メゾン・ブルー

紗市

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 長年愛用していた筆が、その劣化故か、うっかり落とした拍子に折れてしまった。今思えばそれが、現代美術における天才、超新星とまで謳われた僕がスランプに陥ったきっかけである。

その界隈ではすっかり有名となった芸術家、新井伶が創作活動を休止し渡英したのはおよそ二か月前で、表向きの理由は海外にて新たなインスピレーションを求めんという、積極的なものとされている。僕が実際はスランプ状態で今は絵など到底描ける状態でないことは、世間に晒されることはない。特にこちらから発言をせずとも勝手に想像して僕を休ませようと騒いでくれるファンに対しては正直ありがたいと思っている。

 独創性のある直感的な筆の動き、作品によってころころと変わる表現手法、様々な解釈を可能にする作品は、幅広い年齢層から支持を集めていた。作者が未だ二十代ということが判明してからは、芸術を嗜むものであればその名を知らない者を探す方が難しいというまでにその名を世界に知らしめていた。

 その矢先であった。誰にだってそういう時期はある。キャンバスに向かえなくなった僕が、最も信頼できる芸術大学時代の友人に思い切ってそれを打ち明けると、誰にだってそういう時期はあるよ、と言って慰められた。彼は、本当に僕が心配だという表情で俯いた僕の顔を上げさせた。

僕が有名になってから、親しかった美術関係の友人は総じて僕を遠ざけた。あからさまに僕に敵意を向ける者、適当に理由をつけてやんわりと僕との関わりを避ける者。僕は学生のころから何ら変わっていないのに、もうあの頃のように話してはくれない。

そんな中、先の友人だけは穏やかであった。表面上でニコニコしているのかもしれない、友達を失った僕に同情しているのかもしれない。それでも、唯一僕と話をしてくれることがありがたかった。だから彼の提案に従い、一度日本を離れることにしたのだった。

 僕が行き先をイギリスとしたのには特に意味はない。日常英語なら僕だってできるし、なんか涼しそうだし、とその程度の理由だ。それに現代アートの留学先は、検索するとやはりヨーロッパだった。別に学ぼうとして海を渡るわけではないのでそんなことは僕には関係ないのだが、一応興味はあったのでイギリスの美術関連の場所を調べてみた。しかしそういった情報はやはりスランプである僕のメンタルを抉るようで、在留予定地は敢えて郊外にした。日本に帰る直前になって僕が精神的に回復していれば、最後に観光として見に行けばいいなどと漠然と考えていた。



 イギリスでの生活は想像していたよりずっとのびのびとしたものだった。

一か月も滞在すればそうなるのも無理はないが、これには僕が街中を歩くのを躊躇い、殆どの時間をホテルの部屋で過ごしていることに由来する。

ここではアジア人がほっつき歩いていると「ニーハオ」なんて声をかけられるのは日常茶飯事だ。治安が良いとは程遠く、夜中に出歩くなんてもってのほか。外に出るときは最小の荷物で、スマホと財布は常に安心できる位置に、というのを意識することが必要だ。はじめの頃こそビクビクしつつちょっとした市場に足を運んだりもしたものの、最近はめっきりだ。ただ全く外出しないというのもどうかと思ったので、雨が降っていなければ早朝に散歩をする。あとは週に何度かの買い出し。そんな生活が続いている。

 僕がイギリスに来るにあたっては大分多くの人の反対を受けた。当たり前だ。自意識過剰かもしれないが、僕はまだ日本で注目される余地のある芸術家の一人だ。受けてほしいと申し出があり、保留にしている仕事も山ほどあった。それでも僕がその反対を押し切ってでも飛行機のチケットを用意できたのは、ひとえに両親のおかげである。二人はその多数には含まれなかったのだ。スランプであることを正直に話したことも理由としてあるのだろうが、なにより忙しない僕の身を案じていたらしい。お土産待ってるから、と笑顔で見送ってくれた。

僕が渡英を頑として譲らずにいることを受けて、これまた大勢からゴールドスミスやスレード美術学校にコネがあるから連絡しておこうかとか、気のいい芸術家の知り合いがいるんだけどホームステイ先にどうだ、などと誘いを受けたが、そういう目的じゃないから、と一蹴させてもらった。


「新井伶が絵を描けなくなるなんてあり得ない」


彼らから向けられる表情にはそんな本音が隠されているように思えて仕方がなかった。実際には僕から彼らにスランプだと告げてはいないので、皆の頭の中に、そんな考えは露程もないのだろうに。

