第13話

 沖縄の暑さとは異質の、熱波ともいうべき猛暑の中、シンビオシスの庭ではバーベキューが行われていた。

 碧は初参加だが、春に庭の桜の木が満開になった時に花見が催されているので、庭の様子は分かっている。ブルーシートの上にどっかりと座り、急ピッチでアルコールを摂取している多佳子以外の女性陣に交じって、万次郎の大将の手伝いをしていた。

「なんか、あちらは仲のいい家族みたいですね」

 もくもくと煙を立てるバーベキューコンロを囲んで、手を動かしながら談笑している昌代、小西、碧たちの方を見ながら、遠藤は言った。

「そうね、いい雰囲気ね。実は、百パーセント正しい情報かどうかは分からないけど、小西さんは市川さんの妹さんらしいのよね」

 大将が焼いた軟骨を綺麗な歯並びの前歯で噛み砕き、多佳子は缶ビールを煽りながら言った。

「え!そうなんですか?」

 智明と遠藤がハモるように訊いた。

「しっ!声が大きい。もう少しトーンを落として話しなさい」

 多佳子は自分の声量を無視して、目の前で姿勢を正して座る男二人に言った。

 知らない人が見たら、一段高いところに座る牢名主を前に、正座をしている新入りのコソ泥が叱られているようにしか見えない。

「そう言われればどことなく似ている気がしますね。お二人共どことなく品があるし」

「品があるって言えば、昌代さんもおっとりとして上品ですよね。こんなこと言っちゃなんですけど、ハウスの掃除や雑用なんかしなくてもいいんじゃないかって思いますもん」

 遠藤の言葉にかぶせて言い、智明は大将の手伝いをしている小西と昌代に視線を向けた。

「トモ君、いいとこつくじゃない。これも確かじゃないけど、どうも昌代さんは市川さんの奥さんらしいのよね」

「え!ホントですか!」

 またも見事なハモリで、智明と遠藤は驚きを表現した。

「多分ね……そもそも市川さんがハウスに住んでるのがおかしいのよ。そう思わない?」

「はー、それはお会いした時からそう思ってました」

 多佳子さん、あなたも同様ですけど、と智明は思ったが、それは口にしなかった。

「どうやら、市川さんはこのハウスのオーナーらしいの。定年退職後にご両親が住んでいた実家を改修して、シンビオシスとして部屋を貸し出したようね。だけど貸し出し情報はオープンにしないで、自分の妹さんがやっている小西不動産だけで紹介するようにしたみたい」

「どうしてオープンにしないんですか?」

「入居者を選ぶためみたいよ」

 智明の問いに多佳子は応え、焼きトウモロコシにかぶりついた。

「入居者を選ぶって……小西さんが選定っていうか審査するんですか?でも、何故?」

 多佳子の話している意味が分からずに、遠藤が訊いた。

「ほら、ここって設備の割に家賃が安いでしょ?それはこのハウスをある意味避難所みたいな施設にしたかったみたいね。こんな言い方悪いのは分かってるけど、小西不動産って地味っていうかちゃんと営業してるの、って感じでしょ?不動産屋なのに日曜日は閉まってるし。そんな不動産屋に物件探しにくるような人は、何か事情があるんじゃないかって思うじゃない?って、私を含めてあなたたちもそうだけどね」

 多佳子は一息に言って、空になった缶を握りつぶした。

「はあ、まあそうですけど……」

 智明は自分が小西不動産屋に入った時のことを思い出そうとした。

「私はお金がなかったもんですから、中々部屋が見つからなくて、最後の最後にふらふらって感じで入ったような気がします」

 焼き鳥を頬張りながら遠藤は言った。

「ボクは泊まっていたホテルの近くにあったから入ったって感じですかね」

「ホテルって?なんで新小岩のホテルに泊まってたの?トモ君、新小岩に何か用事でもあったの?」

 新しい缶ビールのプルタブを開け、多佳子は当然の疑問を口にした。

「あ、いえ、用事とかじゃなくって。なんていうか……そんなことはどうでもいいじゃないですか」

 碧の部屋を飛び出してからの重たい記憶が甦り、智明は一瞬顔をしかめた。

「ふーん。どうせ彼女絡みでしょうけどね」

 多佳子は網の上で焼けた肉を、トングで皿に盛りつけている碧に視線を向けた。

「あ、いえ、違います。全然そんなんじゃないんです」

「ま、そういうことにしときましょ」

 多佳子は必死に否定する智明に、優しく言った

「でも、確かに老川さんが言うように、小西さんって不動産屋の経営者っていうより、学校の先生みたいな感じですよね。このハウスを紹介される前に色々訊かれたんですけど、質問の仕方が自然だったので、知らないうちに隠しておきたいようなことまで答えてしまいましたから」

