第14話
「多佳子さん、明日は何時頃から作業を開始するんです?」
共用リビングのソファに座り〈
「十時前には引越し屋さんが来る予定よ。だから今日は程々にしないとね」
グラスに半分くらいあった白ワインを一息に飲み干しながら、多佳子は笑顔で応えた。
「じゃあ、もう少しペースを落とさないと……」
白ワインのボトルに手を伸ばした多佳子から、ボトルを遠ざけながら碧は言った。
「大丈夫よ、荷造りは完璧に終わってるから。あとはシャワーを浴びて寝るだけ」
秋も深まり、共用リビングの空気も少し冷たく感じる。
だが、多佳子はそんな寒さを一向に気にしていない。
顔色一つ変えずに高級アウトドアブランドの暖かそうなフリースの腕を捲りながら、碧から白ワインのボトルを奪還して、空のグラスにドボドボと注いだ。
「本当に寂しくなりますね……市川さんの部屋も空いたままだし」
多佳子が供出した〈
「札幌はもう雪が積もってますかね?」
遠藤の言葉で辛気臭くなりそうな雰囲気を変えようと、智明は多佳子に訊いた。
「まだ、十一月になったばかりだから、市内は積もるほどじゃないと思うけど」
「ボクは沖縄生まれだから雪には憧れみたいなのがあるんですよ。でも、寒さには弱いですけど……」
「ないものねだりかもね。私も東京近辺から離れたことないから今は期待の方が大きいけど、いざ住んだら大変かもね」
「マンションですか?」
「ええ。南札幌なので、中心地からは少し離れてますけど」
「マンションなら大丈夫ですよ。一軒家だと雪掻きとか大変ですからね」
「遠藤さんは青森でしたっけ?」
多佳子と遠藤の会話に、碧が割り込んだ。
「はい、八戸です。と言っても、私の実家は町から大分外れたド田舎なんで、雪が降ると道が雪に覆われて大変でした。家も古くて本当に凍えるほど寒くて、冬は本当に嫌でしたね。さっきの老川さんの話じゃないですけど、内間さんが生まれた沖縄は、私からすれば天国ですよ」
「天国は大袈裟ですよ。うちの実家は裕福じゃなかったからエアコンは各部屋にはなくて、湿気交じりの沖縄の暑さはホントに大変でした。油断すると革製品だけでなく、なんでも直ぐにカビるし」
「トモ君はずっとこっちにいるの?」
多佳子がチーズに綺麗な形の噛み跡を残してから口に入れて、白ワインを飲んだ。
「こっちって、東京ですか?それは会社次第ですかねー。何しろ転勤の多い会社ですから……」
横に座っている碧に視線を向けたが、碧は冷えて硬くなり始めたピザを頬張ったばかりで、智明の視線に気づいていなかった。
「ううん、そういう意味じゃなくて……将来的にも沖縄には帰らないの?」
「沖縄に?」
「え、沖縄に帰るの?」
多佳子の問いかけを反芻すると、ピザを缶チューハイで嚥下した碧は鋭く反応した。
「帰るわけないだろ!帰ったって仕事なんてないんだから。あったとしても、俺が入れる会社はサービス業とかに限られちゃうし。給料だって滅茶苦茶に安いからな……なんだ?沖縄に行きたいのか」
碧のもの欲しそうな表情に、智明は戸惑いながら言った。
「いいですよね、沖縄。私は行ったことないですけど、寒いところで生まれ育ったので暖かい南国にはものすごく憧れがあります」
遠藤が視線を遠くにしながら、心底羨ましそうに言った。
「ですよねー。私は高校の時、ダイビングのライセンスを沖縄で取ったんです。その後も、女友達と何回か行きました。沖縄本島、それと石垣島と西表島。あ、そう言えば市川さんもダイビングで沖縄には行ってたらしいですね……海が綺麗で良かったなー。沖縄そばや沖縄料理も美味しかったです。しかも花粉症がないみたいだし。とにかく、また行きたいんですけど、この人連れてってくれないんです」
碧は恨めしそうに言い、隣に座る智明の脇腹に肘打ちを入れた。
「なんで連れてってあげないの?トモ君が帰省するときに一緒に行けばいいじゃない」
多佳子は碧に加勢するように、智明に言った。
「いや、別に連れて行かないわけじゃなくて……」
智明は脇腹にさすりながら、余計なことは言うな、といった目で碧を睨んだ。
「お二人は……その、ご結婚するんですよね?」
遠藤が口ごもるように言って、皆の視線から逃れるようにグラスの底に残っていた〈獺祭〉を飲み干した。