一種の信仰にも近かった。彼らの視線の先には最早僕はいない。僕の作品だけを求めていた。疲れたから休ませてもらいたい。そう公表することは叶わなかった。

イギリスから帰った僕の荷物の中からは一つたりとも作品は出てこない。手遊びの一環で生み出された針金の動物たちさえ、作品としての形を保ったまま発見されるかどうか定かではない。彼らの求めるものはそうやすやすと手に入らない。そのことに気が付いた時、どんな顔を向けられるだろうか。ぼんやりと頭に浮かぶ顔が、不思議と僕に微かな恐怖と満足感をもたらした。

英国での生活はそんな僕の不安定な心情を突き放しはせず、しかしがっしりと支えるでもなくただ寄り添うように沁みついていった。



 珍しく晴れた日の朝だった。ここ一週間は雨続きで街には湿気が多く、この快晴では乾かしきれないほどに道路が濡れ、至る所に水たまりが見える。僕の帰国はあとふた月というところまで迫っている。まだキャンバスは白いままだ。

丁度食料も切れたのでぷらぷらと近所のスーパーに買い出しに出た。その帰りだった。

僕が暮らしているイギリス郊外というのは、まさにド田舎である。フアンタジー小説で見るようなレンガ作りの民家が並んでいる。その住宅街の中にあるこぢんまりとした借家が僕の仮城だ。今日のような晴れの日には、近所の子ども達がきゃっきゃと遊ぶ声が聞こえてくる。

しかし数日分のカップ麺などを抱えた僕の耳が今日はもう一人、成人した女性の声を捉えた。僕の少ない語彙では、鈴の転がるような、と言おうか艶のあると言おうか。とにかく甘く、人を引き付ける力がある。僕は思わず声のする方に目を向けた。

そこには一輪の百合の花があった。すらりと伸びた手足、太陽を知らないかのような真っ白い肌、健康的に肉付きのある体躯。美しい彼女は子ども達と手を繋いでくるくると舞っている。ここはただの住宅街の小路の筈が、彼女が舞えばそこはダンスフロアに、彼女と共に揺らめくワンピースは絹でできたドレスにさえ見える。彼女こそ女神だ。僕は思わずその場に立ち尽くしてしまった。

僕の体感では見入っていた時間は何十時間かと思うほど長かったが、実際は彼女が三度ターンをした程度だったろう。あちらは僕に気が付いたようだった。彼女のきらきらと光を反射させる瞳が、僕の生気のない眼球を貫く。女神と視線が重なることなど、もう一生ないのだろうと思われた。しかしあろうことか、彼女の唇は、この僕に対して言葉を紡ぐ。


「あなたも!」


彼女は唇まで花弁のように愛らしかった。



「覚えてる? 初めて会った日のこと」


三角まどかは今日も美しい笑顔を僕に送りつつ、その風貌には到底似つかわしくないジャンキーなカップ麵をすすりながらそう言った。そのカップ麺は僕が僕の為に買ってきて僕の為に湯を沸かし僕の為に好みの二分半のタイマーをセットして完成したものだが、こうも嬉しそうに食べられてしまうと、最初から彼女に食べられようと生まれたカップ麺なのかとも錯覚する。仕方なくもう一度鍋に湯を沸かすと、彼女はくふくふと笑う。満足顔の彼女を横目に先ほどの問いに答える。


「覚えてるも何も、そう前の話じゃないだろ」

「そう? でもまた思い出してよ、じゃないと忘れちゃうじゃない」


 世界で一番美しい彼女に手を引かれたあの日のことを、どうして忘れることがあるだろう。そんな筈はなかろうに、まどかは定期的にそう尋ねる。フィルターがかかったように眩しい光景は今も僕の中に残っている。反応を楽しんでいるだけにも思われるが、そう口にする彼女がどこか儚げに見えるのは天から注がれる光の加減だろうか。

 異国の地で出会ったこの人は日本人だった。あまりに自然に会話が出来るので聞いてみたところ、両親は共に日本人で、今はただここで暮らしているだけとのことだ。僕が聞きたかったのはどうしてイギリスに来たのかだったのだが、そこは上手く誤魔化された。彼女と会話をしていると頭が靄がかかったように曇って、深く考えられなくなるように思う。

 観光客以外で日本人を見たのは初めてのことで、人懐っこいまどかに流されるままいろんな話をして、いつからか僕の家で半日を共にするほど親しい間柄になっている。あんまり楽しそうに笑うから、突っぱねられない、というか僕が単に彼女に惹かれているのだ。彼女を受け入れているのは下心からくるものだと、ちゃんと理解してくれているのだろうか。

