第四章「二つの月」⑦

 陽が落ちた後の公園では、街灯の周りだけが明るかった。

 両手にジュースの缶を一本ずつ持ったナツキは、ベンチに座って項垂れている人物にその片方を手渡した。

「ほれ」

「……あ、ありがとう」

 ベンチに座っていた人物、竜堂不由彦は缶の蓋を開けると、その中身を一気に口の中に注いでいった。

 随分と喉が渇いているようだ。

「おう、あんまり慌てんなよ。むせるぞ」

 ナツキがその言葉を言い終わる前に、不由彦は盛大にむせて咳き込んだ。

「ほら、言わんこっちゃない」

 呆れ顔のナツキは、不由彦の隣に腰を下ろして、自分の飲み物に口をつけた。

 白い喉にジュースを飲み干していく。不由彦は自分の口元を拭いながら、それを見つめていた。

「君は……本当に竜堂魚月なのか?」

「そうだよ。身体は、な」

 ナツキは手に持った缶をゆっくりとベンチの上に置いた。その手首には、金属製の腕輪が嵌められている。

「部分的に記憶も共有しているから、名前を聞いて少し思い出したぜ。あんたあの日、魚月の事を襲ったよな」

 不由彦はビクッと身体を震わせた。

 缶を持つ手が、世話しなく動いている。

「あ、あの時の私は……どうかしていた」

「だろうな。正気であんなことやってたら、そっちの方が怖えよ」

「……信じてくれるのか?」

「いいや、ちっとも?」

 そう言いながら、ナツキはニッと笑った。

「でも、話くらいは聞くよ。判断するのはそれからでも遅くねえし」

「……そうか、ありがとう」

 フ、と不由彦の口元が動いた。

 潰れた左眼からは感情を読み取れないが、残されたもう片方は、穏やかな光を湛えていた。

 魚月の身体に残っている最後の記憶によれば、あの夜の不由彦の様子は、明らかに異常だった。

 獣の様に歯茎を剥き出しにして、本能の欲動にどっぷりと酔った瞳を爛々と輝かせていた。その姿に、理性は感じられなかった。

 おそらく、この穏やかな右眼の光が、本来の不由彦の人格を表しているのだろう。

 両手でジュースの缶を持ったまま、不由彦はゆっくりと話し始めた。

「あの日何が起きたのか、正直に言えばあまり明確には思い出せない。当主との話を終えて自室に戻った所までは覚えているんだが……その後の記憶が、今でもぼんやりとしている」

「まじないをかけられる時には、よくある話だな。後から術者を特定されないように、あらかじめ記憶をボカすんだ」

「……意識を取り戻した時、私はどこかの山の中にいた。全身から激しい痛みがして、まともに動く事が出来なかった。この左眼も、その時はダメになっていたんだ」

 不由彦は自分の潰れた目にそっと触れた。

「それから歩ける様になるまで、数日を山中で過ごした。まるで獣になった気分だったよ。溜まった雨水を飲み、木の実をかじって生き延びた」

「……ま、珍しい事でもねえさ」

 ナツキは缶ジュースに口をつけた。

「その間もずっと気にかかっていたのは異母妹の遥香の事だ。私自身があんな状態だったから、竜堂家になんらかの問題が起こった事は察していた。あの時、遥香はまだ八歳だったんだ」

 缶を持つ不由彦の手にギュッと力が入った事が、ナツキの目にも分かった。

「傷がある程度癒えてから、私は山を降りた。死に物狂いで竜堂の土地に辿り着いた時は愕然とした。屋敷は荒れ果てていたし、人は誰も残っていなかった。浦島太郎の気分というのは、ああいうものなのかな。私は、その時初めて、自分が意識を失っていたのが数日間の事ではなかった事を知ったよ」

 四年前に起きた事件で、あの時屋敷にいた人間のほとんどが正気を失う事態となった。

 その多くが入院する事となり、維持が難しくなった竜堂屋敷は今も無人のまま、あの場所に打ち捨てられている。

 ナツキと秋人の他に生き残った面々も、既にあの土地を離れ、一般社会に溶け込んで生活をしている筈だ。

 不由彦の異母妹である遥香も、その一人だった。

「……遥香って子は見つかったのか?」

「随分と時間はかかったけどね。遥香は、竜堂家で使用人として働いていた道津雪子という女性と共に街で暮らしていた。私も昔からの長い付き合いがある、信頼のおける女性だよ。それを知った私は、喜び勇んで二人の住む家に会いに行った。そして……」

