第7話

 

 憂鬱な日々が始まる月曜日。

 智明は残業で遅くなり、夜の九時を過ぎた新小岩駅の改札口を重い足取りで出た。途中のコンビニでハンバーグ弁当を買い、シンビオシスの玄関扉を解錠し、誰もいないリビングを横眼で見ながら二階に上がった。

 部屋の前に、段ボール箱が三箱置いてある。通いで共用部分の掃除をしてくれている昌代が置いてくれたのだろう。宅配便を受け取り、わざわざ二階まで運んでくれたようだ。

 智明が昌代と顔を合わせたのはまだ二度だけだ。休日出勤の代休を取った日に惰眠を貪って、昼近くにリビングに下りた時に初めて顔を合わせて挨拶をした。

 その日は常連の市川、それとこちらも寝起きの小原に交じって、昌代の手作りの豚汁をご馳走になった。その次に顔を合わせたのは、幕張にある関連会社に直行するので、少し遅い時間に出掛ける時に、シンビオシスに出勤してきた昌代とすれ違う際に挨拶をした。

 上品で落ち着いた所作で、人当たりも柔らかく素敵な女性ひとだ。年齢は還暦を過ぎているといったが、話し方ははきはきしているし肌の艶も良く、とても六十代とは思えなかった。

 智明は部屋の鍵を開け、三つの段ボール箱を部屋の中に運び込んだ。

 何気なく抱えた段ボール箱に貼付されている送り状に視線を向けると、特徴のある丸い文字が懐かしい。

 本とCDが入っている段ボールは重く、昌代がどうやって二階まで運び上げたのか不思議だ。もしかしたら市川が手伝っててくれたのかもしれない。

 エアコンとテレビのスイッチを入れ、汗と埃で汚れた通勤着をTシャツと短パンに着替える。部屋の冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、勢いよく半分程飲んだ。

 一息ついたところで、買ってきたハンバーグ弁当を電子レンジで温めてから、機械的に胃に収めた。テレビのニュースを横目で観ながら、カッターを使って段ボール箱を閉じているガムテープに切れ目を入れて、三箱とも開梱した。

 段ボール箱の中身は、智明が大阪で梱包したままの状態だった。密かに期待していた碧からの手紙やメモは同梱されていなかった。

 あんな仕打ちをしたのに、自分は碧からの再度のアプローチを期待している。心底、その甘えた思考回路、他力本願な姿勢に自己嫌悪を覚え、食べたばかりのハンバーグを戻しそうになった。

 碧と一緒に楽しもうと思っていたCDやゲームソフトを手に取ったが、直ぐに段ボール箱に戻した。

 冬物の衣料が入っている段ボール箱と、本や小物類を詰めてある段ボール箱の中身も確認する。三箱とも、すぐに必要な物はなかったので外フラップと中フラップを交差させて蓋をした。

 そして、段ボールから碧の筆跡が残る送り状を慎重に剥がし、机の引き出しにそっとしまった。


 結論の出ない堂々巡りの会議を終え、やっとのことで解放されるように会社を出た。外は小雨が降っていて、粘着質な湿気が身体にまとわりつき、疲労感と重なって不快だった。

 智明は傘を差さずに真っ直ぐ新宿駅に向かい、各駅停車の総武線に乗って新小岩駅で下車した。

 万次郎の暖簾をくぐって店内に入ると、金曜日とあって満席状態だった。新たな客が智明だと確認した小原が、アイコンタクトで少し待ってと合図を送ってきた。

 入り口で待っていると、小原はカウンター席の客に詰めて貰い、智明の席を作ってくれた。

「サンキュー。生ちょうだい。あと、ヤッコ冷奴とポテサラ」

 席を詰めてくれた隣のおじさんに黙礼をしてから、智明は小原に注文をした。

「トモさん、今日このあとは?」

「翔さんと飲もうと思って来たから、当然付き合うよ」

「了解!では、いつもの店で」

 小原は笑顔で応じ、厨房の方に戻っていった。

 万次郎ではあまり飲み過ぎないようにして、時々手の空いたお母さんと世間話をして、ゆっくりと過ごした。 

 閉店時間が近付いたところで、智明は勘定を済ませて店を出る。後片付けがある小原に合図をして、二人でよく行く店に足を向けた。

 雨上がりの夜空の下、アーケードの商店街を横切り、ぶらぶらと歩いて古民家風の建物の前で立ち止まった。入り口の横に〈SOMETHING〉と書かれた黒板が、軒下の裸電球に照らされている。