「ええ、まあ……そのつもりですけど」
智明は照れもあって、遠藤同様に視線を伏せ気味にして言った。
「碧ちゃんもそのつもりなんでしょ」
遠慮している遠藤の空のグラスに〈獺祭〉をドボっと注ぎながら、多佳子は訊いた。
「はい、もちろんそのつもりです」
「ご両親は知ってるの?」
「まだ紹介はしてませんけど、話はしています。母親は早く家に連れてきなさいって言うんですけど……」
「トモ君が煮え切らない?」
言い澱む碧を代弁するように多佳子は言って、智明を睨んだ。
「あ、いや、煮え切らないとかじゃなくて……」
「色々と揉め事があって、タイミングを逸したって言いたいの?」
「あ、はい。そうですそうです。さすが、多佳子さん!」
「何言ってんの!そんなどうでもいことを理由にぐずぐずしてるなんて、絶対に許されないんだからね!明日にでも碧ちゃんのお
「あ、明日……」
「例えばの話よ。とにかく急ぎなさいって言ってんの!」
「多佳子さん、大丈夫ですよ。明日は無理ですけど、年内に私の実家に行くことになってますから」
碧はヒートアップしている多佳子を宥めるように、ゆっくりとした口調で言った。
「あら、そうなの」
「はい、ウチも両親と一緒に暮らしている長男には、今度の正月に連れて行くことを言ってあります」
智明も揉み手をするように言った。
「へー、なんだ、ちゃんとしてるじゃない。それなら安心ね。結婚式はするんでしょ?その時は呼んでよ。式はどこでするの?テレビで観たことあるけど、沖縄の結婚式って盛大なんでしょ?ね、沖縄で式を挙げなさいよ。そしたら私、北海道から飛んで行くから。遠藤さんや市川さん、翔君やマー君も招待しなさいよ。シンビオシスの同窓会を沖縄でするなんて素敵じゃない」
多佳子は酔いのせいだけではなく、明日シンビオシスを離れる寂しさを隠すように、明るく言って笑った。
「お二人の結婚式でしたら、私もなんとかして出席しますよ。そうでもなきゃ、沖縄には一生行く機会なんてなさそうですし」
珍しく遠藤も膝を乗り出すようにして、多佳子の提案に賛意を示した。
「あ、いや、式を挙げるかはまだ……」
「決めてないの?それってやらないかもしれないってこと?碧ちゃんはどう思ってんのよ」
「まだ、そこまで気が回っていないっていうか……私たちの一存で決めちゃっていいのか。多佳子さんが言うように、沖縄でやるのかを含めて……」
碧は多佳子の強い口調にたじろぎ、助けを求めるように智明を見た。
「あ、いや、沖縄では式を挙げることはないです。あっちで式を挙げるのはホントに大変ですから」
「大変って?」
「招待する人数が半端ないんですよ。家族は当たり前ですけど、親戚一同……会ったこともないような遠い親戚を含めてですけど。それから昔からの友人知人。これも、友達の友達は皆友達だ、みたいなところがあって、新郎新婦と面識のない人が参加してたりしますから」
「そうなんですか?それじゃ収拾がつかないじゃないですか」
智明の説明に、遠藤は興味深そうに訊いた。
「ええ、人数をざっくり予想してから式場を選ぶんですけど、出席者は必ず余興をするので、舞台の広さや司会者を決めるのも一苦労です」
「費用も大変そうね」
「はい、それも大きな問題です。ですから式を挙げるにしても、沖縄ではなくこっちになると思います」
「まあ、それはそれで構わないけど……私の式じゃないもんね」
「そうですね。こっちで式を挙げるんなら、さっき老川さんが言った同窓会も実現の可能性はありますからね、って、周りが盛り上がってもしようがありませんが」
遠藤も納得したように言った。
「はあ、できたら式は簡素にして、旅行とか新居にお金を回したいと考えてます」
智明が碧に同意を求めるように言うと、碧は大きく頷いた。
「そうか、お二人が結婚するとここを出て行っちゃいますね。そうなると、このハウスには私一人しか残らないってことですね。いやー、それはなんか寂しいですね」
智明と碧、多佳子を見回しながら、遠藤は心底寂しそうに言って肩を落とした。
