は、少し口籠りながら、「我々、特に氷織が、どうしても不安になってしまいましてね、提供される食物が、本当にハラールなのか、……つまり、豚などではないにしても、で、ちゃんと屠殺された肉なのか、と、」

 無神論者蟠桃は、露骨に舌を打ってから、縋るような顔で、

「そういう気持ちは、分からんが分かるよ。……だが白沢、聖法の前に、世俗の法を考えてくれ。が事前の申請と合わんと、出港出来んのだ。」

 ……魂?

 神をも畏れぬ蟠桃にはまるで似合わぬ言葉が出て来たな、と、黒野が思っていると、白沢は首を振りつつ、

「ああ。出港にそういう規則が有るのですか、これは失礼を。……しかしそれなら、検吏も、我々を咎めてくれれば良かったでしょうに、」

「いんや、あいつは真面目に仕事をしたさ。……お前等夫婦の搭乗は、人間二人の鶏二羽で『四』と勘定され、そして、今さっき俺達が搭乗しようとした時に、人数過剰だと、撥ね除けられたんだよ! 今の俺は、事態の収拾の為に仮に乗り込ませてもらっているだけだ!」

 煝煆や不意安が笑ってしまう中で、首を縮め、少々恐縮した様子の白沢が、

「それはそれは、……ならば、今すぐ二羽とも捌いてしまえばいいですか?」

「それって、――えっと、」蟠桃は、日常的な時間単位を学語のそれに変換するのに苦労したらしく、間を取ってから、「十五分、十五分で終わるか!」

 問われた白沢が妻をちらと見ると、彼女は、とてもとても、と口で言う代わりにふるふる首を振る。

「なら、駄目だ。済まんが抛棄して行ってくれ。何、ちゃんとお前等夫婦の為にハラール準拠、守谷もりやの為にはカシュルート準拠、そして不意安の為には菜食で、それぞれ冷凍食料は積み込ませてあるんだ。どうか、そこは信用してくれよ。

 ……それに、仮に俺なり業者なりに騙された上でならば、神仏も御容赦してくれるんじゃないのか? 特に、慈悲深きアッラーフや無量光仏はよ!」

 諧謔的な効果も狙われていた、この蟠桃の説得であったが、しかし、微笑みつつ肯んじた不意安とは対照的に、ムスリムの夫婦は必死に互いを見合わせる事になった。激しく眉根を寄せた白沢と、僅かにのみそうした氷織が、何か、訳の分からぬ言語の早口で相談し始める。現地語によって黒野だけを除け者にする理由は無いので、亜剌比亜語か何かで慌ただしく秘密な応酬していると思われた彼らであったが、直に氷織は、彼女にしては珍しく――という、出会ったばかりの黒野の感想が正しいのかはいざ知らず――、片手で頭を抱えつつ身を傾ぐという、不行儀な姿勢を晒したのだった。瞑目しているのかどうかはその暗いゴーグルのせいで分からないが、とにかく苦悩している様子である。

 見かねた蟠桃が、何か意気込んで一歩踏み寄ってきたのと、ほぼ同時に、結局氷織は立ち上がって、

「どうすればいいですか? 鶏を引き取ってくれる場所なんて、この辺りに有りますか?」

 これが、当て付けや皮肉ではなく、素直な質問であるらしい事は、彼女の毅然とした態度が示していた。

「そんなもの、」蟠桃は、肩を竦めながら、「鶏が幾らだったのか知らんが、惜しくない値打ちなら検吏に押し付けりゃいいだろ。」

「それでは、彼に迷惑では、」

「馬鹿言え。彼奴等は、没収のプロだぜ。喜んで、かは知らんが、とにかく任せりゃ良きに計らってくれるさ。」

 こう言われた氷織は、雄弁な溜め息を一つくと、小円卓をぐるりと回って蟠桃の方へ歩み寄っては、その鶏の檻を彼から引っ取り、そして歩みを全く緩めない。

「つまり、波止場へ持っていけばいいのですね。」と述べつつ扉を開く彼女を、「そりゃそうだが、ちょっと待て俺も行くぞ、」と蟠桃が追いかけて行き、苦笑するイロハの手によって扉が封じ直されると、久々に部屋の中が静かになる。

