最終話
「最終的に、
左手に自衛隊基地が広がり、右前方にモノレールの軌道桁が見える。
智明の兄嫁に借りた車が那覇市に入った時、碧が訊いてきた。
「部長は最低三年は那覇勤務だって言ってたけど、どうかな」
「どうかなって?」
「人事にいる同期から、あまり長く
那覇市内に続く幹線道路は、帰宅ラッシュで渋滞し始めている。
アイドリングストップでエンジンが止まるたびに、車内がモワっと暑くなる。
「子会社に転籍すると、今と待遇が変わったりするの?」
「給料とかはそれ程変わらないけど、勤務体系は大きく変わるな。あと、経営が悪化すれば、即、整理されちゃうだろうな。まあ、当面は大丈夫かもしれないけど、この先何があるか分からないよな」
「そんな簡単にクビになっちゃったりするの?」
「クビってわけじゃないよ。本社の足を引っ張るようなお荷物会社になったらヤバいって話だよ……それと、給料以外で一番変わるのは休日だな。遠藤さんと同じで、店舗は土日が書き入れ時だから、今みたいに土日祝日に休むのは無理だ。繁忙期は店頭支援がマストだから、世間が休みの時は逆に休めないと思うよ。特に沖縄の店舗はゴールデンウイークから夏場は売り上げが伸びる時期だから、暫くはのんびりなんてできないのは確実だ」
傾いた西陽が眩しくて、智明はサングラスの奥の眼を細めた。
「何よ!どうしてそんなネガティブなことばっかり言ってんのよ!」
碧はステンレス製ボトルから水を一口飲み、智明の太ももをを軽くつねった。
「痛っ!止めろって、運転中なんだからな」
「今のトモの話は、私を不安にさせてるんだからね!なんでもないように振舞ってるけど、私だって初めての土地で心配事が多いんだよ」
大袈裟に痛がる智明を睨みながら碧は言い、被っていた帽子で顔を覆った。
「あ、いや、ごめん……決して不安を煽るつもりで言ったんじゃないんだ。ただ、ちょっと大変なんだぞ、って事を言いたかっただけだって。ホント、俺が悪かった。碧は実家から遠く離れた初めての土地で不安が大きいってことや、好きだった仕事を辞めて、勝手がわからないところで新しい仕事を探さなきゃならないんだもんな。それは分かってるつもりだけど……俺なんかじゃ頼りにならないよな」
帽子で表情が窺えない碧が泣いているのではないか、と狼狽えた知明は、普段は使わない〈碧〉と、名前で呼んだ。
碧から〈お前〉って呼ぶのはやめて欲しいと何度も言われていたが、智明は名前で呼ぶのが気恥ずかしくて、碧の懇願を無視していた。
しかし、帽子に顔を埋めた碧の肩がか弱く見え、なんとしても守ってやる、という気持ちが唐突に膨れ上がり、咄嗟に〈碧〉と呼んでしまった。
「今、碧って言ったよね」
「え、あ、いや言ってないよ、って、泣いてるかと思ってびっくりしちゃったじゃねーか。驚かすなよ!」
知明は照れ隠しにステンレス製ボトルを奪い、乱暴に口をつけた。
「泣くわけないっしょ!憧れの沖縄でトモと生活ができるんだから。でも、トモのマイナス思考は
「罰金!いくら?」
「一回千円!」
「高っ!」
「それと、今日の夕飯はトモの奢りね!」
「はっ!なんで?俺、なんかした?」
「私を泣かした」
「泣いてないって言ったじゃねーか」
「行為としてはね。でも一瞬、不安で泣きたい気分になったから罰金だ」
「なんか疲れてるから、今日はホテルでちょこちょこって感じで……」
「だーめ。明後日には一旦東京に戻るんだから、今日は少し贅沢しないとね!」
「……はいはい」
智明は無駄な抵抗を止めて、素直に白旗を上げた。
「あー、明後日には東京に戻らなきゃいけないのか。なんか、寂しいよね」
「何言ってんだよ。十月から
「分かってるわよ!でも、那覇市内でいい部屋が見つかって良かったね。あの場所なら事務所までの通勤も徒歩圏内だから便利でしょ?」
「まあな。家賃の補助があるからって、ちょっと背伸びしちゃったかもな。……そう言えば、今回は部屋探しのついでにダイビングするってさかんに言ってたけど、予約しなかったのか?何気に覚悟をしてたけど、一言も言わないんで変だなーと思いつつも、俺から言って藪蛇にならないようにしてたんだ」
のろのろと進む前の車のテールランプに視線を向けながら、智明は言った。
「へー、ちゃんと覚えていたんだ」
サングラスに隠れている智明の視線を探るようにして、碧は言った。
「一応はな。こっちの生活が落ち着いたら、好きなだけすれば?俺は付き合わないけど」
智明は言い、小さく笑った。
「そうしたいけど、暫くは無理だね」
サングラスで表情がはっきりと見えない智明の横顔に向けて、碧は応えた。
「なんで?こっちに来たら、しばらくの間のんびりすればいいさ。どっちみち、俺は仕事優先にならざるを得ないから、そっちは好きなことしてこっちの生活に馴染めばいいと思うよ。で、慣れてきてから仕事を探せばいいじゃん。失業手当は直ぐにもらえるわけじゃないし」