「遠藤さん、それは大丈夫ですよ。ハウスに新しい入居者を入れなければ、市川さんと小西さんが経済的に大打撃になっちゃうじゃないですか。この前の日曜日、市川さんがここに来た時に話してくれましたけど、市川さん、多佳子さんの部屋と、マー君や小原さん、でしたっけ?その方の部屋を含めて、空室になっている部屋は、年明けに壁紙を替えたりして、大掛かりなリフォームをするそうです。だから、春には新しい入居者がきますよ。もちろん、小西さんのお眼鏡に適った人だけですけどね」
落胆している遠藤を励ますように碧は言った。
「まあ、そうですけど。極度の人見知りの私が一番の古株になっちゃうのも、なんだか不安ですよ。見ての通りの話下手ですから、新しく入居される人たちと上手くやれるのか……」
「遠藤さんは話下手なんかじゃないですよ。単に話というより、コミュニケーション力の観点から言えば、むしろ上手だと思います」
「そうですよ。以前は私を含めた入居者と接するのを避けていたみたいですけど、トモ君が来てからは皆と自然に溶け込んでるし、聞き上手だから一緒にいるとホッとすることが結構ありますよ」
多佳子も智明の言葉をフォローした。
「そ、そんな、おだてないで下さい。会社や取引先の人からはどんくさいって言われてるんですから」
遠藤は照れながら言って、〈獺祭〉をちびりと飲んだ。
「そんなことないですよ。私みたいな新参者にも優しくしてくれるし。会社や取引先の方たちは、多分、親しみを込めてそんなこと言ってるんだと思います」
「そうそう。そんなこと気にしないで、今まで通りにしてればいいんです。ここでは変に肩肘張って役割を演じる必要はないし。それこそシンビオシスの名の通り、それぞれがそれぞれの生き方で共生してるんですから」
「はあ、まあ、私が何かを演じるなんて到底できませんから、素のままでいるしかありませんけど」
「それでいいんですって、遠藤さん」
智明は照れて耳朶と頭頂部を赧くしている遠藤に、〈不二才〉のグラスを掲げて乾杯を促した。
「そろそろお開きにしようか?」
多佳子も智明と遠藤の乾杯に参加し、碧に目配せをした。
「そうですね。後片付けは私がやりますから、お休みになって下さい」
碧は努めて明るい声で言った。
「それはありがたい!では、多佳子さん。北海道に行ってもシンビオシスのことを忘れずに。それと、お身体だけは十分に注意をして……つまり、飲み過ぎないでってことですけど、頑張ってください。ホントに今までありがとうございました。乾杯!」
智明はそう言って、持っているグラスを多佳子のグラスに軽くぶつけた。
碧と遠藤もそれに倣い、多佳子と乾杯をした。
「トモ!あんたは後片付けを手伝うんだからね!逃げたら承知しないから」
「トモ君、君は碧ちゃんの尻に敷かれるのが一番よ。碧ちゃん、トモ君のことよろしくね。でもいいわねー。私も北の大地で恋愛でもしようかしら、なーんてね」
「多佳子さんだったら周りの男性が放っておきませんよ。札幌では引っ張りだこで、それこそ毎日お誘いがあって、逆に断るのが大変になりますよ」
多佳子の
「なーに言ってんのよ。こんなおばさんに誰が声をかけるのよ。まあ、そんなことより、二人は時々喧嘩はしてもいいけど、ずーっと仲良くやってね!それから遠藤さん、色々とお世話になりました。ご実家に帰る機会があったら、足を延ばして北海道にもお出でください。これは社交辞令じゃなく、本心ですからね」
「は、はい。老川さん。いつもご馳走になってばかりで……なんのお返しもできなくて、本当に申し訳ございません……です。北海道には必ず行きますので、その時はよろしくお願いします」
遠藤は額が膝につくほど深く頭を下げた。
「本当に来てくださいよ。待ってます!」
多佳子はそう言って、遠藤をハグした。
「あ、いや、そんな」
再び耳だけではなく、頭頂部まで赧くして、遠藤は多佳子の抱擁から逃れるようにして後退った。
結局、多佳子の札幌に移住を決めた理由は分からないままだった。
だが、それより、多佳子との別れは寂しい。
そして、智明は心の底から多佳子への感謝と、北の大地での幸せを願った。
※最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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