第8話

「皆さん、お世話になりました。伊豆に来るようなことがありましたら絶対に連絡下さい。絶対っすよ!トモさんは先週、遅い夏休みで実家ウチに来ましたけど、うちの親が養子に欲しいって言ってるから、当面は近づかないみたいです」

 小原はおどけるように言ったが、眼にはうっすらと光るものがあった。

 九月も半ばになったが、連日暑い日が続いている日曜日の夕方。

 〈シンビオシス〉のリビングには、居住者全員と昌代が顔を揃えていた。

 大型テレビの前のL字にセットされているソファに市川と多佳子、端に遠藤。隣の小さなテーブルを囲んでいる丸いスツールに、智明と重信。キッチンには昌代。

 全員が小原の挨拶を聞いている。昌代だけは涙を押えることができずに、エプロンの裾を眼の辺りに当てていた。

「小原さんが入居してからこのハウスは明るくなったので、ここを離れてしまうのは本当に残念です。長い人生の時間軸からすれば、ほんの短い時間しか共有できませんでしたが色々と教えて頂くこともあり、本当に有意義な時を過ごさせてもらいました。実家に戻って新たな生活を始めるようですが、小原さんならどんな困難も乗り越えていけるでしょう。但し、暴飲暴食を控えて、健康には留意してくださいね」

「要するに飲み過ぎは駄目ってことですね」

 市川の話に重信が茶々を入れると、全員が笑った。

「はい。その辺はできる限り気をつけるつもりですが……」

「つもりですがって、翔君、実家に帰ってからもがぶ飲みするの?ダメだよ、真面目にご両親のお手伝いをしなきゃ」

 多佳子が自分のことを棚に上げて、学校の先生のような口調で言った。

「いや、ほら、田舎なんでやることがないんっすよ。それに、幼馴染はみんな嫁の来手がなく独身なので、美味い魚をつまみに飲むことくらいしか娯楽がないんす」

「嫁の来手がないのは、自分もだろ」

 智明が囃すように言うと「トモ君もね!」と、多佳子から間髪入れずにツッコまれ、リビングは明るく朗らかな笑いに包まれた。

「小原さんが落ち着いた頃に必ずお伺いしますので、その際は美味い魚をお願いしますよ。お酒はとっておきの物を持参しますから、幼馴染の皆さんと一緒にやりましょう」

「ボクは釣りに行きますから、教えてください。海釣りは初めてなんで、今から楽しみにしています」

 市川と重信が、屈託のない声で言った。

「私はお伺いできるか分かりませんが……本当にお世話になりました。お身体には気をつけて下さい」

 遠藤は禿頭の頂上を、小原に見せるように頭を下げた。

「私は絶対に行くからね!その時は逃げないでよ」

「そんな、絶対に逃げませんよ! でも、静かな漁港に多佳子さんが来たら、町中が大騒ぎになりそうで怖いっすよ」

「何よ!私を化け物扱いにする気?失礼ね!」

 多佳子はクッションを持ち上げ、小原の方に投げる真似をした。

「いえ、そんなことないっすよ!そうじゃなくて、うちの田舎には多佳子さんみたいな洗練された、しかも美形の女性ひとっていないっすから。芸能人が来たんじゃないかってなりそうで……」

「嘘おっしゃい!何が洗練されただの、美形だのって……でも、ありがとうね。翔君のそういう優しさに接する機会が無くなるのは残念だけど……」

 そう言って、多佳子がテイッシュで洟をかんだ。

 心なしか、最後の方は涙声のように聞こえる。

「皆さん、そろそろ箸をつけて下さい。料理が冷めちゃいますよ。熱いうちに召し上がってもらわないと、味を誤魔化せなくなっちゃうわ」

 昌代がしんみりとした雰囲気を打ち消すように言って、缶ビールのプルタブを開けた。

 それを見て、智明と遠藤も手近にある缶ビールを開栓して、重信以外の人たちのグラスにビールを注いだ。

 重信のグラスにコーラが注がれたのを確認した市川が、空咳をしてから全員の前に立った。

「では、皆さん、そろそろ乾杯といきましょう。小原さん、実家に戻ってご両親孝行をされると思いますが、ご自身のやりたいことも遠慮せずにしたらいいと思います。多分、ご両親もそのことで苦言を呈することはないでしょう。但し、羽目を外し過ぎなければの話ですけど。それでは、シンビオスを卒業して新たな道を歩む小原さんの前途が、希望に満ちた未来に繋がることを祈って乾杯!」