 いやそれは寧ろバレない方がいいのか、もう会ってくれなくなりでもしたらそれこそ立ち直れないかもしれないし。でもそんなこと考えながらまどかの隣にいるのは失礼極まりないぞ、僕。

 そうしてうだうだ考えている内に、彼女はごそごそと戸棚を漁っていた。


「伶、これ食べてもいい?」


 僕のスナック菓子を顔の前にぶら下げて、いいでしょう? と首を傾げた。猫みたいだ。ふと実家で飼っていた猫を思い出した。僕が許可を出す前にスナック菓子の袋は開けられていたけれど。

 僕が日本に帰るまで、あと一か月を切っていた。



 まどかに出会ってから、なんとなく自分はもう絵が描けるんじゃないかと思い始めていた。張っただけのキャンバスに、今の僕なら色を乗せられる、そう思えてきた。

 まずはコンセプトを定めなければ。ここでひとつ、僕は分厚い壁にぶち当たることになる。数か月引きこもりをしていた僕は、芸術において最も重要ともいえる思想が欠けているのだ。「欠けている」というより、すっぽり「抜け落ちて」しまった。毎日考えることといえばその日の天気のことか飯のことか、或いはまどかのことくらいのものだ。日本の出来事なんて知っても意味ないだろうと思っていたのでネットニュースのひとつも見ていないときた。僕に渡英を勧めた彼も、まさか僕がこんな状態にまで成り下がるとは思っていなかったろうに。

 はあ、とため息を漏らした僕を心配してか、まどかが開いていた本を閉じ、こちらをじっと見つめた。


「思いつかないの?」


 作品のことだと直ぐに気が付かれている。僕のことを微塵も知らなかった彼女には、アートのことなぞ解らないだろうと、以前事情を打ち明けたのだった。


「そう。キャンバスから離れすぎたんだよ、失敗した」


 真っ白いまま、しかし部屋の目立つところに置かれたそれを指さして言う。


「何を表現したらいいかわからない。完全に手詰まりだよ」


 彼女は僕の悩みをどこか楽観視しているようだったが、不思議と嫌味ではない。まどかの思いがけない一言には、ずっと心の底で考えていたことを言い当てられた気分になることも多い。

そんな目立つところに置いているくらいなんだから大丈夫よ、とほほ笑んでみせた。


「キャンバスを部屋から追い出さない限り、きっと何か思いつくよ」

「いつになるやら」

「ふふ、どうだろうね」


 否定も肯定もしない。僕にとって都合のいい存在を演じているのだろうか。掴みどころのない彼女には実際にも触れたことがないけれど、いつまで経ってもその核はおろか、細い髪にすら触れられないような気がした。



「ねえ、日本に帰ってみるのはどう?」


 昼食中、彼女からされた提案は思いもよらないものだった。

 日本に帰るだって? 冗談じゃない、まだなんの指針も定まってないのに。今日本に帰ったら僕に向けられる視線はどうなる? なんの作品もないまま帰れない。きっと前に僕が想像したよりずっと、世間の目は厳しいだろうに。


「それ。私ね、伶が絵を描けなくなった理由ってそれだと思うの」

「そ、それ?」

「うん。期待されてるって背負いすぎなんじゃない、多分」


背負いすぎ。つまり、


「僕の、自意識過剰」


「うわ、嫌な言い方。要はストレスでしょ、伶の中でのいい作品は、評価される作品とイコールで結ばれてる。そうじゃない?」

「でも実際ッ……そうじゃ、ないか。自分で言うなよって、感じかもだけど、」


 詰まる言葉を、それは日本にいた時の話でしょ、と遮られる。


「この四か月、毎日伶のこと考えてた人って、いると思う?」

「そんな人はいないだろ。気持ち悪い域だよ、それは」

「でしょ? でも伶はずっと作品のこと考えてたじゃない」

「そりゃあ僕だって焦ってたし」

「じゃあ、あなた以外に作品にケチをつける権利のある人っている?」


 声が詰まる。そんなこと、考えたこともなかった。最近の僕は、作品を世間に提出して賛否両論を一斉に浴びるだけだった。批判を減らすことばかり考えていたかもしれない。大学にいた時の方が、生活は極限状態だったが精神的には安定していた。


「だから、帰国しよう。そろそろ味噌汁とか飲みたくない?」


でも、帰国したって。それに日本に帰ったらまどかとは。


「いいじゃん、私も付いていきたい」


 思わず、大きな声が出た。



 彼女の隣で飛行機に乗っても尚、僕は彼女がここまでしてくれる理由が分からなかった。いつまでもそわそわと落ち着かない僕とは打って変わって、さっきから窓の外を覗いては、私飛行機って初めてかもなどとはしゃいでいるまどかの考えが全く読めない。じゃあどうやってイギリスに来たんだと問いたかったが、またはぐらかされることが分かっていたのでやめにした。