「さて、どうしましょう。」

 イロハが矢庭にそう述べたが、その矛先が自分だと気が付くのに、煝煆は少々時間を要したようだった。

「……私が、それに答えるのかい? 何故?」

「貴女は、カハシムーヌの副会長でしょう?」

 彼女は、自分の額を手で打って、

「ああ、そうだったね。……名ばかりで、何も仰せつかった事無いがなぁ。秘密結社ごっこを愉しむ為に、蟠桃が適当に指名しただけだろ?」

「まぁ、否定はしませんが。」

 戸口でそう述べたイロハが、小卓の方へ寄って来る。その、女性にしては大柄な彼女の、高名な議員に相応しい柔和な顔や落ち着いた足取りは、同居人の黒野には見慣れていた筈だったが、しかし、ここ数日で福音主義の血塗られた歴史や信念を学んだ上で、先程聞いた、「過激派福音主義の急先鋒」という彼女への評を思い返してしまうと、彼は少し悚然ともしてしまうのだった。

「つまりまぁ、……私は、口実が欲しいだけなんですよ。この、一筋縄では行かない者共が集った座を統御するという、面倒事を、私は貴女へ押し付けたいのです。」

 煝煆は、素直な奴だな、という思いを籠めるように、ふ、と笑ってから、

「夫の尻くらい、あんたが拭ってくれよ。」

「まだ、結婚の秘蹟は受けておりませんのでね。」

「ええい、やかましい、」と卓の向こうを指差して、「殆ど、内縁の夫婦のくせに。基督の教会が許さんのなら、そこの不意安にでも頼んでさっさと挙式しろ!」

 指定された不意安は、大笑してから、

「私は僧ではなく優婆夷に過ぎないので致しかねますが、まぁ、然るべきお布施さえ頂ければ、明らかに教徒でなかろうと婚姻儀を承る寺も実際多いでしょうね。」

「なんですかそりゃ、徳も何も無い、」と白沢が挟まれば、

「日本仏教は、一般にそういうものですから。例えば、日本の葬儀では、どっさりお布施を頂いた上で、亡くなった方へ大層な『戒名』を寺から送る事が当たり前らしいですが、これは、授戒される程の立派な仏教徒になった――ということに、急いでする――ことで、その者へ功徳を――取ってつけたように――得させようという企みです。つまり、殆ど信仰活動を送っていなかった輩が、戒体や戒名を授かるほどに修行した者と同等の功徳を突然得んとするのですから、それはもう、それ相応の御仏への想いを、何かで見せねばならないでしょう。その何かとは、まぁ、お金が手っ取り早い訳ですね。そのお金は、僧や寺の生活に使われ、最終的には如来の教えを広めたり継承したりするのに役立つのですから。

 つまり日本仏教の、お布施さえ頂けば誰へも執り行ってしまう結婚儀や葬儀も、実際には、一発派手な喜捨をするようなもので、見た目程俗なものでもない、……と言う事なのでしょう、多分、きっと。」

 ここで一旦言葉を切り、ちらとイロハへ視線を送ってから、

「もしも、貴女のように仮借ない仏僧が日本に居たら、こんな情況を歎いた挙句、『宗教改革』が起こされてしまうのかもしれませんが。」

 イロハは、ここでも娯しそうに笑むと、

「別に私は、ルターのことを好もしく思ってなどおりませんがね。」

「おや、それは意外で。……まぁいずれにせよ、日本仏教式の結婚式では、イロハさんの尊ぶような、基督教の秘蹟の条件は満たせないでしょう。」

「重ね重ね否定するようで恐縮ですが、私は別段、七つの〝ひせき〟とやらをコンプリートすれば神に救われる、なんて、聖書の何処にも見つからない、トランプ役のような妄想になぞ興味ないですよ。」