「かんぱーい!」

「乾杯!」

 シンビオスの住人全員と、昌代のグラスが音を立てた。

「あざーす!皆さんのことは忘れません。今日はホントにありがとうございます」

 小原は殊勝に言って、全員に頭を下げた。

「絶対に忘れないでくださいよ。それから、翔さんが作った干物ではなく、ご両親か従業員の方々が作った干物も忘れずに送ってください。月に一度は美味しいアジの干物を食べたいですからね」

 昌代の手作りの唐揚げを頬張りながら、重信がおどけて言った。

「マー君にはうつぼの干物を送るよ。しかも俺の手作りだ」

 小原が重信に返し、全員が笑った。

 それぞれが用意された飲み物を手にし、昌代の手作りの料理と市川と多佳子が差し入れした缶詰や乾き物を頬張りながら、小原を囲んで談笑した。

「でも、その髪型ってまだ慣れないわね」

 多佳子が黒く染め直して耳が出るくらいに刈りこまれた、小原の髪型を見ながら言った。

「そうっすか?なんか親孝行してそうな好青年って感じに見えません?」

「ええ、スーツを着たら、真面目な大企業のエリートサラリーマンに見えますよ」

 昌代が真面目な顔で言うので、昌代以外の全員が爆笑した。

 

 小原がシンビオスを引き払い伊東市の実家に帰る話が出たのは、世間が八月の盆休みで、テレビで各交通機関の混雑ぶりを大袈裟に取り上げている時だった。

 強烈な陽射しに炙られて蝉が集く中、シンビオシスの中庭で恒例のバーベキューが開催された。

 夏休みで実家に戻っている重信以外のシンビオシスの住人と、昌代、不動産屋の小西。バーベキューの材料の手配、料理担当として、万次郎の大将が参加している。

 葉桜の木陰にキャンプ用の椅子が四脚と、三畳ほどの広さのレジャーシートが敷かれている。参加者は飲み物を片手に、大将が焼いた肉や野菜に舌鼓を打っていた。

「翔さん、ホントに実家に帰っちゃうの?」

 紙コップに入った冷たいビールを一口飲み、智明は小原に訊いた。

「ええ、東京こっちではまともな仕事に就けないっすから。新卒で入社したのにソッコーで辞めて、それからバンド活動とバイトだけのキャリアっすからね。こんな奴、まともな会社ところは雇ってくれないっすよ」

「実家継ぐの?」

 智明同様にバーベキューに初参加の遠藤が、赧ら顔で会話に加わってきた。

「いえ、親父はお前みたいな根性なしには継がせねーって言ってるので継げませんよ、って継ぐ気もないっすけどね。実家に帰ってくるのは構わないが、仕事は見習社員としての雇用だって……まあ、俺が悪いんで文句は言えませんけど」

 自嘲するように言って、小原はマスタードをたっぷり付けたフランクフルトを頬張った。

「そうなんですか。でも帰れる実家ところがあるだけでも良しとしなきゃ。私みたいに帰りたくても、帰る場所がない人間からすれば羨ましい限りですよ」

 遠藤が嘆息しながら言った。

「いや、それはどうなんすかねー。俺は別に帰りたくはなかったんですけど、おふくろがね……」

「お母さん、具合が悪いの?」

「いや、実は親父の方が……去年、胃がんの手術を受けて今は会社に出てるみたいなんですけど、胃を全部取っちゃったから体力が戻らないみたいで。おふくろが見てて辛そうだって言うんで……」