 僕は彼女の後押しにより、当初の予定を引き延ばしにせずに日本へ帰国することを決めた。付いていくから家に置いてよと迫られてしまえば、僕は弱かった。

まどかは今仕事もしていないと言っていたし、どこから資金が出てくるのだろうと思ったが、飛行機は自力で搭乗券を用意していた。もしかすると良家の出なのかもしれない。彼女が自身の身の上を語りたくなるまで待ちたいと思ってはいるが、それこそいつになるやら、である。

飛行機は無事に見知った空港へ着陸し、自国の空気に浸った。いざ日本、と考えるとやはり足も竦む心地だったが、まどかが隣にいるという安心感は絶大だった。ふたりで幾月かぶりの自宅へと向かう。



 渡英前の僕によって荒らされた部屋の散らかりようはまるで強盗に入られたようで、まどかとふたりでも寝床の確保だけで丸一日を要した。片付けが終わり、大々的に帰国を連絡するよりも先にやりたいことがひとつだけあった。何より先に、唯一僕の事情を知っている友人に報告をしなければならないと思っていた。

 学生時代から通う居酒屋。ふたりで集まるときは決まってここで話をする。彼は僕より先に着いて席に座っていた。

 久しぶりに嗅ぐ煙草の匂いが鼻をツンと刺激する。


「はは、久しぶり。随分太ってないか? 」

「え。そうか? 食生活はほぼ変わってないはずだけどな」

「嘘だろ、確実に前よりふっくらしてる」

「まじか…… 減量しないとかもな」

「いや、正直ストレスで痩せてんじゃないかって心配してたんだ。むしろほっとした」


 そう笑う彼は見たところ何も変わっていなかった。「心配」か……親以外で僕を気にかけてくれる人なんてお前くらいだよ、というのは改まっては言えないが、その言葉だけで嬉しいものだ。適当に酒を注文して、イギリスでの生活ぶりを話す。勿論まどかのことも含めてだ。出会い方がああだから両親にはなんとなく言いにくいと思っていたが、酒の力も手伝ってか、すらすらと言葉が出てきた。


「そんなことってホントにあるんだな…… 漫画の主人公じゃないんだからさ」

「だよな、僕も未だに夢なんじゃないかって思う」

「へえ、羨ましい。それで交際して、日本まで付いてきてくれて、同棲してるんだろ? もう親御さんに紹介してもいいレベルじゃないか」

「そう、そうなん……」


 ……交際? 僕ら、付き合ってたか?

 偶々道で会って、一緒に昼飯とか食べて、映画とかも見たし、作品のモデルにならないか試してみたりもした。挙句の果てに日本まで来て、これからは無駄に広かった僕の家の間取りを半分にするようにして、ふたりで生活する予定だ。傍から見たら「恋人」のそれだ。実際、目の前の友人には僕たちの行為ははっきりと「交際」「同棲」と受け取られた。


「ん。どうした、気持ち悪いのか? 」


 黙ってしまった僕を覗き込む。慌てて首を横に振って大丈夫と答えると、また「羨ましい」と話し始めた。彼女と上手くいかないらしい。

 僕とまどかの関係に名前を付けるとしたら。その答えが出ないまま、置いて行かれた気持ちはそのままに、僕の口だけがよく回る。



「おい、おいってば」


 肩をゆすって言葉を掛けるも、すっかり酔いが回ってしまった友人が起きる気配はない。こんなに酔うまで飲む奴だったかな、こいつ。

 イギリスから帰国した新井が飲みに誘ってきたのは正直嬉しかった。自分から「日本を離れてみれば」なんて提案はしたものの、この男がすんなり聞き入れるとは思っていなかった節があった。こいつも相当参っていたのだろう。向こうに行ってからあまり連絡もしなかったので心配していたのだが、帰ってきてみれば、案外ピンピンしているので拍子抜けしてしまった。遂にはいい人まで見つけて、絶賛同棲中だなんて言うものだから尚更だ。

 うんうん唸って自分の言うことをオウム返しする男に根気強く話しかけ、なんとか自宅の場所を聞き出せた。もう自分も眠くなってきたので手早くタクシーを呼ぶ。酒の量を減らしておいてよかった、としみじみ思った。



 新井が口にした住所に着くと、そこには一軒家があった。新築っぽい、コンクリートづくりの細長い家だ。そういえば名が売れたから引っ越した、なんて言っていたかもしれない。それにしてもこんなにいい家に住んでいたなんて。流石の俺でも少し嫉妬してしまう。