 遠藤がその時のやりとりを、思い出しながら言った。

「そうですよね。なんか面倒見がいいって感じで。ボクも困ってたらここを紹介されて、即決でした」

「私もそうかな……」

「まあ、小西さんのお眼鏡に適ったってことは嬉しいじゃないですか」

 智明の言葉に続いて多佳子が嘆息交じりに呟いたが、智明は次の言葉は不要というように、珍しく話をまとめるように言った。

「お待たせー。お肉がおいしく焼けましたー」

 こんがりと焼けた肉や魚介類と野菜が盛られた皿を両手に持ち、碧は智明たちが車座になっている、青々とした葉が茂る桜の木の下に来た。

「おっ、美味そうだな。……飲み物は?」

「缶チューハイでいいよ。うん、そのレモンサワー」

 碧はクーラーボックスを探っている智明の手元を見ながら言った。

 それから両手に持っていた皿をテーブルに置いて、多佳子の隣のキャンバス地の椅子に腰を下ろした。

「碧ちゃん、市川さんや昌代さん、小西さんと何を話してたの?こっちから見てると仲のいい家族みたいだったわよ。市川さんがお父さんで、昌代さんがお母さん。小西さんは……親戚の叔母さんかな」

 ミディアムレアに焼けた牛肉をプラスチックのフォークで刺し、大きく口を開けて頬張りながら、多佳子は言った。

「やっぱり知ってたんですね」

「え、何?」

 碧の言葉に、智明と遠藤だけではなく、多佳子を含めた三人が見事にハモった。

「何がって、今、多佳子さんが言った市川さんたちのことですよ……。えっ!知らなかったんですか?えー、どうしよう」

 自分の言葉を怪訝な表情で聞いている三人を前に、碧は余計なことを言ってしまったことを察知し、ほぞをかんだ。

「碧ちゃん、そんな困ることないでしょ。それって市川さんから聞いたの?それとも昌代さん?小西さん?」

「市川さんと昌代さん……」

 多佳子の視線から逃れるように芝生の地面を見つめながら、消え入りそうな声で碧は応えた。

「何を聞いたんだ?お前が聞いたんなら、いずれ俺たちの耳に入るのも時間の問題だろうからここで話せって」

 智明は大将を囲んで談笑している市川たちの様子を横目で見ながら言った。

「そうよ。碧ちゃんが言い難いのなら、私がご本人たちに直接訊いてくるわ」

 多佳子は少し腰を浮かせ気味にして言った。

「あ、そんな……別に口止めされてるわけじゃないから」

「まあ、とりあえずこれを飲めよ」

 智明はクーラーボックスから取り出した缶チューハイのプルタブを開け、碧に手渡した。

「あ、ありがとう。じゃあ、皆さん、乾杯……ですかね」

 手渡されて缶チューハイを軽く持ち上げ、三人の顔を窺うようにして碧は言った。

「乾杯!」

 多佳子が朗らかに応え、智明と遠藤は手に持っていた缶ビールを掲げた。

「あー美味しい!なんか贅沢ですよねー。実家はマンションなんで、家族でバーベキューなんかしたことなかったから」

 缶チューハイを喉に流し込んで落ち着いたのか、碧は西に傾き始めた夏の陽に目を細めて言った。

「で、さっきの続きは」

 智明は碧が運んできたソーセージを頬張って、先を促した。

「ああ、うん。先週夏休みを取って会社の友達と北陸に行ったでしょ……」

 碧の会社は智明の会社と同様に、夏季休暇は一斉休暇ではなく、各々が業務に支障のないように取得するようになっている。

 碧は十日間の休暇を取れたが、智明は土日を挟んでの四日間しかまとまった休みが取れなかった。

 短い日程では遠出は無理なので、二人は小原の紹介で予約した伊豆の温泉ホテルに宿泊し、伊豆半島をレンタカーでドライブをしただけだった。

 碧は実家には帰らずに、伊豆から戻った翌日から友人たちと北陸旅行に出かけた。

「で、旅行から戻った次の日は月曜日だったけど、溜まった洗濯物とか部屋の掃除で一日中ハウスにいたのね。で、お昼はパスタで軽く済まそうとキッチンに行ったら、リビングのソファで市川さんと昌代さんが仲睦ましく食事をしていたの」