 遠藤の心配そうな問いに小原は努めて明るい声で言おうとしたが、最後は弱々しい声音になっていた。

「何よー、空気が重たく感じるわ!美味しい料理とお酒があるのに、もっと楽しそうにしなさいよ!」

 多佳子が右手にチューハイのロング缶を、左手にフランクフルトを持って近付いてきた。

 辛気臭い雰囲気で固まっている野郎共に、喝を入れようと会話に乱入してきた。

「はい、すみません!折角のバーベキューなのに暗い雰囲気にしてしまって」

 小原はおどけるように、敬礼をしてから頭を下げた。

「翔君のせいなのねー。聞いたわよ、実家に戻って会社を継ぐんだって?」

「いえ、実家には戻りますけど、会社っていうか家業は継がないっす。当面、働かせては貰いますけど……」

「えっ、実家の仕事は継がないの?だったら、なんで伊豆に戻るのよ?」

 フランクフルトを頬張りながら多々子は言い、缶チューハイを豪快に飲んだ。

「いえ、東京こっちにいてもやることないっていうか、やりたいことはないし。親もそろそろいい歳なんで、一度戻ろうかなと……」

 小原がもごもごとした口調で応えた。

「ふーん。そんなに親孝行だった?まあ、髪の毛が普通になったから、素直で親孝行な好青年に見えなくもないけどね」

 片眼を瞑って多佳子は言い、缶チューハイを飲み干した。

「お代わりは?」

 智明が話題を変えるように多佳子に訊くと、「ハイボール!」と、多佳子は明るく応えた。

「遠藤さん、夏休みはどうするんですか?」

 おどおどしながら距離を置いている遠藤に、多佳子が唐突に訊いた。

「えっ、わ、私ですか?」

「ええ、今日からお盆休みでしょ?」

「うちらみたいな零細企業に、そんな洒落たものはありません。第一、帰省シーズンは菓子業界の書き入れ時です。私も明日は東京駅構内で、ワゴン販売の応販です」

「そうなんですか。大変ですねー」

 多佳子の労いの言葉に、遠藤は禿頭まで赧らめた。

「皆さん、楽しんでますか?」

 焼かれた肉や野菜を紙皿に載せた市川が、ニコニコしながら智明たちの輪に入って来た。

 その後ろには昌代と不動産屋の小西もいて、調理に忙しい万次郎の大将を除いた全員が揃った。

「あ、市川さん。あ、昌代さんと小西さんも。どうぞ、そこの椅子を使ってください」

 多佳子は桜の木の下に置いてあるキャンプ用の椅子を、年配の三人に勧めた。

「ありがとうございます。皆さんもお坐りになったら」

 昌代がレジャーシートを手で示し、小西と並んでキャンバス地の椅子に、「よいしょ」と言って腰を下ろした。

「大将!大将もこっちに来て、一杯やりましょう。肉や野菜も皆さんが食べるには十分な量が焼けてますから」

 市川は椅子に座りながら右手に持った缶ビールを掲げて、大将に声を掛けた。

「今、網の上にあるのが焼けたら、お言葉に甘えてそちらに行きます」

 首に掛けたタオルで汗を拭いている大将が、忙しそうにトングで肉をひっくり返しながら応えた。

「トモ君はバーベキューは初めてだっけ?」

「あ、はい。入居が四月の中旬でしたから」

 多佳子の問いかけに智明は応え、椅子に座って缶ビールをちびちびと飲んでいる小西を見た。

「そうですね。内間さんにここを紹介したのは花見の後でしたね」

「へー、ここに住み始めてから、まだ四か月かー。なんだか、もっと長くいるみたいな感じだけど。でも、最初の頃は確かに遠慮してたわよね。新入りなので大人しくしていますって感じで」

 多佳子が言った。

「今だって大人しくしていますよ。元々病的なくらいに人付き合いが苦手ですから」

 智明が口を尖らせて言うと、「それは違いますね」と、市川が穏やかな口調で言った。

「違うって……どういう意味です?」

 智明が怪訝な表情で訊いた。

「内間さんが人付き合いが苦手ってことはないですよ。逆にコミュニケーション能力は高いと思います。その証拠に、たった四か月で、今ここにいる方々と仲良く話をしているじゃないですか。コミニケーションが苦手だって仰いますけど、そんなことは全くなく、もっと自信を持ってください」

 市川が優しく諭すように言った。

「えっ!ボクにコミュニケーション能力があるってことですか?」

「そうっすよ。トモさんは人付き合いが下手だなんてことないっすよ。万次郎のお母さんも言ってるっす。トモさんは人の話に耳を傾けてくれるし、自分のことよりも周りの人に気を遣ってくれるので、初対面でも信頼できる人だと思ったって。俺もそう思うっす」

 小原が市川の言葉を引き取って言った。

「そうですよ。内間さんはいい意味で人たらしかもしれませんよ。別に顧客だからってお世辞を言ってるわけじゃなく、本当にそう思ってます」。

 いつの間にか、大将が大皿に焼けた肉や野菜を盛り付けたものを持って、レジャーシートの真ん中に配置しているテーブルに近付いて来た。

「あ、そうかもね。トモ君って人たらしかもよ。付き合いは長くないけど、他の人には言えないようなことも、何故かトモ君には話してしまうのはそういいうことだったのね」

「実は私もバーベキューは初参加です。今回は内間さんが参加するっていうんで、私もお付き合いしますって感じで参加させていただきました」

 多佳子に続き、珍しく遠藤も自発的に発言した。

「もう、止めてくださいよ。みんなでボクを茶化しても面白くないでしょ」

 智明は両手を振って、アルコールではなく恥ずかしさで赧らめた顔を掌で扇いだ。

「ははは、そんなに謙遜しなくても……。まあ、内間さんに限らず、このハウスの皆さんは、いい意味で人との距離感が絶妙ですね。年齢や性別、職業はバラバラで、価値観や生活パターンをひっくるめた生き方の違いがはっきりしているのに、トラブルもなく共生していますからね。このハウスの名称通りに」

