9話 ボクを殺して!


 20分後。ライナは顔をしかめながら、共和国ホテル最上階のラウンジで、座り心地の良い椅子に体を押し込めていた。


「さぁさ、遠慮せず食べて」


 ケーキやサンドイッチを乗せた豪華なケーキスタンドを挟んだ向かいで、ナスカがにこにこと笑っている。


「お金は心配しなくていいよ。公費で落ちるから」

「……あんた女子会って言葉の意味分かってる?」

「女の子だけでお食事とか、お話しすることでしょ? ボクだってそれくらい知ってるよ」

「間違ってはいないけど……」


 ライナは周囲を見渡す。

 二人が座る席はラウンジの窓際席の中で最も上等な席で、日が傾き、表情を変えていく東京の様子をよく見ることができる。だが、今のライナにそんな余裕はなかった。座っている席もそうだが、目の前にあるアフタヌーンティー、ラウンジの内装、他の客、そして従業員までもが気品に満ちている。よれたフライトジャケットを着ているライナは明らかに場違いだった。


「あーあ、お腹減った。いただきます」


 困惑するライナをよそに、ナスカは慣れた手つきでカップを手に取り、優雅な仕草で紅茶を飲む。その様子にライナは目の前の少女が自分とは別世界の、相容れない人間だということを改めて認識させられた。高級ホテルで食事をしていても違和感のない、国政を司る孤高の存在。小さい体のナスカが持つ、大きな存在感に劣等感を覚えそうになったライナは、その気持ちから目を背けるためにトレーからキュウリサンドをわしづかみにして、わざと乱暴に口に運んだ。


「どう、美味しい? ここのパン、米粉は一切使ってないんだよ?」

「まぁ、悪くないんじゃない」

「でしょー」


 ナスカもライナと同じサンドをフォークとナイフで取り口に運ぶ。一口の量はライナに比べてはるかに少ない。


「んふふ、ちょっと憧れてたんだよねぇ、こういうの」

「自分を殺そうとした奴と茶を飲むのが?」

「うんうん、そうなの……って違う違う」


 鈴のようにナスカは笑う。


「同性の子と色々お話したりする機会、なかなかないんだよ。だから楽しい」

「殺そうとしてきたやつで、恋のライバル認定してるやつでも?」

「寛大なところを見せてあげて、ライバルと格の違いを見せつけてるんだよぅ。これで大抵の意地悪なライバルは心折れるから」

「恋愛小説の読み過ぎ」


 ライナは紅茶を音を立てて飲む。嫌そうな顔をした他の客に、ライナは中指を立てて視線を外させた。そんな様子を見てもナスカは楽しそうだった。


「あははっ。ライナはめちゃくちゃで楽しいね」

「皮肉をどうも」

「褒めてるんだよぉ」


 ナスカは唇を尖らせて抗議する。


「前にね、ヒオリにね、聞いてみたの。特広対で仕事ができる人ってどんな人なのって。ボクもヒオリと仕事がしてみたかったから、参考にしたくて」


 ステインの相棒サイドキックとして破壊活動にいそしむ国家元首の姿を思い浮かべ、その滑稽さにライナは思わず笑ってしまいそうになった。ナスカの前で態度を崩したくなくて、なんとか唇を噛んで堪える。


「で、ヒオリが言ったの『めちゃくちゃな奴で、ワルなヤツがなれる。お前じゃ無理』って。よくわかんなかったけど、ライナを見たら分かったよ」

「やっぱり褒めてないじゃない」

「そんなことないってー」


 空になったナスカのカップにスタッフが紅茶を注ぐ。片手でカップを突き出したライナにも困惑しながらも同様におかわりを提供した。


「どう? 特広対の仕事は慣れた?」

「慣れてるかどうかは分かんないけど、良い思いはさせてもらってる」


 ライナはリストを着けた手首を捻り、手元に小さな絵画を表示させた。イエス・キリストと使徒たちの晩餐の様子を描いたものだ。


「あんたたちのクソ特権でね」


 党は過去、大規模な絵画の規制を行い、名作と呼ばれるものから、落書きにいたるまで、絵という絵を見境なく回収した。それらは一般には廃棄されたと言われている。だがライナが知った実態は少し違った。

 回収された絵は全て焼却されたが、その前にアーカイブ化され、ホクサイシステムの学習データとなっていたのだ。治安省や浄火省で一定のセキュリティクリアランスを持つ者は、アーカイブの閲覧が許可される。治安省でも特殊な部門にいるライナも、その対象になっていた。


「あとはこれを国民全員に共有して、絵を描く自由があれば最高なんだけどね」

「いいよー」

「はいはい、期待してないわ。私が言ったのはあんたと違って皮肉で……へ?」


 ナスカの返事の意図が飲み込めず、ライナは目を点にする。


「ボクもさぁ、前からおかしいなって思ってたんだよね。絵が危険ならホクサイだって危険って話になるよね」


 軽々しく語られる政策の転換に、ライナは言葉を失っていた。


「ボクが関わる前の規制だから、理由はよく分かんないけど。でもやっぱりおかしいよ」

「……なんで、そんなにあっさりしてんのよ」


 ライナの声は彼女自身が驚く程、か細く発せられた。ナスカの言葉に感激したわけではない。自信の苦悩を軽く見られたような気がして、ライナの怒りが心の許容量を通り越し、感情の表現が上手くできなくなっていたからだ。