 その日のことを頭に浮かべているのか、葉桜になった枝先を見つめながら碧は言った。

「キッチンには市川さんと昌代さんだけ?」

 多佳子が訊いた。

「ええ、テレビをつけないで昼食を摂ってました。ご飯はちゃんと茶碗によそってあって。お二人はタッパに詰めた昌代さん手作りのおかずに、慣れた、そう、いつものことのように昼食を楽しんでました。私に気が付くと、昌代さんが一緒にどうですかって声をかけてくれて」

 碧は一旦言葉を切って、缶チューハイを一口飲んだ。

「それから」

 智明は先を急かした。

「そんなに急かさないでよ。ほら、市川さんたちがこっちを見てるわよ」

 碧の言葉に智明たち三人が、視線をバーベキューコンロの方に向けた。

 コンロの前に座っていた市川がその視線に応えるように腰を上げ、缶ビールを片手に智明たちの方に歩いてきた。

「皆さん、ちゃんと食べてますか?飲んでばかりじゃだめですよ。せっかく、プロの大将が焼いてくれてるんですから。まだまだ肉もたっぷりありますからね。内間さんと黒岩さんは若いんだから沢山召し上がって下さい。あ、老川さんと遠藤さんも遠慮なさらずに」

「若くはありませんけど、しっかり頂戴してます」

 多佳子がすかさずツッコむと、「いや、これは失言でした。申し訳ない」と市川は潔く頭を下げた。

「そんなー冗談ですよ。それより、小西さんと昌代さん、大将もお呼びしたらどうです」

「そうですね。おーい、そろそろ全員でやりましょう」

 多佳子の提案に頷き、市川はコンロで焼いた肉や野菜を取り分けている三人に声をかけ、大きく手招きをした。

「ところで、マー君はやっぱ無理なの?」

 多佳子はコンロを囲んで奮闘している三人から、智明に視線を変えた。

「ええ、予備校の合宿で無理みたいです」

「残念ですけど今が一番大切な時期ですからね。重信さんが合格したら、盛大にお祝いをしましょう」

 智明が応えると、市川がフォローした。

「お待ちどうさま」

 昌代が小西と大将を従えて運んできた肉や野菜を、折りたたみ式のテーブルに置いた。

「皆さんお若いんですから、沢山召し上がって下さいね」

「あ、昌代さんも市川さんと同じこと言ってる」

 多佳子は昌代の何気ない一言に、敏感に反応して言った。

「あら、私、何か失言しました?」

 昌代がきょとんとして言うと、新たに加わった三人を除くメンバーが手を叩いて笑った。

「いいえ、さっき市川さんが昌代さんと同じようなことを言って、多佳子さんからクレームを受けたんですよ」

 碧が茶目っ気たっぷりに言った。

「碧ちゃん、クレームじゃないわよ。単なる冗談だって言ったでしょ」

 多佳子が唇を尖らせて言ったが、ほんのりと赧く染まった目元は笑っていた。

「まあまあ、とにかくこれで今日の参加者全員が揃いましたから、乾杯しましょう」

 市川の言葉に、全員が飲み物を手に持った。

「よろしいですか……。では僭越ですが一番年長者の私が乾杯の音頭を取らせていただきます。昨年から今年にかけて、このハウスの居住者に変化はありましたが、皆さんがお互いに相手を想いやるお気持ちを持っているおかげで、トラブルもなく平穏な生活が送れています……って、一住人が何を言ってんだろうと訝しがると思いますが……実は、このシンビオシスの大家は私です。今まで内緒にしていて申し訳ございませんでした。決して身分を隠して皆様をこっそりと監視していたわけじゃありませんからそこのところはご理解いただきたく、よろしくお願いします」