 智明は少し滑りの悪い引き戸を開けて、店内に入った。

 間接照明だけの少し薄暗い店内を見渡すと、カウンター席でタバコをふかしているポロシャツ姿の中年男性と、三卓ある四人用テーブルの一つではしゃいでる、若いカップル客がいた。

 カウンターの中では肩まである脱色した長髪に、ソフトハットを被った痩せたマスターがいて、「いらっしゃい」と、顎鬚を動かしながら智明に笑いかけた。

 バリ島っぽいインテリアで落ち着くし、BGMがないので会話をするのに好都合な店だ。

 カウンター席の端にある大型ディスプレイに、ミュート状態で流している風景を中心とした動画が、時々薄暗い店内にぼうっと淡い光を浮かび上がらせている。

 智明はカップル客がいる席から離れた場所のテーブル席に座った。

「飲み物は?」

 四十代後半と思われるマスターが訊いてきた。

「レモンサワー。あと、ミックスナッツ下さい」

 智明は応え、一旦席を立ちあがってカウンター席の端にあるおしぼりを冷やしてるボックスに近付き、二つのおしぼりを持って席に戻る。アルバイトの女の子がいる時は持ってきてくれるが、マスター一人の時は、セルフサービスがこの店の基本となる。

「ロッカーも一緒?」

 レモンサワーとミックスナッツをテーブルに置きながら、マスターは微笑んだ。マスターは小原のことをロッカーと呼んでいる。智明は名字の内間さんと呼ばれていて、こんなところにも自分の特徴の無さを痛感させられる。