「そうかな?」

「絵が描けないことで苦しんでる人がたくさんいるのに、そんな世間話みたいに話すのが信じられないって言ってんのよ」

「嫌な思いにさせたらごめんね。でも、それなら、やっぱり絵は描けるようにしたい」


 ナスカはカップをソーサーに置く。


「どんな人だって、この国に住む人なんだし、幸せに暮らしてほしい。絵を描きたい人や、ラスコーも例外じゃないよ」

「ラスコーも?」

「うん」


 月のように輝く金色の瞳が、窓いっぱいに広がる、ラスコーがまやかしの炎で滅却した東京の街を見やる。


「絵が描きたくて、あんなことしたなら、ラスコーの気力というか。エネルギーってすごいと思うんだ。それを共和国のために使ってもらえるなら、それって素敵なことじゃないかな?」


 ナスカは視線をライナに移す。ライナは自分を覗く金色の瞳の中に、吸い込まれてしまいそうな感覚を覚えた。


「それに、ライナはヒオリの友だちでしょ?」

「だから?」

「なら、ボクの友達でもある。ライナは恋のライバルだけど、それとこれとは別。友達の願いは、叶えてあげたいんだ」

「そんなクサいセリフで信用されると思ってるなら、あんたは本当におめでたいやつね。日本の未来は明るいわ」


 ライナの突き放すような態度を前に、ナスカは少し寂しそうに、そして不安げに顔を曇らせ、うつ向いた。


「分かってる。結果を出してないのに、信用して欲しいだなんて言わない。それに、今すぐ、規制の撤廃も出来ないし」

「ほら、口だけじゃない」

「だから、出来なかったらボクを殺して!」


 ライナは口に含んだ紅茶を盛大に噴出した。ライナの顔は興奮して真っ赤に。フローリングが汚された従業員は顔を青くした。ナスカは愉快そうに笑っている。


「げっほ! げほ! はぁ?! あんた何言ってんの?!」

「一度殺そうとしたじゃん。今度はヒオリに守ってもらわないから」

「そういうこと言ってんじゃないの! 自分の言ってることの意味、分かってるかって聞いてんの!」

「もちろん分かってて言ってるよ」


 ナスカは屈託のない笑みを浮かべて、小指をライナの前に差し出す。


「絵を描けるようにして、共和国をもっと良い国にする。出来なかったら、ライナはボクを殺す。お互いに約束しよ」


 ライナは眉をひそめたまま、ナスカの小指に自分の小指を絡めた。


「ヒオリといい、あんたといい、政府の人間はアホばっかなのね」

「もうライナも政府の人間じゃん」

「うるさい」


 ナスカは小さく笑い声を漏らした。そのまま、手をゆっくり振って、可愛らしい声で契約の祝詞を唱える。


「ゆーびきーり、げーんまーん、嘘ついたらクーデターおーこす。ゆーびきった」


 そして、約束を取り決めた二人の小指がぱっと離れた。命をかけたとは思えないほどの軽さで。


 ◆


「今日は楽しかったー!」


 窓の外はすっかり暗くなっていた。指切りの後もナスカの惚気話が続き、かなりの時間が経っていた。


「はぁ、ヒオリも来れたらよかったのに」

「あいつは今忙しいから。明日からは学校来るっていってたけど――あ、残ったの持ち帰りで」


 残ったケーキを指さしながらスタッフにライナは図々しく要求する。来てすぐの不安げな様子はもはや見る影もない。逆に、ナスカはもじもじと体を揺らしていた。


「何?」

「その……ライナはヒオリと同じ高校に行ってるんだよね」

「そうだけど」

「えと、ヒオリって普段、学校でどんな感じなの?」


 ライナは頬杖をつく。


「分かんない。正直、学校ではあんま絡みなかったし」

「そうなんだ!」


 不安げだったナスカの顔が少し明るくなる。


「まぁ特広対に入ってからは、学校でも話すようになったけど」

「そうなんだ……」


 そしてすぐ暗くなった。ライナは言葉で説明するのが面倒になり、リストを操作して、ナスカの目の前に突き出す。


「これなに?」

「あいつがクラスの連中と撮った動画。グループにあがってたやつだけど。そんなに気になるなら自分で見れば?」


 ライナの手元に写された動画の中では、ヒオリがクラスメイトの男子と腕相撲をしていた。


『あー! やべぇ、いてぇ! むりむりむり! 勝てねぇ!』

『ヒオリ、歌え! 歌っとけ!』

『無理だってば!』

『いいから!』

『わーれらーのっ、しょきちょーのー、そそぐーひーかーりがわっぱぁ!』


 動画の中のヒオリは歌いながら腕相撲に負け、盛大に椅子から転がり落ちた。


「なにこれぇ、変なのぉ」

「これ完全に演技よ。あいつ警棒で人気絶させられるような奴だし。将来役者にでもなれるんじゃないの」


 ライナはため息をついて、突き出した腕を引っ込めようとした。だが、ナスカに腕を掴まれ引き戻される。


「なにすんのよ」

「他には、他にはないの?!」

「あーもう、面倒くさい! そんなに普段のあいつが知りたいなら、本人から聞きなさいよ!」


 ナスカはうつ向いて、ライナから手を離す。


「ヒオリ、学校のことはあんま話してくれなくて」

「あっそう。知らないわよ、あんたたちのプライベートなんか」

「だから、いつも一緒にいるライナが……」

「私が何?」


 掴まれた腕をさすりながらライナはナスカを睨む。


「ううん、ここで弱気になっちゃいけないよね」

「だから、何の話よ」


 ナスカはぶんぶんと首を大きく横に振ると、勢いよく立ち上がった。


「ボクもヒオリと学校に行く!」

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