 突然の市川の発言に、碧を除く智明たち居住者と、大将は驚きの表情を浮かべた。

「ついでと言ってはなんですが、先日、黒岩さんからこちらの昌代さんとリビングで昼食を摂っている時に、仲のいいご夫婦みたいですねと訊かれ、そのあまりにも自然な問いかけに、思わずはいと応えてしまいました。このことも別に隠すつもりはなかったのですが、別々に暮らしている理由を説明するのが面倒で、つい言いそびれてしまった感があって……。それと、このハウスを管理している小西は、私の妹の愛子です。なんか、隠し事だらけみたいで本当に恐縮です。繰り返しになりますが、他意は全くなく、単に皆さんにご説明する機会を逃がしてしまっていただけですので、今日以降も今まで同様にお付き合いください。乾杯の前におかしな説明というか言い訳を長々と話してしまいましたが、皆さんが心身ともに健康で、このハウスでの生活がより充実することを願って、乾杯!」

「乾杯!」

「かんぱーい!」

 市川の音頭でメンバーは手に持った飲み物を、オレンジ色に染まり始めた空に向けて掲げた。


「市川さんの告白っていうか、説明にはびっくりしたよな。でもお前、俺に市川さんと昌代さんが夫婦だってことを一言も言わなかったな。それってどうなんだよ?」

 肉の食べ過ぎとビールの飲み過ぎできつくなったお腹をさすりながら、智明は碧に抗議をした。

「言おうと思ってたけど、市川さんがバーベキューをする時に、自分から話をするようなことを言ってたから……」

「だからって、俺にまで言わないのはどうなんだよ!」

「そんなに怒らないでよ。ちょっとの間黙ってただけなんだから」

 智明の部屋の机の上の目覚まし時計は、午後十一時を少し過ぎたことを示していた。

 智明は床に敷いたラグに胡坐をかいて座り、布団を外したテーブル代わりの炬燵の上に、舐めるように一口飲んだ缶チューハイを置いた。

 碧は智明のベッドのヘッドボードに枕を背凭れにして、足を投げ出して寛いでいた。

「でもね……あ、これは言わない方がいいかな」

 碧は言葉を飲み込むように中断し、上体を起こした。

 不審がる智明の肩越しに手を伸ばして缶チューハイを取って、碧は一口飲んで「ふー」と、深い溜息をついた。

「なんだよ、そんな勿体ぶった言い方して。途中で止めると余計に気になるじゃないか」

「うん……でも、どうしよかなー」

「揶揄ってるのか!さっさと話せ!」

 怒ったように言い、智明は碧の手から缶チューハイを取り上げた。

「まあ、これも口止めされてないから話してもいいのかな。さっき市川さんは言わなかったけど、私が二人から話を聞いたときはもう少し詳しい話が聞けたのよ。それもちょっと重い話。ううん、市川さんと昌代さんは深刻そうな感じじゃなかったから、二人にとっては、もうそんなに深刻な話じゃないのかもしれないけど……ちょっとちょうだい」