 じゃあ何で言い出したんだ、と、呆れたような愁眉の女神官。

「それは、……ですから、私はただ貴女に押し付けたいんですよ、煝煆。さ、腹を括って、さっさと仕切って下さい。」

 溜め息に続いて、ロクな死に方せんぞお前、と煝煆が述べれば、私の命運はとうに決定されておりますから、と、イロハは飄々と返すのだった。

「予定論者とは、まともに喧嘩出来んなぁ、」と、文句を垂らしてから立ち上がった煝煆は、そぞろに膝の辺りをはたくと、「じゃあ、……守谷、自己紹介してやってくれないかい? 不意安や黒野へ、」

 守谷と呼ばれたラビは、ほっほっほ、と、黒野にはサンタクロースを思わせる、悠然とした笑い声を出してから、

「どうぞ、お二人とも宜しく。学語では、『守谷』と名乗っておる者です。仏教徒や〝旅人〟との交流はこれまでに御座いませんでしたからな、どうも、此度の会合は楽しみですよ。」

 黒野に続いて名乗り返した不意安は、その勢いのまま、

「猶太教徒、ですよね? だからと言ってまさか、所謂『猶太人』ではないのでしょうが、」

「ええ。かつて〝旅人〟に感化された、此方の世界での最初の教徒から、教えを綿々と受け継いでいる者共の一人です。」

「忌憚なく申し上げれば、……物好き、ですねえ。」

 不意安の放言に、僅かに空気の軋む中、

「猶太教とは、苦難にまみれた古代イスラエル人が救いの無い境遇を正当化する為に編み出したもの、と、外部の不信仰者からは評価されておりますが、……まぁ真実がどうであるにせよ、とにかくそんな印象を与える重苦しい教えへ、先祖代々の英才もなしに帰命を為すなど、私には不可思議に思われるのですよ。」

 猶太教全体というよりも、その成立を特にあげつらう事で、守谷のみでなく、アブラハムの民である白沢やイロハへも喧嘩を売っているこの言は、しかし裏を返せば、議論を尊ぶというカハシムーヌの精神への信頼を表しているものでもあり、事実、イロハは嬉しそうに笑み返していた(白沢は面喰らっていた)。

 とにかく、別段恬然てんぜんとしたままの守谷は、

「確かに私も、ヨブの様な目に遭いたい訳ではないですがな、しかし厳しい教えの中にも、寧ろそれだからこそ得られる安らぎも有るのですよ。例えば安息日ですが、労働作業一般や点火、魔術行使が行えないこの日には、日頃の文明的営みが困難となり、つまり、教徒は酷く無聊を託つ事になるのです。しかし、このような自動的な退屈は寧ろ、家族とじっくり語らう時間を我々へ齎すことで、忘れがちながらも最も大切なもの、絆や精神的豊かさを育んでくれるのですよ。」

 イロハは、そう述べ終えたラビへ着席を促すと、

「守谷さん。その、安息日ですが、」一瞬、目を鋭く搾りつつ、「もしもその日、貴男の息子なり孫なりが井戸へ落ちたら、どうなさいます?」

 明らかに、新約聖書における基督からファリサイ派への言を引いている、つまり、文字通りの質問ではなく、基督教から猶太教を見た、或いは際の、旧態へのつつきであったが、守谷は、こんな害意に気付いているのかいないのか、

「それはもう、すぐさま助けますとも。」

 こんな平然とした返答によってイロハが一瞬つまらなそうな顔を見せた隙に、守谷は言葉を続けた。

「ところで、七年前の安息日での出来事なのですがな。長男の嫁の不注意で燠火おきびが消えてしまい、一家で窮してしまったのですよ。イロハ殿、この時、我々はどうしたと思われますかの。」

 首を少し傾げたことで照明の具合が変わり、硬く編み上げた、殆ど真っ白い、しかし加齢による白髪とは異なる艶やかな美髪を、海月のごとく妖しく輝かせ始めたイロハは、少考の後に、