「はい。あとから来ます」

「彼、最近元気ないよね。なんかあったのかな」

「さあ、バンドの中でごたごたがあるようなこと言ってたけど……」

 小原本人がいないのに、憶測で言ってはいけないと思い、智明は言葉を濁した。

「そう……まあ、バンドをやってるといろいろあるからね」

 マスターは当たり障りのない言葉を残し、カウンターの中に戻って行った。

 スマホのニュース画面をぼんやりと眺めながら、レモンサワーをちびちびと飲んでいると、ガタピシと建てつけの悪い引き戸を開けて小原が店に入って来た。

「早かったね」

 有名な左利きのギタリストのイラストがプリントされているTシャツに、ダメージジーンズに着替えた小原を、智明は笑顔で迎えた。

「大将とお母さんがこれから明日の仕込みをやるみたいで、早く解放されたっす。あ、マスター、生下さい!」

 小原はカウンターの中にいるマスターに、挨拶代わりの注文をした。

「ナッツしか頼んでないよ。なんか頼めば?」

 目の前のナッツからアーモンドをつまみ、口に放り込みながら智明は言った。

「賄いで焼きそば食ったからそんなに腹は減ってないけど……生ハムサラダ頼んでいい?」

 頷く智明を見てから小原はマスターに追加で注文をし、智明が持ってきてテーブルに置いてあったおしぼりで、顔を乱暴に拭いた。

「で、やっぱり実家に帰ることにしたの?」

 小原の生ビールのジョッキが届いたところで、智明は乾杯の仕草をしてレモンサワーを一口飲んでから小原に訊いた。

「いや、冗談じゃないっすよ!実家に帰って毎日干物作りなんて、勘弁してよ」

 小原は大学時代に同級生四人で結成したバンドのリーダーだった。

 卒業を機にバンドは解散をし、小原は大手不動産会社に就職したが、音楽への道を諦めきれなくて、一年も経たずに会社を退職してしまった。

 その後はバイトをしながら音楽活動を続ける道を模索していたが、他のメンバーも自然な流れで再び結集し、音楽活動を再開することになった。

 しかし、最近はいつまで経ってもデビューに至らない自分たちの音楽活動と、不安定なバイト生活に、各メンバーは焦燥感を覚え始めていたようだ。

 そんな矢先に、ボーカル担当のメンバーがバンドを辞めて郷里に帰ると言い出した。

 小原は強硬に反対して引き留めたが、他の二人のメンバーもボーカルに同調し、解散を口にした。

 自分以外の三人が裏で話し合っていたことに小原は腹を立て、殴り合いの喧嘩になったという顛末を、智明は聞いていた。

「そう……東京こっちに残ってどうすんの?」

 小原の実家は、静岡県の伊東市で干物店を経営していている。

「今は、ちょっと分かんないっす。バンドの解散は決定的だけど……まだ、なんて言うか、すっぱりと割り切れてないっていうか……」

「勝手に聞こえてきちゃったけど、今のバンドを解散して新たなメンバー集めて、またバンド組むの?」

 勘定を済ませた若いカップル客を見送った後、生ハムサラダをテーブルに届けにきたマスターが、空いてる席に座って会話に参加してきた。

 カウンター席の中年男性客は競馬新聞の予想記事を熱心に見ていて、こちらには全く関心がなさそうだ。

「いえ、これからメンバーを探したりのバンドはキツイっす……と言うか、もうプロを目指すのは無理かなって思うんで。これからは趣味でギターを弾くって感じっすね」

「辞めちゃうの?なんか勿体ないなー。いいオリジナル曲はあるし、演奏だってバッチリで、結構コアなファンもいたのに」

 小原が音楽を諦めるとは思っていなかった智明は驚いた。

「いやいや、俺達レベルのバンドなんてそこらじゅうにいますよ。それに曲が良くて演奏の技術テクがあっても、プラスアルファの何か……それこそ、この店の名前じゃないけど、サムシングがないとプロは無理だっていうのは、前から分かってたんす。でも、それを認めるのが怖くて……。自分たちにはそのサムシングを見つけて、モノにする運というか力が無いっていうのが、段々と分かってきてましたから」

「まあ、どこかで線を引かなきゃならない時ってあるからね。それが今なのかどうかは俺には分からんけど、後悔しなければ……って、絶対に後悔することになるんだけどね」

「後悔しますかね?」

 マスターの言葉に小原は反応した。

「ロッカーがそうなるかは分からんが、俺や周りの奴らを見てるとね……。特に物事がうまくいかない時や現状に不満が生じた時は、必ずタラレバ的に後悔しちゃうね。あん時もっと我慢すれば良かった。あれはもう一歩踏み出すべきだった、ってね。でも、それができなかった理由は、自分が一番知っているんだけどね」

「そうっすね……多分、いや、絶対後悔するんでしょうね。今まで歯を食いしばってやってきたことを諦めなきゃいけないんっすからね。こりゃあ、悔しいっすよね」

 ジョッキのビールを呷るように飲みながら、小原は言った。

「まあ、今までやりたいことがあっただけでもいい方だよ。俺なんか何もなかったからね……って、怒らせちゃうかな」

 智明はそう言って、舌を出した。

「そんな、怒ったりしませんよ。自分で決めたことですし」

 珍しく茶目っ気のある発言をした智明を見て、小原は微笑みながら言った。

「でも、実家の方は大丈夫なの?」

 智明は心配顔で訊く。

「ええ、大丈夫っすよ。帰って実家を継げって言うのはおふくろの口癖っすから。もう、会社辞めてからずっとそればっか。呼吸音というか、息を吐く時の音が帰って来いか、家の仕事を手伝えになっちゃってんすよ」

 小原がげんなりした表情で言ったので、智明とマスターは手を叩いて笑った。

「まあ、焦ってやりたくもないことをするより、ゆっくりと何をしたいのか、何ができるのかを考えた方がいいかもね」

「そうっすね。当面は万次郎でのバイトに専念しますので、マスターも飲みに来てくださいよ」

 マスターの話に頷き、小原は明るい声で言った。

「うん。大将の料理は抜群だからね。それにお母さんと話すと妙に落ち着くし」

「俺はなんもできないけど、手伝えることがあれば言ってよ。あ、でも金はないからね」

「女性関連もでしょ」

 智明の言葉に小原がツッコみ、マスターは笑いながら智明の肩を軽く叩いた。


「もう、二人共何よー!全っ然盛り上がらないわね!翔君、久しぶりに私と飲むんだからもう少し明るい顔ってできないの!トモ君も試合直後の負けたボクサーみたいに打ちひしがれてないで、どんどん飲んでよ!」