 碧は話を止めて、智明が手にしている缶チューハイを催促した。

「こんなのどうでもいいから、早く話を続けろ!こんなんじゃ朝になっちまう」

 智明は言い、一口飲んでから碧に缶チューハイを渡した。

「あー、美味しい」

「お前、最近アルコールの量増えてない?」

「だって、ストレスだらけなんだもん」

「なんだよ、ストレスって?」

「なんだよって……」

 碧は缶チューハイを飲み干し、酔いのせいで締まりのない智明の顔を睨めつけた。

「えっ!俺?俺が原因?」

 瞼を半開きにして見下ろす碧に向けて、智明は自分の鼻先を指さして訊いた。

「ほーらね、やっぱ分かってないね。これだから……」

「ちょっと待てよ。俺が何かした?そんなはずないだろ」

 抗議するように言いながらも、最近の自らの行いを頭の中で反芻しながら、智明は不安になった。

「何かをしたじゃなくて、なんにもしてないっつーの!」

 碧は叱りつけるように言って、「トイレ」と呟きながらベッドを降りた。

 トイレから水の流れる音とドアの開閉音が聞こえ、間を置かずに冷蔵庫の扉の開閉音も聞こえてきた。

 数秒後、ミネラルウォーターのペットボトルを持った碧が、智明の側に腰を下ろした。

「で、なんの話をしてたっけ?」

 キャップを開けたペットボトルの水を、喉を鳴らして飲みながら碧は訊いた。

「市川さんと昌代さんの話だよ。なんか秘密めいたことを聞いたって……」

 智明は碧の酔い加減を推し量りながら、トイレに行く前に碧が自分に抗議するように言っていたことは、意図的に省略した。

「あ、そうそう、それだったね。要は市川さんがなんで昌代さんと別居してるかって話よ」

「別居って……まあ、確かに別居みたいなもんだよな」

「週末には帰るけど、ほとんどこっちにいるからある意味別居でしょ?そう言えば……単身赴任の人とかは別居って言い方しないわね、なんで?」

「知るか!そんなの」

 本題に中々入らない碧の話ににイライラが募り、智明は仰向けにひっくり返った。

「あ、怒ってる。はいはい、だから市川さんがハウスにいる理由はね……娘さんが原因らしいのよ」

「娘さん?市川さんに娘さんがいるのか?」

「うん、私と同じくらだって。一人娘みたいよ」

 碧はペットボトルの水を一口飲んで言った。

「で、なんでその一人娘が原因なんだ」

「それがね、結婚したんだけど上手くいかなくて離婚して家に戻ってきたらしいのね。ちょうど市川さんが定年退職だか早期退職だとかで、会社を退いたのと同じ時期に」

 眠くなり始めた碧は、欠伸をかみ殺しながら言った。

「離婚した娘さんが実家に戻てきたから、代わりに市川さんが家を出たってこと?そんなに狭い家なのか?」

「狭いかどうかは知らないわよ。ただ、市川さんと娘さんはあまりそりが合わなかったみたいね。昌代さんの話では、娘さんの結婚に市川さんは大反対したけど、娘さんは家出同然で飛び出して相手と一緒になったらしいの。それ以前に、市川さんが仕事をしている時は忙しくてほとんど家にはいなかったみたいで、母子家庭のようだったって、昌代さんは言ってた」

「ああ、海外勤務とかも長かったみたいだからな」

「そうみたい。ホントに仕事人間で家にはいなかったみたいね。で、当然娘さんとのコミュニケーションは少なかったようで、市川さんが海外勤務だった頃に高校に入ったばかりの娘さんに、昌代さんも手を焼いた時期があったって」

「非行に走ったとか?」

「みたいね。でも、その後は立ち直って勉強をしたので、国立大に進学して大手商社に入社したらしいわよ」

「ふーん、市川さんの血を引いてるから地頭はいいんだろうな。で、結婚して……離婚して実家に戻ってきたってことだろ。だからって、娘さんと入れ替わりに市川さんが自分の家を出る理由にはならないよな」