 市川が相好を崩して言い、缶ビールを飲み干した。

 すると、昌代がクーラーボックスから取り出した結露が滴る缶ビールを、自然な感じで市川に手渡した。

「確かにそうっすね。俺みたいなぷー太郎でも、肩身の狭い思いをしないで暮らせましたからね」

「ちゃんと家賃を払ってくれてるからですよ」

 小原の言葉を小西が混ぜ返して、全員が笑った。

「別にぷー太郎でも構わないじゃない。他人に迷惑をかけなければ、ね?」

 多佳子はそう言って智明を見た。

「え、ボ、ボク?な、何か迷惑かけてます?」

 唐突に振られた智明は、虚を突かれて口が回らない。

「そうじゃないわよ、逆よ。もう少し、他人に甘えてもいいんじゃないのって思うことがあるわ。まあ、ここの住人は丸っきりの他人じゃないけどね。少なくとも、一つ屋根の下の同居人みたいなもんだから」

 多佳子は早口で言って、間を取るようにハイボールの缶に口をつけた。

「ある程度気心が知れてくると我が出てしまうことがありますけど、それを許容できるかどうかは、受け手の気持ち次第ですね。同じような要求や依頼でも、人によってはOKだったりNGだったりしますから。動植物のようにお互いに相利であれ片利であれ共生はできませんよね、感情のある人間には……」

「ヘンリ?ソウリ?なんか、ムズいっすね。相性ってことっすか?」

 市川の話に、小原が言葉の意味が理解できないと言うように訊くと、横で智明と遠藤も小原に同意するように頷いた。

「片方だけ利するか、双方が利するかって話なんですけど……もちろん相性もあるでしょうね。でも、一番大きな要因は、自分のことをちゃんと理解できているかってことだと思います」

「……」

 市川の言葉に智明、小原、遠藤は首を捻った。

「そんなに真剣に考えないでくださいよ。これは私の勝手な私見ですから。つまり、相手を好き嫌いで判断する前に、自分自身が相手にどう向き合うのか、向き合えるのかが大切じゃないですか、ってことなんです」

 智明には市川が学校の先生のように見えてきた。

 隣の小原も同様に市川を畏敬の眼で見ていたが、遠藤は呆けたような表情で、機械的な動作で缶チューハイをぐびりと飲んだ。

「価値観の違いは人間関係を築く中であって当然よね。クマノミとイソギンチャク、テッポウエビとハゼのようにはいかないわ。でも、知らず知らずのうちに、自分以外の誰かに影響を与えたり与えられたりはあるでしょ?家族だったり、仕事の人間関係だったり、友達や恋人もそうよね。もちろん、いい影響があれば悪影響もあるけどね。自分が相手から受ける影響は自覚することはできるけど、自分が相手に対してどんな影響を及ぼしているのかは中々気づかないわ。親子、先生と生徒、上司と部下のようなヒエラルキーがはっきりしている関係は別だけど」

「なんか、難しい話になってきたっすね。でも、多佳子さんの話はなんとなく分かるっす。皆さんからは貴重なアドバイスを受けたり、話を聞いてもらえて、ホントに感謝しています」

 照れながら短くなった髪の毛をに手をやり、小原は皆に頭を下げた。

 まだ熱をたっぷりと持った陽が西の空に沈み始め、中庭にいる全員の顔が穏やかなオレンジ色に染まっている。

 智明はそんな皆の表情を眺めながら、シンビオシスに住んで良かったと、改めて思った。

 入居したての頃は一階に降りる際に、階段の途中で誰かがリビングやキッチンにいないか、耳を側立てて確認していた。

 テレビの音や、キッチンから換気扇や水道の音がしたら、足音を殺して部屋に引き返していた。

 それが今では誰かがいても気にならなくなった。逆に誰かがいるのが分かると、階段を下りる足が速くなる。

 空間を共有する機会が増え、他の居住者に対する警戒心が完全に消えた。

 市川が言うように、シンビオシスの住人とは、程良い距離感で付き合いができているのかもしれない。


※最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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