「そんな不便を有り難く一日堪え忍び、信仰心だか精神力だかを増強させた、……のでしょう?」

「いえいえ。すぐに表へ出て親切な通行人を捕まえ、元通り点火していただきましたとも。」

 呆れたように月白の眉を上げるイロハへ、守谷の続けるに、

「皆様も冷蔵器は日常的に用いておられるでしょうが、我々も、同じく魔力によって温度を維持する器具として、保温器を最近発明しておりますよ。これは、つまり、前日にありったけの魔力を投入しておく事で、安息日の最中において直截魔術を用いる事なく、温かい食事を摂る事を可能にしてくれるのです。」

 イロハは、少し天井を睨みつつ言葉を整理してから、

「不意安さんの発言ではないですが、私も貴方方のことを、無数の律法に縛められるのを平然と、というよりも寧ろ怡然と享受する集団だと理解していたのですが、……抜け道というか、そんなものを嘉してしまうのですね。

 仮に世界の全てが猶太の教えに従うようになったら、一体誰に火を点けてもらうおつもりなのか、とも一瞬思いましたが、……布教の意志のない貴方方には、当たらない非難でしょうか。」

「別に我々は、世界救済などは目指しませんからの。

 それに、『必要は発明の母』、と、……ええっと、黒野さん、」

 延々蚊帳の外で完全に油断していた挙句の御指名に、ぎょっとした彼へ、

「これは、果たして誰の言葉でしたかな。ちょっと、最近記憶が、」

 黒野は、半ば当てずっぽうに、

「ええっと、……トーマス・エジソン?」

「残念、『ガリヴァー旅行記』中の科白ですね。」

 こうして、久方ぶりの発言をイロハに仮借なく踏み潰された黒野であったが、彼はめげずに、

「お詳しいですね、……ウチの世界からの、小説までもお読みに?」

「普通はそんな暇など有りませんが、しかし、あの作品は特別ですから。」

 彼女はそのまま、恰も都合の良い標的を見つけたかのように、彼の方を見詰めつつ、

「黒野さん。『ガリヴァー旅行記』の第一篇、小人の国〝リリパット〟に於ける物語は、どういう内容か御存じですか?」

「ええっと、」彼は、部屋の中を右から左へ一瞥し、氷織が戻って来ていないのを確認してから、「ガリヴァーが放尿して火事を消し止めて、処刑されそうになって逃げるって言う、」

 イロハは、黒野の物怖じた気遣いを、しかし寧ろ火消し屋への皮肉だと受け取ったのか、感心したように笑みを深めつつ、

「皮相的には、そうですね。しかしより重要な事として、実はあの物語は、当時の英国における宗教的争いを強烈に諷刺していたのですよ。イングランド国教会という、胡乱極まりない動機から立ち上がったプロテスタントと、虚栄と偽りに拘泥するカトリックの、醜く無駄な争いをね。」

 イロハによるカトリックへの蔑視については、まぁそりゃそうだろうなというのが黒野の感想であったが、しかし、プロテスタントの方まで何故そんな、と思った彼は、一つ端的に問い返した。

「胡乱?」

 イロハは、擬似餌に魚が掛かった釣り人と、同じ種類の欣然を見せつつ、

「先程丁度、私と蟠桃の結婚問題が話題として出て参りましたが、……イングランド国教会も、実は、婚姻問題をきっかけに発生した勢力なのですよ。神聖ローマ帝国――とかなんとか名乗る国――から海で隔てられていた事も有ってか、そこで生じた宗教『改革』にも影響されず、古式床しいカトリックに暫く染まったままだった英国でしたが、16世紀初頭に即位していた国王ヘンリー八世が、その後、ただならぬ騒動を巻き起こします。

 そもそも彼の初婚は、死去した兄の前妻、キャサリンを相手にしたものでした。この手の貰い婚は、猶太教では寧ろ推奨される場合も有ったようですが――猶太の方が緩いとは珍しいですね――、カトリックにおいては、生物学的な観点よりも血おもんみ、普通の近親婚と同様に禁ぜられます。しかし、ヘンリー八世の兄は14歳で亡くなっておりましたので、結婚といっても両者に肉体関係は無く、そこで、まぁ近親婚といえば近親婚かも知れないが事実上差し支えないだろう、という論理も立ち、実際教皇もヘンリーとキャサリンの婚姻を特別に許可したのです。

