夜の海

「先輩、嫌いです」

 ひどくつまらない言葉を息を吸うように吐く。それが楽しくて、虚しくて、悲しくて。言葉を吐くたびに胸に空いた穴がまるで大きく太く膨らんでいくような気がした。穴が大きくなるたびに、紡ぎたいはずの言の葉はスルスルと喉から零れ落ちていく。穴が太くなるたびに、先輩から貰う感情のその全てが欲しくて、いらなくて、どうしようもない気持ちに襲われるのだ。今日の先輩はなぜだか、いつもと違うような気がしたから。でもそれがどこが? と問われれば答えられるような明確なものじゃなくて、ただ今日の先輩は嫌いだと思ったのだ。そのことを言うと決めたのは私のはずなのに、どうしてか胸が痛い。言われた先輩の方がもっと辛いはずなのに。

 痛いのも、傷付くことも、傷付いているであろう先輩を見ることにも、全てが嫌になって足を無造作に動かす。足元にある水がバシャバシャと、自由に動く。ひんやりと冷たくて、気持ちが良い。夜の海は昼間とは違う、不思議な感覚がする。その感覚がだんだんと楽しくなってきて、踊るように足を滑らす。動かす。バシャ、バシャ、バシャ。あッ! と思ったときには足が縺れて、倒れかけていた。襲ってくる衝撃を恐れて、身構えるように目をギュッと強く瞑る。……十秒、三十秒。いくら待っても衝撃は来なかった。恐る恐る目を開けると、先輩がハァ、と溜め息をついた。どうやら私は先輩に助けられたらしい。危ないところだった。ありがとうございます。と、伝えようとしたところで口を閉じる。嫌いだと伝えたのに、助けられるなんてなんだかとても恥ずかしい。どうしようかと考えていると、先輩が口を開いた。

「俺も、お前が嫌いだよ」

「嫌いなのに、助けたんですか?」

「嫌いだから、助けたんだよ」

 うん? と首を傾げる。嫌いなのに助けるなんて、矛盾しているような気がする。不思議な人だ。

「嫌いなのはお前の考えが足りないところだけだよ」

 先輩は私の心を見透かしたように告げる。そして、別にそんなに殊勝なことでもない。と言った。いつもと同じ、不思議な人。私の考えが読めているのかと思うくらい正確な答えを叩きつけてくる人。でもなぜだか、やっぱりどこか違う。海だなんていつもと違う場所で先輩を見ることが初めてで新鮮だからだろうか。普段は学校とか、町中とかでしか会わないから。それにしたって、暗い先輩に海なんて、本当に似合わなくて笑ってしまう。例えるなら、数学者が必死に現代文を勉強してる、みたいな。どうしてだろう? ってただ疑問に思う光景。先輩、泳げなさそうだし、海に来たとしても本を読んで涼しんでいるだけだと思っていたけど。

 先輩から少し距離を取って、さっきよりは少し大人しめに、水をばしゃんばしゃんと跳ねさせる。先輩の方へ向かう水飛沫にウワ、なんて顔を顰めながらもなんだかんだ楽しそうな先輩を見て、今日一日の不安は全くの杞憂だったかと安堵する。なんだかんだ、怪しかったとはいっても私は先輩のことが好きであるし、先輩には笑顔でいてもらうことが最優先なのだ。まあ、怪しい雰囲気の先輩は近付くと肌がピリピリと苛立ってしまうから(もちろん今日の先輩は)苦手だけれども。ふとした瞬間の本能とでもいうのだろうか。普段は何も感じないのに、年に一回くらい、いや。一ヶ月に一、二回はあるからなんとも不思議な心地だ。そういえば先輩も、海に近付くと肌がピリピリと痛んで不快になるからあまり海に近づきたくないっ、て。……あれ。何かがおかしい。今の流れで思い出したけど、先輩は海が嫌いだったはずだ。確か、子どもの頃に溺れかけたことがすっかりトラウマになっていると言っていた気がする。だから海が嫌いなんだと。前に海に行こうと誘ったとき、苦虫を噛み潰したような顔をして(実際は私に弱みを握られたくなかっただけだと思うが)、俺は行かない。一人で行け。と断固拒否していたのに。どうして唐突に海に行こう、なんて誘ってきたのだろうか。

「先輩、肌、痛みません?」

「肌? なんで?」

「なんでって……。もう大丈夫なんですか?」

「……何の話をしてんのか分からねえが、心配してくれてありがとな」

 眉を下げて笑う先輩(・・)。前に自分が言っていたことを、忘れてしまったのだろうか。

「先輩は海好きですか?」

「好きじゃなきゃ、こんな時間に来たりしねえよ」

 ──ヒュッ、と息を呑む。一歩間違えれば簡単に死ぬ、全てがわからないのに巨大な影が映る水面に本能的な恐怖を感じる、などとあれほど海に対して良いイメージを持っていない先輩が冗談でも好きと言えるはずがない。言えるわけがない。

 じゃあ先輩の顔で、声で、先輩が言うはずのないことをツラツラと紡ぐ目の前の人物は、一体誰なのだろう。少なくとも私の先輩ではない。だって、先輩はこんなに重く淀んだ瞳も、ねちゃりと耳につくような声もしないのだ。どうして気が付かなかったんだろう。いつも先輩は私を見て、ゆるりと目尻を下げて宝物を慈しむような目をするし、もっと檸檬のように爽やかで優しくて苺のように甘い声がする。渇きから震える口を開いて問う。

「あなたは、だれ?」

 彼は喉を震わせ笑った。

「お前の先輩だよ」

 ああ、なんだ。やっぱり。

「私、あなたの事嫌いだわ」

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