第四章「二つの月」⑥

 秋人は、藍那堂の入り口にかけていた「営業中」の札を裏側の「準備中」と書かれた面にひっくり返した。

 とてもじゃないが、この状況で接客などできる自信がない。

 心の中で藍那に小さく詫びを入れ、店舗の電灯のスイッチを切って二階の居住スペースへと続く階段を登った。

 リビングにあるテーブルの前には、長い黒髪を垂らした人物がちょこんと座っている。

 竜堂魚月。

 十二歳の姿をしたままの弟がそこにいた。

 魚月は秋人が淹れた煎茶を啜り、お茶請けに出した和菓子を口に運んでいる。

 その所作は上品で無駄がなく、ナツキのようにボロボロと食べカスをこぼしたりはしない。記憶に残る魚月の所作そのものだった。

「兄様、これ」

 魚月は饅頭の包み紙を指でつまみあげ、秋人の方に向けて掲げた。

 捨てておけ、という意味だ。

 秋人は、自然な動作でそれを受け取り、ゴミ箱へと運んだ。

 身体に染みついている動作だった。

 混乱してしまっている頭の中とは裏腹に、身体は古い記憶に従ってスムーズに動いた。

「けっこう小さい部屋に住んでるんだね。これなら、あの石蔵とそんなに変わらないんじゃない?」

 部屋の中を見渡して、魚月はそう言った。

 さらり、と黒髪が揺れている。

 白い首筋の細さが覗いた。

「……家賃はかなりマけてもらっているんだ。部屋の文句は言えない」

 そう言って秋人は魚月の正面に座った。

 真正面をじっと見つめる。

「やだな、そんなに見つめないでよ」

 頬を赤らめ、魚月は顔を逸らした。

 手で口元を隠す、その所作が艶かしい。

「……どうしてだ」

 床の上に正座をした秋人が問う。

「え?」

「どうしてお前は……その姿でここにいる」

 四年前のあの日、竜堂魚月は死に瀕した。

 冷たくなりかけた身体を前にして、秋人は「願いを叶える腕」の力に縋った。

 その結果、竜堂魚月の身体には「願いを叶える腕」そのものの人格が宿り、ナツキと名乗って今でもあの身体を守り続けている……その筈だ。

 この四年間、秋人はナツキと共に暮らしてきた。その身体は間違いなく魚月のもので、時と共に少しずつ成長していた。今ここに、四年前の姿のまま魚月が存在している事とは辻褄が合わない。