 智明は得心がいかない表情で言った。

「うん。要はそこなのよね」

「そこって?」

「だから、娘さんと入れ替わるように家を出て、何故このハウスに住んでるのかってこと」

 眠くなった碧は仰向けに寝ている智明の横に、水を飲んでから身を横たえ、「腕貸して」と言って智明の細い腕に頭を載せた。

「娘さんは離婚が原因で精神的に病んだみたいね。市川さんが家にいると、自分の部屋から出ないんだって。それと、これはあまり話したくないんだけど……」

 昼食を摂りながら市川と昌代が夫婦だったとの話を聞いたその日の夕方。

 再び市川と共用リビングで顔を合わせ、ワインをご馳走になって軽く飲んでいた時に、碧は衝撃的な話を市川から聞くことになった。

 市川が福岡に単身で赴任している時に、妻の昌代を裏切る行為をしていたという。

 話の前後はよく憶えていないが、碧が市川夫妻の仲の良さを見倣いたいと言うと、市川は、自分たち夫婦にも色々とあったんですよ、と話をしてくれた。

 妻の昌代は当然傷ついたが、思春期だった一人娘もそのことを知り、母親以上に市川を猛烈に面罵したらしい。

 それ以来、長いこと父娘の間のコミュニケーションが皆無に近い状態になった。

 そして、父親の反対を押し切って結婚をしたが、皮肉なめぐりあわせで自らも夫の不倫が原因で離婚することになってしまった。

 精神的にも経済的にも実家に戻らざるを得なかったが、夫と同じ過ちをしていた父親との接触は極力避けたいと、娘は母親の昌代に訴えた。

 市川も娘の気持ちは痛いほど理解ができたので、自らが家を出て陰から一人娘の回復をサポートしようと決心をしたようだ。

「……そういうわけで、実家に戻った娘さんは、市川さんが外出すると部屋から出てきて、昌代さんと食事をしたりお茶を飲んだりする生活だったみたい」

「思春期の引きこもりみたいだな」

「そうなのよ。それで、娘さんとは極力顔を合わさないようにと、元々は老後の資産運用の一環として建築中だったこのハウスに、市川さんは住むことにしたみたいね」

「それで、このハウスの最初の入居者は市川さんになったのか」

 碧の頭の重量を感じる左腕に一瞥をくれてから、智明は言った。

「そうよ。最初からこのハウスの管理は妹の小西さんに任せるつもりだったんだけど、自分が住むにあたり、入居者の条件を市川さんと小西さんで相談して決めたんだって」

「どういうこと?」

「市川さんと昌代さんの話では、何かしら事情があって困ってるいたり悩みがあるような人。でも、そんな状況からなんとか抜け出そうとしている……あるいは環境を変えて、心機一転頑張ろうっていう前向きな気持ちを持ってる人に入居してもらおうって」

 碧はその時の会話を思い出しながら言った。

「そんな人をどうやって見極めるんだ?部屋を探している人が、初対面の不動産屋に自分の境遇や悩みを打ち明けるか?」

 碧の説明に納得がいかない智明は、当然のように疑問を呈した。

「だからシンビオシスは小西不動産でしか部屋を斡旋しないのよ」

「どういうこと?」

 薄い筋肉の上に載っている碧の頭の重さで、徐々に痺れ始めた腕に力を入れながら智明は訊いた。

「実は意外……でもないか。小西さんって大学で心理学を教えていた教授さんなんだって」

「教授さん?教授って、教える人だよな」

「何を当たり前のこと言ってるのよ。教授っていったら、そうに決まってるでしょ」

「確かにそう言われれば、小西さんって、先生って感じがするな」

 頻繁に会って会話をする間柄ではないが、初対面でシンビオシスを紹介された場面や、花見や夏のバーベキューでの小西の印象を思い浮かべて、智明は碧の話に納得した。

「でしょ?私も同感。で、その小西さんが寂れたっていったら失礼かもしれないけど、周りの不動屋と比べて地味で目立たない不動産屋を経営しているのも、実は訳ありなのよ」

「訳ありって?」

「つまり、シンビオシスに入居を許可する面接官を兼ねてるってこと。あの不動産屋は小西さんのご主人が先代から引き継いだ店なんだって。そのご主人が病気で亡くなったので、今度は小西さんが大学を辞めて引き継いだみたい。小西さん自身、それ程身体が丈夫じゃなかったので、負担の少ない不動産屋でがつがつしないでのんびりとしたかったみたいね」

「小西さんって未亡人だったんだ。そういえば家族の話って聞いたことないもんな」

 眠気を堪えて話す碧を横目で見ながら、智明は言った。

「お子さんがいないご夫婦だったらしく、妹一人生活していく程度の収入は不動産屋でもあるから、のほほんと暮らしてるって市川さんが笑ってた」

「へー、経済的な心配がないって、ある意味羨ましいな」

「そうかもね。近くに頼りになるお兄さんもいるし、お子さんがいなくても寂しかったり不安だったりはしないよね……で、なんの話だっけ?」

 碧は幼い子供がするように、手の甲で重くなっている瞼をこすった。

「小西さんが入居者の面接官だって話だよ」

「あ、そうそう。ほら、あの不動産屋さんって少し分かりにくい場所にあるでしょ。なんか原色とは程遠いモノクロ調というかセピア色というか、ひっそりとしてて。普通だったら店に入るを躊躇したくなる感じじゃない?……そう言えば、トモはなんで小西不動産で物件を探したの?」