 これだけなら、教皇庁の寛大さに賛否両論、と言ったところで終わる話ですが、しかし、その18年後に話がややこしくなって参ります。ヘンリー八世は、キャサリンとの結婚生活によって五人の子供を得ますが、不幸なことに、その内の娘一人以外が夭逝してしまうのですよ。それまでのイングランド王国に女王の例は有りませんでしたから、このままでは、世継ぎ問題という国難を将来招いてしまいます。そこでヘンリー八世は、王子を得る為に、アンという新しい若妻――キャサリンの22歳年下――を迎え入れようとしました。……もしもこの話が、多妻や離縁を許容する伊斯蘭や、将軍に莫大な規模の側室を用意したほどの日本のような風土においてであれば、大した問題は無かったでしょうが、しかし、一夫一妻と婚姻の永続性を厳格に定めるカトリックでは、決して簡単に参りません。しかも、もしもこれが一般な市民における話であれば、諦めるなり、或いは逆に恥も外聞もなく押し通すなり出来たでしょうが、何せ王家の世継ぎに関する話であり、即ち国家の体面に関わる以上、成果と高貴さの双方が絶対的に求められます。

 このようなにおいて、ヘンリー八世は、いとも素晴らしい手腕を見せつけました。具体的には、聖典をひっくり返した挙句、『レビ記』から都合の良い記述を見つけたのです。つまり、その十八章の、『貴男の兄弟の妻を犯してはならない。それは貴男の兄弟を辱める事だからである。』を引いて、いやはや恥ずかしい、自分とキャサリンの婚姻は聖書に照らして無法であった、申し訳ないから今からでも無効にせねばなるまい。……となれば、自分は婚姻などしていないことになるのだから、アンとの結婚は問題なかろう?、……などという放語を、まぁ、臆面もなく宣った訳ですね。」

 一番に反応したのは、白沢だった。

「なんと、……馬鹿馬鹿しい! 特別に認めてくれと自分から言い出したのであろう初婚を打ち消そうとする鉄面皮も然る事ながら、そもそも耶蘇は、律法主義からの解放を誇りにしていたのでしょうに。にもかかわらず『聖書』を根拠として引き、大体、その箇所は文脈的に兄弟を指していると読むのが普通なのですから、こじつけにも程というものが、」

 とうに着座している守谷も、頷いて、

「少なくとも最後の点については、しかり、でしょうな。だからこそイロハ殿の語ったように、情況によっては、貰い婚レビラトが我ら信徒の義務とされ得るのですから。」

 イロハも、一つこくりと頷いてから、

「当時の教皇庁、より言えば教皇クレメンス七世も、同じような事を思ったのでしょう。イングランド王が相手という事で門前払いな返事は寄越しませんでしたが、しかし、アンと婚姻を明瞭に認めるでもない、あやふやな特免を王へ与えました。時間を置けば頭も冷めるだろう、という狙いも有ったのかも知れません。

 しかし、実際のヘンリー八世は驚異的なしぶとさを見せ、複数の国家を巻き込んだすったもんだを演じた挙句、終には、議会に『王は教会の唯一の守護者、唯一の主であり、また基督の掟が許す限りにおいてその首長である』、という、不遜極まりない宣言を採択させたのです。……端的に述べれば、今後イングランドの教会はローマの教皇庁から独立し、自分こそが絶対的支配者になるのだ、と宣った訳ですね。」

「嫁取り話から、そこまで行ったのか。……呆れる男だねえ、」と、煝煆が零せば、

「この宣言によって、カトリック組織へ向かう筈だったあらゆる資金が王の下へ捩じ曲げられもしましたので、当然に激怒した教皇からは、王への、非難の勅書や破門宣告が出されました。かくして、イングランドの国教はローマ教皇と完全に断絶されたのです。