 万次郎のお母さんの姉が危篤状態になったとの連絡で、大将が松戸の病院にお母さんと一緒に付き添いで行くことになり、店が臨時休業になった。

 突然時間ができた小原が智明の部屋をノックし、飲みに行こうと誘って来た。 

 土曜の夜に何をするでもなく、ぼうっとしていた智明は、飛びつくように頷いた。支度をして二人で一階に下りたが、そこで、待ち構えていたような多佳子に拿捕された。

「二人お揃いで何処に行くの?怪しい所じゃないでしょうね。あ、翔君はお店に出勤ね」

「いえ、今日は店が臨時休業になったんで、トモさんと飲みに行こうかと……」

「なんで私を誘わないのよ!男二人、しかも若い衆だけで楽しもうってこと?」

 小原が応えるのを遮って、多佳子は非難を含んだ口調で言った。

「いえ、そんな、多佳子さんがいるなんて思わなかったんで……。今日はオフですか?」

 弁解がましく言う小原の横で、智明も多佳子を見た。

「オフも何も超ヒマよ!外でお金を使わないで、私の酒とつまみで我慢しなさい!」

 多佳子に強く言われ、智明と小原は玄関に向けてた足を回れ右の要領でリビングの方向に変えて、テレビの前のソファに座った。

 一旦自室に戻った多佳子がワインのボトルを提げて、足取りも軽くリビングに戻ってきた。

 二人は多佳子の指示でテキパキとテーブルの上を片付け、グラスや皿のセッティング、乾き物や缶詰類を盛り付けた。

 乾杯の後、多佳子は急ピッチでグラスを傾ける。二人は、酔い潰れないように用心して、普段より遅いペースでビールを飲み、缶詰に箸をつけた。

「多佳子さん、いつもよりペースが早いですよ。まだ六時前ですし、もう少しゆっくりと……」

「何よ!いつもと変わらないでしょ!トモ君のペースが遅いからそう感じるのよ。ねえ、翔君、って君も遅いぞ!若いんだからもっとガンガンいきなよ!お酒ならいくらでもあるんだから。お中元で沢山貰って、部屋がアルコール類で埋まっちゃってるから早く処分したかったのよー。だから二人共、今日はとことんやってちょうだい」

 飲み干したビールの空き缶を握り潰しながら、多佳子は大声で言った。

 それから智明と小原のグラスに、新しい缶ビールを開けてから、ドボドボと注ぐ。

 普段とは様子が違って高揚している多佳子に戸惑い、智明と小原はお互いに顔を見合わせた。

「そう言えば翔君、バンド辞めてどうすんの?田舎に帰っちゃったりとかするの?」

 レーズンバターを丸齧りしながら、多佳子は小原の顔を覗き込んだ。

「いえ、実家に帰ってもやることないし、もう少し東京こっちで色々と考えるつもりっすけど」

「考えるって何を?仕事?彼女とのこれから?それとも、バンドのこと?」

 多佳子は赤ワインのボトルのコルク栓を器用に抜きながら訊いた。

「仕事って言うか、これからのこと全般っす。大体、彼女いないし、音楽は趣味でやっていくことに決めてますから……」

「あれ、今、彼女いなかったっけ?トモ君の未練たらしい別れ話は聞いたことあるけど、翔君の別れ話は聞いた記憶がないなー」

「未練たらしいって、ボクの話は関係ないでしょ……多佳子さん、ワイン入れ過ぎですよ!」

 水面張力により、赤ワインが辛うじてこぼれずにいるワイングラスを見ながら、智明は口を尖らせて言った。

「いつの話っすか、彼女いない歴はもう四年っすよ!多佳子さんと初めて飲んだ時に話しました、っていうか、強制的に言わされましたけど」

 小原も智明と同様に、初飲みでプライバシーは丸裸にされたようだ。

「……だっけ?記憶にないなー。ホント?そんな話、私にした?」

「したっす!このソファで、今日と同じようにビールをがぶがぶ飲まされて、取り調べの刑事みたいに……強引に白状させられましたよ!」

「マジ?この私が?……かつ丼とか頼んだ?」

 多佳子は自分を指差しながら訊いたが、直ぐにワイングラスに口をつけた。

「かつ丼って……刑事ドラマじゃあるまいし、何言ってるんすか!多佳子さん、もう酔ってます?」

「だーかーら、酔ってねーし。君たちしつこいよ!もっとどんどんいきなって!」

 スルメを齧りながら、多佳子は新しい缶ビールを開ける。

 まだ半分以上ビールが入っている智明と小原のグラスに注ぎながら、二人にもっと飲むペースを上げろと迫った。

 グラスからビールの泡が溢れそうになったので、二人は水鳥のように素早くグラスに口を近づけた。

 場の雰囲気を変えようと、小原がリモコンでテレビのスイッチを入れた。だが、多佳子は直ぐにリモコンを奪い取ってテレビを消した。

「翔君、何よ!テレビなんか観なくたっていいでしょ!そんなことよりキミのこれからについて話をしなさい!トモ君もだよ。翔君だけ犠牲にしてキミが逃れるなんてできないからね!」