「え、俺?特に意識はしてなかったけど、ぶらぶらと歩いてたら目の前に不動産屋があったから入ったって感じだな」

「なんで新小岩だったの?」

「え?それも特に理由はないよ。学生時代に友達が住んでて、遊びに来たことがあったってことかな。あと、会社まで乗り換えは一回だし、それも帰りは疲れてたら各駅に乗れば楽だし……それより、小西さんの話は?」

 碧の部屋を飛び出した日に、混乱した状況で探したとは智明は言わなかった。

「そうだったね。で、あの店で部屋で探すような人は、何か困ってたり悩みがあるような人だっていうのが、市川さんの見立てなのね」

「なんでそう決めつけられるんだ?」

「だって、あの外観だよ。そもそもあの不動産屋さんは斡旋より個人経営のアパートや貸家、それと貸店舗の管理がメインらしいの。だから、表の賃貸物件情報は少なかったでしょ」

「確かにそうだな。店に入るのを一瞬躊躇した気がする」

「でしょ?遠藤さんや老川さんがどうして小西不動産を訪ねたのかは分からないけど、駅前にはそれこそ不動産屋がいくらでもあるし。今はネットで情報収集できるから、ホームページもなく目立たない場所にある小西不動産に、部屋を探しにくる確率は極端に少ないと思わない?」

「そうかなー、確かに俺は一瞬躊躇したけど……でも、不動産屋に入るのって勇気がいるよな?なんか、口八丁手八丁の人が営業トークで対応するみたいでさ」

「それはトモだからでしょ。初めての町での散髪屋は何軒も回って、外から様子を窺ってから入るんでしょ?だけど、店の外観とわずかな隙間から見える店内の様子で、その店の良し悪しが分かるの?」

 碧は智明の人見知りを揶揄するように言った。

「いや、長年の経験に基づく勘で……そんなことはどうでもいいんだよ!」

「まあね、そんなことは私が一番知ってるからね。ホントにそんな人見知りな人が、よく私と付き合いが始められたよね。きっかけはなんだっけ……」

「そんな付き合い始めのことはどうだっていいんだよ。最近、お前の話は回りくどくてイライラしちゃうよ。もっと簡潔に話せって。そんなんで、会社で注意されたりしないのか?」

「仕事の時はちゃんと要領良く話してるわよ。どうもトモと話してると、話がだらだらとしちゃうのよねー……なんでかね?」

「知るか!」

「まあ、それは置いといて。でね、市川さんは少し困ってるような人に部屋を貸してあげたいって考えたんだって。ただ、ボランティアとしてではなく、自立をしていることと他人に迷惑をかけないような人が条件らしいけどね」

「困ってる人?小西さんから見ると俺も困ってる人に映ったのかな」

「そうなんじゃない。住むところがなくなっちゃって、焦ってるのが見え見えだったとか」

「は?お前……」

 智明は後の言葉を飲み込んで、痺れてきた腕を碧の頭から抜いた。

「腕、痺れた?」

 住むところがなくなった原因を作ったのはお前だろうが、と言いたい気持ちを智明は抑え込んだ。

 痺れた腕を軽く揉みながら、天井に視線を向けたまま「ああ」と碧に応えた。

「私が借りてる部屋、ずーっと空き部屋だったでしょ。なんでか分る?」

「空き部屋だった理由?さっきのお前の話から推測すると、陰気臭い小西不動産に女性客が来なかった、あるいは小西さんのお眼鏡に適う女性客がいなかった……あ、でもお前は借りることができたもんな。お前も困ってる人に見られたのかね。それも余程辛いことがあったのかって、小西さんが思うほどに……痛っ!」

 智明は碧にクッションで殴られて、話を中断した。

「誰のせいでそうなったと思ってんの!」

「へ?俺?」

 殴られたクッションを奪って枕にしながら、智明は不服そうに自分の鼻先を指差した。

「当たり前でしょ!」

 碧は智明が枕にしたクッションを取り上げて再度叩こうとしたが、智明は後頭部に力を入れて阻止した。

 しかし、碧のしでかしたことで自分がシンビオシスに住まざるを得なかったことを棚に上げ、よく俺を責めることができるなと、呆れるのを通り越して、むしろその図太さに感心をしてしまった。