「そうするつもりだったんだけどね。そうもしてられないのよ」
「だから、なんで?」
碧の意味深な言い方に、智明は焦れたように訊いた。
「ダイビングはおろか、仕事探しも難しいかな」
「え、仕事もしないのか?そんなの毎日が暇になって、退屈で死ぬぞ。沖縄は東京と違って遊びに行くところは限られてるし、景色も何回か行けば飽きちゃうって」
智明は真顔で言った。
「そうだね、仕事は探してもいいけど、すぐに休むことになって勤め先に迷惑をかけちゃうかもしれないから、その辺も考えて見つけようとは思ってるけど……」
「なんだよ、さっきから奥歯にものが挟まったような言い方ばかりだな。働きたくなければ、暫くはゆっくりしていいって。こっちの気候とか、生活習慣に馴染むことが一番重要だしな。それに友達も作らないと。でも、仕事とかしないと、中々地元の人と知り合うチャンスはないぞ……まあ、義姉さんや、うちの姉貴とか妹に付き合って色々な集まりに参加すれば、そのうち友達はできると思うけどな」
ようやく那覇市内に入り、智明はのろのろと進む幹線道路からホテルに向かう枝道に、軽自動車のハンドルを切った。
「違うわよ、そんなんじゃないの……もう鈍いんだから」
碧はハンドルを握っている智明の左腕を、少し強めに叩いた。
「痛てっ!危ないから止めろって。事故ったら面倒だろ。しかも、義姉さんの車だからな」
「車もだけど、怪我しちゃったら大変だもんね。何しろ、家族三人が乗ってるんだから、慎重に運転してよ。ね?お父さん」
「何がお父さ……ん?家族三人って言った?……え!それって、もしかして……」
知明はサングラスを外し、フロントガラスから差し込む西陽に、眼を細めて言った。
「ようやく分った?今の今まで、妻が身篭ったのに気が付かないなんて、ホント、鈍すぎる!」
「身籠った?身籠った……って、えっ!できたのか?」
智明は大声で言って、自分の声の大きさに気づき、並走している軽トラックを見た。
「窓閉めてるのに、隣の車に聞こえるわけないでしょ!それより、ビックリした?」
「ビックリって、驚くに決まってんだろ!なんで早く俺に言わないんだよ!どういうつもりなんだ!」
智明は少し声を荒げて碧に言った。
「何よ、なんで怒るのよ!」
智明の勢いに一瞬怯んだが、碧は口を尖らせて抗議した。
「バカ!怒ってなんかいないよ。ただ、そんな嬉しいニュースを、なんで今まで黙ってたんだ」
「え、怒らないの?子供はもう少し後の方がいいって言ってたから……」
碧は智明の予想外の反応に戸惑った。
「なんで俺が怒るんだよ。そりゃあ、暫くの間は新婚気分を
「先々週の木曜日に、病院で診てもらって分かったけど、どうせならこっちに来てから報告しようと思って……。予定日は三月中旬よ。飛行機は私も気になったけど、つわりとかないのなら特に問題ないって先生は言ってたし、今は体調に不安はないわ」
「本当か?帰りは船にした方が……」
「船って……バっカじゃないの!でも、そんなに心配しなくても大丈夫だって」
碧はまだ膨らみが目立たないお腹をさすりながら、智明の心配に応えた。
「そうか、ならいいけど……だからダイビングを予約しなかったのか。そう言えば、こっちに来てから飲まなくなったので、どうしたのかと思ってたけど……ビールに一口つけるだけで、さんぴん茶ばっかり飲んでるし。俺の家族の手前、猫被ってたのかとも思ってたけど……」
智明は視線を前方に向けたまま、左手で碧の手を握った。
「ビールは口をつけてるふりだけで、飲んでないわよ。でも、ホントに喜んでくれてるの?だったら私も嬉しいし、安心できる!ダイビングは子供が大きくなってからの楽しみに取っておく」
「喜んでるに決まってるだろ!出産には必ず立ち会うからな!」
「何よ、急に頼もしいこと言っちゃって。第一、出産は実家でするつもりだから、トモはしっかり仕事に励みなさい!」
碧は冗談めかして言ったが、握っている智明の掌から不思議な厚みのある熱を感じた。
「そうか、そうだよな。出産はお義母さんに手伝ってもらった方がいいよな。うちのおふくろはがさつだから役に立たないもんな。そうだ、ホテルに戻ったら親父やおふくろに報告しないと……あ、そっちのお義父さんとお義母さんには言ったのか?」
「言ってないわよ。先ずは大切な
旦那にアクセントをつけて言い、碧はまだ手を握ってくれている智明の横顔を見つめた。
「うちのおふくろにそんな忖度しなくていいんだ。そうか……じゃあ、同時に報告しよう。今夜は祝杯……お腹の中の子供に影響するからお前はジュースだけどな」
「トモもお父さんになるんだから、私に付き合って禁酒だからね!」
「えっ!マジ?なんで?沖縄に住むのにオリオンビールを飲んじゃいけないだなんて……地獄だ!生きていけない。そんなことおっしゃらずに、量は控えますので、なにとぞ」