「……てかここって、例の同棲してるって家だよな。当たり前だけど」


 ここに新井を送り届けるということは、即ち彼の言う「女神のように美しい女性」と顔を合わせるということになるだろう。気まずい、多分。

 まあなるようになるか、とインターホンを押す。深夜にも近かったが仕方ない。同居人を送り届けているのだから感謝されるべきだ、寧ろ。

 しかし一向に扉が開かない。それどころか家の中で人が動く気配もない。寝ているのか。男女で住む家に入っていくのは大いにはばかられるが、これも仕方ない。新井の胸元から鍵を探し出して開けてしまう。芸術家らしく油絵具とか粘土のような臭いがする。

 玄関に転がしておけばいいだろう、彼女さんには悪いけど。新井を床に転がそうと広い玄関スペースの奥に足を踏み入れた。すると、コツンと軽い音の後にカラカラと何かが転がった。俺のつま先が蹴ってしまったようだ。真っ暗で何も見えないので手探りで電気をつける。


「え?」


 俺が蹴ったものはビールの空き缶だった。他にも何本か、男物の靴と共に並んでいる。

先ほど新井を横たえた場所は正確には床ではなかった。積み上げられたキャンバスの上、描きかけの絵の中で眠る彼をまじまじと見つめてしまった。



 正直に話してほしい。

 翌朝、一睡もできなかった俺は、新井が起きるのを待ってから言った。上がりこむ予定のなかったリビングに男二人で座る。どうしても相手の目を見ることができず、俯いてしまう。何事もないかのような顔でいるこの男のことが、今は怖くて堪らない。

 新井に虚言癖なんてなかった。イギリスに行ってから何かが変わってしまったのだろうか。明らかに一人暮らしの気配のするこの家には、美術の道具しかなくて然るべきなのに。

 彼女がいると嘘を吐いていたのはこの際いいんだ、見栄を張るには丁度いい文句だから。できれば嘘なんて嫌だけど、俺だってそういうメンタルの時あるし。

だから俺が目の前にいる男から直ぐに逃げられるように、本能的にドアが近い位置に座ってしまうのは、握った拳が震えてしまうのは、そんなことに怒っているからではない。

対にされたカトラリー。イギリスから帰ってきたのは一昨日なのに、明らかにそれに対応しない量のカップ麺の数。新井の趣味じゃない柄物のタオル。至る所に転がる絵筆とビールの缶。

どんな生活をしているのか全く読めない。全てがちぐはぐなこの空間が、俺の全身の震えを生み出していた。帰国してから彼女と部屋を片付けたと笑う昨夜の記憶の中の男の表情がどうしても嘘に思えなくて。

友人を信じられなくなる前に。もう一度、新井に尋ねる。


「言ってくれないか。彼女なんかいないって」

「どういうこと? この家で住んでるって言ったじゃんか、昨日」

「ああ、でも居ないんだろ? 別に怒らないからさ、俺」

「そういえば昨日、迷惑かけたな。あんなに飲む予定じゃなかったんだけど」

「あ、いやその……俺も勝手に泊まったしな、それよりさ」

「まどか、そろそろ起きてると思う。連れてくるよ」


 会話が嚙み合わない。彼は居酒屋に居る時と同じトーンで話をする。

 待って、と止める暇もなく奥の部屋へと向かってしまう。非常識かもしれないけど昨夜、この家の部屋は全部見た。何もなかったんだ、だから聞いてるんだ。


「ほら、綺麗だろ」


 部屋からは、新井だけが出てきた。

 ほら、じゃない。ホラーだ。俺が予想した中で一番厄介なパターンだ。

お前は間違ってる。そう言ってやるのが友達の優しさだろう。美しい女性なんて妄想に過ぎなかった、一人で二人分の飯を消費するのも無駄だ。部屋も汚いままだ。夢から覚めて、まともな精神で作品を出せばきっと売れる。

でも、彼女を否定したらお前がどうなるのか、安易に想像がついてしまったから。


「うん、めっちゃ綺麗」


 俺を信じきった瞳をまっすぐに捉えて、はっきりと嘘を吐いた。



 まどかは出会った頃と寸分変わらない笑顔のままで、僕と一緒に暮らしている。僕らの関係には名前が付いた。僕は、彼女と居ればもうスランプにはならないだろう、という程に安定した生活を送っている。支えてくれる友人もいる。ただ、もう取材は受けないことにした。そうすれば一日中、美しいまどかと、絵の具の匂いに囲まれて、創作を続けられる。

次の作品のイメージを膨らませながら、僕はまた新しくキャンバスを張った。

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