「もう!ホントに鈍感なんだから。そんなことじゃなくて、私が借りてる部屋はいずれは娘さんを住まわせようとしてたんだって」

 智明の弛緩した表情を見て、少し呆れたように碧は言った。

「娘さんて、引きこもりの?」

「そう。いつまでも引きこもりのままじゃ娘さんの将来が心配だから、ある程度落ち着いて外出とかができるようになったら、自活が可能になるような支援をしたかったみたいよ」

「でも、そんな簡単に前向きにはならないだろうし、自活するかどうかは分からんだろ?」

 智明は碧の言葉に疑問を投げかけた。

「うん、市川さんもそれは十分に承知してたって。もちろん昌代さんも。だからといって何もしないでいるのも良くないし、ご夫婦の気休めというか先の希望みたいなものが欲しくて、娘さん用の部屋を用意してたんだって」

「へー、でもそれがなんで、急にお前が借りられるようになったんだ?」

 不得要領な碧の話に、智明は首を傾げた。

「だから、そこなのよ。市川さんのことを以前は週末だけいなかったけど、最近ハウスを留守にすることが多いって言ってたじゃない」

 確かに碧が越してきた昨年末辺りから、市川がハウスを留守にすることが増えていた。

 そのことを不思議に思って、多佳子や遠藤と話していた時期があった。

「たしかに……でも、それと娘さん用の部屋を貸すことになんのつながりがあるんだ?」

「それをこれから言おうと思ってたのよ」

 悪戯っぽい表情で言い、碧は身体の向きを変えて智明の腹の上に左足を載せてきた。

「重てーな」

「そんなことないでしょ!体重は増えてないんだから。で、なんだっけ……あ、そうだ、要するに去年の夏ころから娘さんが離婚のショックから立ち直る兆しが見え始めて、市川さんに対しても心を開くようになったらしいのね。でも、焦りは禁物なんで、昌代さんと話し合ってもう少し様子を見ようと。そして、不自然にならない程度に、家族三人でいる時間を少しづつ増やしてきたんだって」

「へー、そうなんだ」

 碧の足を持ち上げながら、智明は言った。

「で、そんな風に三人で一緒にいることが多くなると、どうせなら家族三人で暮らした方がいいってなったようなのね。そう考えたら、ハウスに用意している娘さん用の部屋は不要になるから貸し出すことにしたところ、タイミング良く私が小西不動産を訪ねたってわけ」

「なんか出来過ぎの話だな……痛っ!」

 碧が再び載せてきた足が、貧弱な腹筋しかない智明の腹を直撃した。

「何よ!この運命的な話しが気に入らないって言うの!」

「いや、別にそんなつもりじゃ……本当に運命を感じるよな」

 智明は追従笑いをしながら、碧の足から逃れようと身を捩った。

「何よ、その棒読みな言い方」

「そんなことないよ。マジでそう思ってるって。へへへ」

「なんかバカにされてる気がするけど……まあ、いいか。で、なんだっけ?」

「もう、ボケてんのか?市川さんの娘さんの話だよ!何回訊くんだ!」

「そうだった。最近酔うと頭が働かないのよね……。でね、娘さん用の部屋は貸し出したけど、市川さんと昌代さんは直ぐに元の生活に戻すことはしないで、今年の秋頃を目途に、家族三人で暮らすことにしたんだって」

「そうそう、さっきのお前の話でそれが気になってたんだ。マジで市川さんはハウスからいなくなっちゃうのか?それって、スゲー寂しいよな」

「だね。色々と教えてくれるし、気さくで時々美味しいものをご馳走してくれるしね」

「なんだよ、食い物がありがたかったのか」

 腹の上に載ってる碧の足を振り落とし、智明はトイレに行くために上体を起こした。

「違うわよ。ダンディで凄い人なのに、偉ぶったところがないから素敵だなーって、いつも言ってるじゃん」

 トイレに向かう知明の背中に向けて碧は抗議をするように言い、「帰りに水持ってきて」と付け加えた。

 智明はトイレで放心したように市川との交流をぼんやりと思い出した。

 用を済ましトイレの水を流した時、唐突にシンビオシスの仲間が一人、また一人とここを出ていく情景が頭の隅に浮かんだ。


※最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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