 巻き込まれないようにと、二人の遣り取りから距離を置くように誰もいない階段辺りに視線を向けてた智明にも流れ弾が飛んできた。

 その時、一瞬階段に下りかけた遠藤の爪先がちらっと見えた。

 しかし、多佳子の只ならぬ雰囲気を察したようで、下ろしていた足をタコ壺に入るタコのように静かに引っ込め、消えてしまった。

 共用リビングの掛時計の針が、V字型になって見えた。

 十一時を五分程過ぎている。飲み始めてから五時間以上を経過していて、ワインのボトルが三本、テーブルの上に転がっている。

 潰れたビールや酎ハイの缶は数え切れない。アルコールの誘惑に抗しきれずにいつの間にか参加していた遠藤は、小原と仲良くソファの上にひっくり返った態勢で、だらしなく口を開けてダウンしている。

「トモ君、注いでよ……私のグラスは空よ」

 ソファの上で胡坐をかいた多佳子は少し呂律の回らない口調で言って、智明の方にワイングラスを突き出した。

「多佳子しゃん……もう、飲みしゅぎです……今日はきょの辺で締めということで」

 深い酔いと我慢できない睡魔。

 ズキズキと頭痛がしていて、智明は多佳子以上に呂律が回らない。撃沈している小原と遠藤の分も頑張っていたが、既に限界を超えていた。

「何言ってんの!まだ、日付は変わってないわよ!ほら、いいから注ぎなさい!」

 目の前に置かれたワイングラスに白ワインを注いだが、四分の一程はテーブルの上にこぼしてしまった。

「しかし、遠藤さんと翔君は、こんなにお酒に弱かったっけ?」

 注がれたワインを一気に飲み干し、多佳子はソファの上で重なるように寝ている二人に、疑いと非難の目を向けた。

「にゃにかと疲れてるんでしゅよ……特に翔しゃんは。だから、今日のハイペースについていけなかったんじゃないしゅかね。遠藤しゃんは遅れを取り戻そうとがっちゅき過ぎでしゅけど」

 途中参加の遠藤をフォローするネタが思い浮かばなかったので、智明は小原だけを擁護した。

「バンドの解散?」

「しょれもありますけど、将来のきょととか……。実家のお母しゃんは、帰って来いってうるしゃいみたいですしゅ」

「ふーん。仕事はどうするって?ずっと万次郎でバイトってわけじゃないでしょ?」

「どうでしゅかねー。大学卒業して大手のデビェロッピャーデベロッパーに勤めたけど、音楽がやりたくてしゅぐに辞めちゃってるから……今更いましゃらシャラリーマンとかには、なりたくないなーって言ってたような……」