 不由彦は急に言い淀んだ。

 それまでは流暢に話していたのに、一転して、虚空を見つめたまま脂汗を流し始めた。

「そして……どうしたんだよ」

 不由彦はゆっくりとした動作で、隣に座るナツキの方に視線をやった。

 その唇は血の気を失って真っ白になっている。瞳孔は小刻みに揺れ、ジュースの缶を持つ手はガタガタと震えていた。

 不由彦は、何かに怯えていた。

「……わ、私はまた、頻繁に記憶を無くすようになった。気がつくと、知らない街や山の中にいた。身体中が血に塗れていた事もあった。得体の知れない物体が、懐の中に入っていた事も。私は見知らぬ土地で意識を取り戻す度に、遥香と雪子が待つ家に帰った。帰る場所が必要だった。また、自我を失うという事が分かりきっていたとしても……」

 茫然自失とした様子でボソボソと話し続ける不由彦の様子に、ナツキは警戒を強めた。

 この男の精神は、まだ何らかの支配下にある。完全に塗りつぶすのではなく、断片的に本人の意識を残しているところに術者のいやらしさを感じた。

 相手を利用するだけでなく、その上で自我をも苦しめようとするやり方だ。

「……で、俺にどうして欲しいんだよ。わざわざ訪ねて来るって事は、何か理由があるんだろ? どうして、ここにきたんだよ」

 ナツキは不由彦に気付かれない程度に、ベンチから腰を浮かせた。

 もし不審な様子を見せるようなら、すぐに走り出せるように準備をしたのだ。

「なん……で?」

 不由彦は明らかに呆けたような声を発した。口元はだらしなく開かれている。その瞳は、既にナツキの姿を捉えていなかった。

「なんで……魚月を探さなきゃ……いけなかったんだっけ……」

 マズい。

 自我が消えかけている。

 ナツキがベンチから立ち上がろうとした瞬間、少し離れたところからザッと土を踏む音が聞こえた。

 街灯の明かりが届かない闇の中から、誰かがこちらの方へまっすぐ歩いてきている。

 ナツキの額に冷たい汗が伝った。

 ただの通行人か、それとも敵か。

 どちらにしても、面倒な事になる。

 足音がした方向を注視していたナツキは、そこに現れた人物の姿を見て、ホッと胸を撫で下ろした。

 街灯の下を歩いてきたのは、秋人だった。

 いつものようにグレーのスーツを着て、仏頂面を構えている。その片手には、紫色の包みが提げられていた。

「なんだ、アニキか。ちょうど良かった。この人を、家に連れて行こうか迷ってたんだ。見た感じ、強いまやかしにかけられているみたいで……」

 ナツキは、ベンチで呆けたままの不由彦を秋人に紹介しようとした。

 けれど、秋人は街灯の下に立ったままそこを動かなかった。

「……アニキ? なんだよ、まだ朝のことを怒ってんのか?」

 ナツキの呼びかけにも応える様子もない。秋人は、返事をする代わりに、手に提げていた包みの封を解いた。

 紫色の布が、地面にパサリと落ちる。

 秋人の手には、金属製の腕輪が固く握られていた。

 ナツキの左腕にはめられたものとよく似た、古めかしい腕輪だった。

 その姿を見て、ナツキは眉を顰めた。

「なんで……アニキがそれを持ってんだよ」

 秋人は、腕輪を持っている方の手首にスナップを効かせた。

 前後に振られてカチャリと音を立てた腕輪が、手錠のように円弧状に開く。

「僕は……お前の兄貴じゃない」

 瞬間、秋人が地面を蹴った。

 伸びされた腕の先では、腕輪が鈍い輝きを放っている。

 ナツキは咄嗟に横方向に跳躍した。

 秋人が振りかぶった腕の風圧が、ブォンとナツキの黒髪を揺らした。

 そのスピードに、ナツキはゾッとする。

(本気で向かって来やがった……)