 このような動きも当然、カトリックへ反抗、protestなのですから、イングランド国教会は広義において立派にprotestantなのですが、……しかし、他のプロテスタント諸派、教義上の解釈問題で仕方なく、清い怒りと覚悟の下にカトリックから離反した彼らと比べれば、このような、教えや解釈のことなどどうでも良いからとにかく生意気なローマ・カトリックから離れてやるぞという体の動機は、……どうでしょう、黒野さん。『胡乱』、ではないですか?」

 彼が、はははと苦笑いを返すと、彼女は胸へ手を当てつつ、

「無論、その後時代を経て中身もしっかりプロテスタントらしくなった挙句、清教徒の母体となり、そして、米国という強烈な国家を生んだ以上、この馬鹿馬鹿しいブリテン島でのも、赫々たる功績を残しはした訳ですが。

 ただ、……実際には、ヘンリー八世の二代後のイングランド王は、結局、初婚の相手キャサリンとの娘メアリーでしたし、ヘンリーとアンの娘であるエリザベスも、後に、女王として特に問題なく即位しています。つまり、世継ぎ問題の為にヘンリー王の起こした大騒動は、偉大な影響を齎しつつも、当初の目的は全く達成されなかった訳ですね。」

 長口舌の最後にもきちんとオチを持ってきたイロハは、その巧まれた論筋によって、議会の大物らしい雄弁術を黒野へ伺わせた挙句、守谷を、返した手の先で指し示した。

 無言で指名され、「はて、」と返す守谷を、見兼ねた煝煆が、

「あんたが、『必要は発明の母』がどうのこうの、って言ってたんじゃなかったかい?」

「おお、おお、」彼は、何か神々しい目にでも遭ったかのような大袈裟な反応から、「そうでしたそうでしたな。つまり、多くのこと――言葉を選ばなければ『不便』を――託つことになる猶太の民は、必然多くのを日常で覚える事になり、その結果、この世界でも黒野さんの世界でも、多くの創意を生み出してきたのです。人口比の割には、歴史に名が上る事も多かったのではないでしょうかな。」

 こうして、宙吊りになっていた話題が漸く片づけられると、丁度よく、蟠桃と氷織が部屋へ戻って来た。寡黙な消防士の方は相変わらず表情が殆ど窺えないが、蟠桃は、面倒を片づけたという清々とした気分と、漸く船出だという昂奮とで、もともと若く見える顔を更に耀かせている。

「よし、野郎共出港だ! ……と、言いたいところだが、」

 手招きしつつ、

「煝煆、ちょっと来てくれるか?」

 また私かよ、と気怠げに文句を述べてから、「今度は、なんだい?」

「いや。積み荷の最終チェックを、一応副会長様と一緒にしておこうと思ってな。洋上で餓死はしたくないだろ?」

 夫婦それぞれから職責を畳みかけられた彼女は、いとも面倒臭そうな顔で立ち上がったが、しかし、一歩だけ進んだところで足を止めた。

 怪訝そうにする、蟠桃へ、

「なぁ、塔也も連れて行っていいかい?」

 誰だそれ、という顔を一瞬見せてから、書生の下の名前を思い出した蟠桃は、

「何故?」

「逆に、何故駄目だい?」

 この反問に、まさか納得した訳でもなかったろうが、しかし蟠桃は、無言でそびらを返す事で、つまり、二人を部屋の外へ誘う事で肯うのだった。

 黒野は、感謝を覚えつつ、カハシムーヌの双頭へ船内を従って行く。彼は、煝煆が反問を繰り出した際の、扉の円窓に映った彼女の凄々たる眼光と、そして、そこにただならぬ憤りが充溢していた事を、それぞれ見逃さなかったのである。この世界に彼を殆ど触れさせてやっていない事についての怒りと、それを僅かばかりでも埋め合わせてやろうという思いやり、つまり、彼女の母性それぞれに、黒野は目敏く気付いたのだった。

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