「大学はW大でしょ?」

「ひゃい。しぇいけい政経学部でしゅから、優秀でしゅよね」

「トモ君だってM大でしょ?」

「偏差値がじぇんじぇん違いますよ。ここの出来はボクとは大違いっしゅよ」

 身体を前後にふらつかせながら智明はカシューナッツを口に放り込んで、自分のこめかみ当たりを指差して言った。

「じゃあ、どっか紹介してあげようかなー。どんな業種がいいんだろう。トモ君知ってる?」

「いえ、ボクは知りましぇん。でも、なんとなくでしゅけど、いつかは実家には帰らなきゃって、思ってるような感じがしましゅが」

「翔君が?へー、そうなんだー」

 空のワイングラスに自ら白ワインを注ぎ、多佳子は言った。

「いえ、分からにゃいですよ、ホントのところは。ただ、しょんな感じがしゅるっていうか……」

「ふーん。みんな悩みはあるよねー。当たり前だけど」

「多佳子しゃんは、そんなの無縁しゅよね?」

「何言ってんの!悩み事だらけで死にそうよ!ホントにトモ君って洞察力がないわねー……」

「どうしゃつ…りょく…って、しょれってなんでしゅか?」

 智明は缶の底に僅かに残っている温くなったビールを、啜るように飲み干した。

 泥酔に近い状態を自覚しながらも目の前の多佳子との会話を途切れさせまいと、気合を入れ直した。

「ビールもう無いの?冷蔵庫も空?……洞察力がないっていうのは言い間違えたわね。そういう意味じゃないのよ、私が言いたかったのは……」

「もうビールはいいでしゅ……腹ガボガボで。ボクの冷蔵庫に缶チューハイがあったと思いましゅのでそれ飲みましゅか……で、どういう意味でしゅ?」

 智明はよろけるようにソファから立ち上がり、共用の冷蔵庫に千鳥足で向かいながら訊いた。

「むやみに人の気持ちに立ち入らないって言うか、無遠慮にズカズカと内面に入り込んでこないからいいっていうこと。人を苛立たせないでしょ?トモ君は」

「しょんなことないっしゅよ、単に怖いんす……。はい、多佳子しゃんの好きなリャイムしゃわー」

 数種類の缶チューハイの中から一本を多佳子に手渡し、智明はミネラルウオーターのボトルを開けた。

「ありがと……怖いかー。トモ君はそうかもね。優し過ぎるもんね」

「しょんなんじゃないっしゅよ。傷付きたくないんす。臆病なんでしゅ……裏切られたくないから、あまり人を信用できないし……あ、でも、きょきょの人たちは信用してましゅから」

「それは利害関係がないからでしょ?物だけではなく、お金の貸し借りや時間を拘束されたりしないからそう思うのよ」

「お金の貸し借りは、確かに……でも、時間の拘束は……今ガッチュリと……」

「あ、言うわねー。トモ君が皮肉めいたこと言うの始めて聞いた。それだけ、親しくなったってこと?おばさんとしては嬉しいわー」

 多佳子は酔っている智明をいつくしむように見ながらライムサワーの缶を開け、一口飲んで、艶然と微笑んだ。

「おばしゃんってことはないっしゅよ。今は慣れましたけど、初めの頃は顔を合わすだけでドキドキでしゅよ……んで、多佳子しゃん、お悩みってなんでしゅか?お仕事っしゅか?」

「なんで仕事って決めつけるのよ!私にだって、人並みに色恋沙汰の悩みだってあるのよ」

「いりょきょいって……多佳子しゃんに限って、んなこたーないっしょ。多佳子しゃんを振る男が、きょのよのにゃかにいっこありましぇん」

 智明は酔った身体を前後に揺らし、ソファの背凭れからずり落ちそうになる。

「なんで?なんで私が振られないって決めつけるのよ。そんなにもてるならこの年まで一人でいないわよ……普通は、って大丈夫?」

「ん?なんしゅか……大丈夫っしゅよ」

 智明は両手で身体を支え、座り直そうと試みるが、力が入らない。なんとか寝そべるような姿勢まで戻し、多佳子に応えた。

「別れちゃったのよ……って言うか、振られちゃったのよ……付き合ってたヒト・・から」

「振りゃれた?多佳子しゃんが……」

 完全に酔いの回っている智明は多佳子の話が理解できず、薄いリアクションで応じた。

「こんなことで冗談や嘘は言わないわ。でも、五十を過ぎたおばさんが、振られただのなんだのって言うのを聞かされるのは気持ち悪いわね……ごめんね、変なこと言っちゃって」

 多佳子は、半分以上瞼を閉じている智明を見ながら、トーンを落とした声で言った。

「しょんな……気持ち悪いだにゃんて。しょれより、多佳子しゃんを振るオトコの人がいるんしゅかねー」

「オトコ?そうよね、そう思っちゃうわよね……」

 多佳子は引っかかるような言葉を溜息とともに吐きだし、ライムサワーの缶に少しだけ口をつけた。

「……え?なんでしゅか?」

 朦朧とした意識の中で、智明は多佳子に訊き返した。

「振られた相手はオトコじゃないってこと。私、男性には恋愛感情が湧かないの……つまり、今風に言えば、LGBTってこと」

 多佳子はそう言って、白く細い喉元を鳴らしてライムサワーを飲み干した。

「……?」

 智明は多佳子から発せられた言葉の意味を咄嗟には理解できずに、瞼と口を半開きにして多佳子を見た。

「びっくりした?いきなり突拍子もないことを言われたら、そりゃあ驚くわよね。ごめんなさい」

「いえ……にゃんか、よく分かんないすっけど……。でも、多佳子しゃんは……」

 知明は言葉を返そうとするが、頭を下げた多佳子の姿がおぼろげにしか見えなくなり、数秒後にソファから崩れ落ちた。


※最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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