 ズザァッ、とスライドするように着地したナツキは、バッと秋人の方を向いて、大声で叫んだ。

「てめえッ! それが何なのか、分かってやってんのかよ!」

 秋人は、その手に持った腕輪を見つめ、カチャカチャと弄んでいる。

「……わかっているよ。”バケモノ”を封じる為の道具だろう?」

 秋人の瞳が、ナツキをとらえた。

 暗い夜の湖のような、静かで冷たい色を湛えた瞳だった。

 ほんの数時間前、藍那堂で言い争いをしていた時の秋人とは違う。

「大人しく封じられてくれ。……大切な身体を傷つけたくない」

 身体の前に腕輪を掲げたまま、秋人はナツキのいる方へと歩を進めた。

「……くそっ!」

 踵を返し、ナツキは逆方向に駆け出した。

 あの腕輪相手では、分が悪い。

 まさか、秋人がアレを持ち出して来るとは思いもしなかった。

 何故、秋人が。

 どうして、アレがここにある。

 それを考えるためにも、ここからいち早く逃げ出さなくては。

 離脱を試みたナツキだったが、その目論見はすぐに阻まれた。

 闇の中からぬっと姿を現した男が、ナツキの行く手に立ち塞がった。

(こいつ、いつの間に……!)

 ベンチに座っていたはずの不由彦が、腕を広げて目の前に仁王立ちをしていた。

 通り抜けようとしたナツキに身体をぶつけて妨害してくる。

 呆けた表情とは対称的に、不由彦の動きは素早かった。衝撃を受けて身体のバランスを崩したナツキは、その腕に捕らえられる。

 首元を二の腕で押さえつけられ、左の手首を強く掴まれた。

「くっ、こいつッ!」

 ナツキは渾身の力を振り絞ってみたが、不由彦の拘束はビクともしなかった。

「おいッ! 目を覚ませッ!」

 その呼びかけも虚しく、不由彦の瞳は変わらず虚空を見つめている。完全に誰かの操り人形と化していた。

 ジャリ、とこちらににじり寄る足音が聞こえた。秋人が、腕輪を構えてこちらに向かって来ていた。

 その後方、数メートルに小さな人影があった。掴まれた腕に力を込めて、必死に抵抗を続けながら、ナツキはその影にジッと目を凝らした。

 それは少女のように見えた。薄暗い闇の中で笑みを浮かべている。

 紅い亀裂が走ったような、悪意に満ちた笑みだった。

 その瞬間、ナツキの全身に、ドッと冷や汗が吹き出した。

(……アレは、普通じゃない!)

 ナツキの本能が全力でそれを告げていた。

 秋人は、気付いていない。

 その少女の姿をした人物の周りに、どす黒い靄が滞留して渦巻いている事を。

 その小さな身体に、信じられない程の数の思念が凝縮されていることを。

「……兄様。今のうちに、その腕輪を」

 鈴を転がすような可憐な声で、少女は秋人に指示をした。

 能面のような表情で近づいて来た秋人が、ナツキの細腕をグッと掴む。

 その掌は、汗でじっとり湿っていた。

「……バカが、誑かされやがって」

 ナツキは、抵抗をするのをやめてグッタリと身体の力を抜いて項垂れた。

 恨めしげに秋人を見上げ、睨め付ける。

 その瞳は、僅かに濡れていた。

「じゃあな、バケモノ」

 秋人は、既に嵌められているナツキの腕輪を軽く横にずらし、開いたスペースの上で手に持ったもう一つの腕輪を掲げた。

「ケッ。お前、後悔することになるぜ」

 ナツキはそっぽを向き、悪態をついた。

 強気なその態度とは裏腹に、押さえつけられた左腕は密かに震えている。

「……後悔なら、もうしているよ」

 秋人は、掲げていた腕輪を振り下ろした。

 ガチャリ、という音がして、ナツキの左腕に二つ目の腕輪がかかった。

 その瞬間、スッとナツキの瞼が閉じた。

 意識を失ったのか、身体を支えていた力が抜けて手足がだらりとぶら下がった。

 もう、その身体の中に、他の誰かの精神は宿っていないようだった。

 空っぽになった身体を目の前にして、秋人の後ろに控えていた少女は、ニッコリと笑みを浮かべた。

「上出来ね。兄様、よくできました」

 不由彦は、魚月の身体をゆっくりと公園のベンチの上に横たえた。

 眠ったように目を閉じている柔らかな頬を、小さな手がそっと撫でた。

「竜堂の力、やっと手元に……」

 少女はその感激を堪えきれず、声を震わせていた。秋人はその後ろ姿を眺めている。

 佇む秋人の表情に、喜びの色は欠片も浮かんでいなかった。

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