握っていた碧の手をを離し、智明は左手で哀願するようなポーズを取った。
「私だけが我慢するのはおかしいでしょ!私たち二人の大切な赤ちゃんなんだから、トモも子供と私のために何かを我慢しないと。でしょ?」
碧は、また頼りなげな男に逆戻りしたかのような智明に詰め寄った。
「え、まあ、そうですが……ほら、仕事の付き合いとか色々ありそうだし。ただでさえ、こっちは酒席が多い土地柄で……はい、分かりました、家族のためだもんな」
意気消沈した表情で智明は言い、差し込む夕陽で眩しいフロントガラスに眼を細めた。
「冗談よ!全く、変に真面目なんだから。家長として仕事を頑張ってもらうんだから、お付き合いのお酒や息抜きのビールを規制したりしないわよ。でも、飲み過ぎは絶対に駄目だからね。分かった?」
「はい!絶対に飲み過ぎません。誓います!」
智明は左手で敬礼をしながら言った。
「ホントに?ちゃんと約束してよ、
碧は少し頼りない〈夫〉を見て、笑顔で言った。
「任せとけ!ちゃんとお前と子供は守るから大丈夫だ」
「私と子供だけじゃなく、実家のご両親とご家族、お義兄さん一家とも、一緒に仲良くね。もう、トモは独りじゃないし、もちろん私も独りじゃない。家族として、周りの人たちと補い合える関係、市川さんが言ってた共生できる関係を築けるようにしないと。トモは極度の人見知りだけど、今日からはもっとオープンな気持ちになって欲しいんだ。大丈夫だよね?私と子供にとって頼りがいのある
強がる智明に、碧は余裕に満ちた笑顔で言った。
「当たり前だろ!お前と子供は何がなんでも大切に守るって。もちろん、俺の親兄弟、お前の家族との付き合いはちゃんとするさ。これから新しい人たちとの付き合いが始めるけど、お前が言うように殻を被ってなんかいられないから、もっと気持ちを開いて付き合っていくようにしないとな。そういう意味で、シンビオシスで学んだことは有意義だったよ」
宿泊先の駐車場の入り口に差し掛かり、アクセルを緩めながら智明は早口で言った。
「もう、何回お前って言うのよ!罰金を計算できないわ。でも、そんなに力まなくていいわよ。トモにはトモのペースがあるんだから。でも、これから色々と乗り越えなきゃならないことがあって、その中には私たちだけでは解決できないこともたくさんあると思うけど、そんな時は周りを頼ってもいいのかなって思う。もちろん甘えるってことじゃなくて、自分たちで努力しても手に負えない事態になったら、頼れる人に相談したりして、解決の糸口を早めに見つけた方がいいと思うんだ。もちろん逆に、頼りない私たちでも何か手助けできることがあったら、積極的に協力するけどね」
バックで駐車スペースに軽自動車を止めようと、バクミラーとモニターを交互に見ながらハンドル操作をしている智明に、碧はウインドウを下げて駐車枠を確認しながら言った。
「そうだな。それこそ、相利共生だな……よし、荷物は俺が持っていくから、おま……キミは先にフロントでカギを受け取っておいてくれ」
智明は〈お前〉と言いそうになったが直ぐに気付き、それでも〈碧〉と言うのが気恥ずかしく、〈キミ〉と言って誤魔化しながらサイドブレーキを引き、エンジンを切った。
「今危なかったねー。で、何で〈キミ〉なのよ。でも、なんか頼もしくなったね……
「はあ?なんだそれ!」
智明は言い返したが、碧は逃げるように軽自動車を降りて、ホテルの玄関にゆっくりとした足取りで向かっていた。
碧が言うように、これから新しいコミュニティでの生活が始まる。
シンビオシスで出会った人たちも、それぞれが新たな人間関係や、地域特性、自然を含めた環境の中で、常に誰かと共生をしていく。
生まれ故郷に戻って、将来を見つめ直す人。
遠く離れた地で、新たな生活を始める人。
住む場所は変わらないが、周りの人間関係が大きく変化する人。
一度は離れたが、家族のもとに戻り、自分の居場所を再確認する人。
そして、家族という、小さいが何よりも大切なコミュニティを築いていく自分と碧。
ホテルの玄関に着いた碧が立ち止まり、早くおいでというように両手を振っている。
軽自動車から荷物を下ろし、ドアに施錠をした智明は、「ありがとう、碧」と呟いた。
〈了〉
※最終話までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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他に【日めくりカレンダー】【ポイズン~自己中毒~】という物語もアップしていますので、ご興味がありましたらご一読をお願いします。
シンビオシス~共生~ 喜屋武 たけ @cantake
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