「……兄様はね、騙されてるんだよ」

 魚月、と名乗る少女はため息をつきながら秋人を見つめた。その視線には、憐れみが滲んでいる。

「得体の知れない薬売りの女。得体の知れない腕の化け物。そんな奴らと何年も一緒に過ごして、何にもわからなくなっちゃったんだね、可哀想に」

 魚月は立ち上がり、秋人の頬に手を伸ばした。冷たい指がそっと触れ、肌の上をつつ、と撫ぜる。

「あの時、私の意識は暗い場所に送られた。無理やり弾き出されたんだよ。そうやってあいつらは、まんまと私の身体を手に入れた」

 魚月の腕は、秋人の首元へと伸びた。首に締めている紺色のネクタイをそっと掌に乗せ、それを裏返す。ネクタイの裏地には、一枚の鱗が縫い付けられている。

 月鱗。ナツキが生み出す異能の欠片。

「私の力。竜堂の力。肉体に付随した古の一族の力。全ては、それを奪い取るために仕組まれたことだったんだよ」

 魚月はネクタイに縫い付けられていた月鱗を毟り取り、それを自分の目の前に掲げた。

 目を細め、光に透かすように眺めている。

「……仕組まれた? 誰が仕組んだっていうんだよ、あんなこと」

 秋人の脳裏にあの日見た凄惨な光景が浮かぶ。

 正気を失った使用人達。獣のように涎を垂らしながら自分に牙を剥いた、義兄の不由彦。

「本当に兄様は鈍いね。あの後、私の身体を奪った化け物を兄様ごと自分の手中に収めたのは誰? 竜堂家の事情に詳しくて、あの日あの屋敷にいたのは誰?」

 秋人は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 そんな人物は、一人しかいない。

「……藍那さんの仕業だっていうのか?」

 秋人が問うと、魚月はコクリと頷いた。

「……信じられないって顔をしているね」

 その場にしゃがみ込んだ魚月が、上目を遣って秋人の顔を覗き込んでくる。

 秋人は表情を顰めて、自らの眉間を指で強く抑え込んだ。

 あの日、藍那は秋人に助力してくれた。

 死に瀕した魚月の命を救うために、あの「願いを叶える腕」を差し出してくれた。

 その後もこうして、住む場所と働く場所を提供してくれている。

 秋人は、藍那に恩義を感じている。

 しかし、それが初めから全て仕組まれていたことだったとしたら。

「ねぇ、兄様はあの女のことをどれくらい知ってるのかな。変だと思ったことはない?」

「……藍那さんが、普通とは違うってことぐらい分かっている」

 四年も一緒に働いていたのだ。

 日々の暮らしと業務の中で、鈍いと言われる秋人でも気付く事はあった。

 店舗に残っている帳簿や、取り引きの記録を調べれば分かる。

 保存されているデータを見る限りでも、藍那はもう随分と前から商売を続けていることが明らかだった。お得意先としている商売の相手も老齢に達している場合が多い。

 お得意先とされる彼らは皆、藍那の存在を「そういうもの」として受け入れていた。

 けれど、その年月を数字として捉えてみれば計算が合わないことは明白だ。

 秋人は気が付いていた。

 藍那は歳を取らない。

 それは、見た目が若々しくて年相応に見えない、というレベルの話ではない。

 何十年、もしかしたらそれよりもずっと前から藍那はあの姿のままで生き続けている。

 人間なのか。

 或いは、別の何か。

 だとしても、秋人にとって藍那は恩人で、その事実に変わりはなかった。

 普通の人間ではないという意味では、竜堂の血を引く自分も同じだ。秋人は、そう考えていた。

「それは藍那さんを疑う理由にはならないよ。……正直、僕はどちらかといえばお前の方が疑わしい」

 秋人は魚月を睨め付けた。

 四年前と変わらない容姿。

 ここに存在しないはずの肉体。

 つい部屋まで招き入れてしまったが、怪しむべきは目の前にいるこの存在だ。

 姿形は確かに魚月だが、秋人の目がまやかしの類で眩まされている可能性もある。

 だとしたら、かなりまずい。

 そうやって警戒を強める秋人に対し、魚月は大きくため息をついた。

 やれやれ、という様子で首を振る。

「そうやって人を疑う事を知っているんだったら、もっと初めから自分の周りに気を配っていて欲しかったね。兄様はいっつも隙だらけなんだから」

「……なんだと?」

「騙されやすい、って言ってるの。私が石蔵の入り口に虫のオモチャを仕掛けた時も、物凄い声で悲鳴をあげてたし」

 その光景を思い出したのか、魚月はクスリと笑った。

「あ、あれは、おもちゃの造形がリアルだったからだ!」

「吐血したフリして隠してたケチャップをぶちまけた時も、気付かずに慌てて飛び出していったよね。医者を呼んだところで部屋の中には入れられないのにさ」

「咳をした後にその辺が真っ赤になったら、誰だって驚くだろ! あの頃はまだ、僕だって子供だったんだぞ!」

 声を荒げる秋人の様子を見て、魚月はケラケラと笑った。

 子供の頃から、魚月は兄である秋人をからかう事を楽しみにしていた。

 話したエピソードは、その時のものだ。魚月と自分しか知らないはずの思い出である。

 秋人はハッとした。

「……わかってくれたかな、兄様。私が、紛れもなくあなたの魚月だってこと」

 そう言って微笑んだ魚月は、再度、秋人の正面に腰を下ろした。

 煎茶を啜り、ゆっくりと一息をつく。

 秋人は、その姿を見つめている。

「……で、兄様に頼みたい事があるんだ」

 コトリ、とテーブルに湯呑みをおいた魚月は、懐から包みを取り出した。

 藤色の上等な布に包まれたそれは、円形の塊で、掌ほどの大きさだった。

「なんだよ、これ」

「包みをあけてもいいよ。多分、見覚えがある代物なんじゃないかな」

 秋人はテーブルに置かれたその包みを、自分の方に引き寄せた。

 サラリとした手触りの布の結び目を解くと、包まれていたものが露わになった。

 そこには金属のリングがあった。

「これは……」

 魚月の言う通り、秋人にはそのリングに見覚えがあった。

 あの日、藍那から渡された「願いを叶える腕」。その手首の部分に嵌められていた腕輪によく似ている。

 現在、その腕輪は、ナツキと名乗る存在の手首に嵌められている。

 「腕」の持つ強い異能を封じる為の道具だと、藍那から聞いた事があった。

「ン・カイの腕輪、と呼ばれるものだよ。異能を封じ込めるアーティファクトのひとつ。探し出すの、大変だったんだから」

「これを、僕にどうしろと?」

「決まってるじゃない。アレを封じ込めるんだよ。今も私の身体を占有してる、あの気味の悪い存在を」

 魚月は、苦虫を噛むような表情を浮かべた。嫌悪感を隠すつもりはないらしい。

 魚月は、ナツキを封じたいのだ。

「願いを叶える腕」に宿っていた人格。

 この四年の間、秋人と行動を共にしてきた存在である。

「アレの人格が身体を占有しているから、今の私はどうやっても入り込む事ができない。『腕』が肉体と完全に同化しているから、無理に引き剥がす事は出来ないし。だから、封印するの。人格さえあちら側に封じ込められれば、私は自分の身体に戻れる」

「……僕にそれをやれっていうのか?」

「そうだよ。兄様が相手だったら、アレだって油断するでしょう。都合よく、あの女も出かけたみたいだし」

 そう言って魚月は、お茶請けの和菓子をひとかけら、口に含んだ。

 目の前には、確かに実体を持った魚月が存在している。

 秋人には、ずっと気になっていることがあった。

 意を決し、尋ねてみる。

「この腕輪を使えば身体に戻れる、って言ったけど……じゃあ、ここに座っているお前は何なんだよ。本当の身体に戻りたいっていうのなら、今こうして菓子を食っているのは、いったい誰の身体なんだ?」

 秋人の問いに、魚月はクスリと微笑んだ。

「やっぱり気になるよね。大丈夫、ちゃんと本人には了解を取っているから。こうやって兄様と話すために、少しだけ身体を借りたんだ」

 魚月は左腕を顔の前に掲げ、感触を確かめるように何度か手を握った。

「やっぱり同じ竜堂の血が流れている身体はよく馴染むね。顔もよく似ているし。力の程は私の足元にも及ばないけれど、少しの異能も持っているみたい」

 その手を見つめる魚月の顔に、秋人はもう一度目を凝らした。

 確かに、あの頃の魚月の姿に近い。けれど近づいてつぶさに見てみれば、よく似た別の人間の顔をしている事がわかった。

 所作や口調があまりに過去の魚月そのものであったから、秋人の目も思い込みによる錯覚を起こしていたのだ。

 その顔には、秋人にも見覚えがあった。ほんの子供であった四年前からは成長しているようだが、間違いない。

「……それは、遥香さんの身体なのか」

 魚月は小さく頷いた。

 竜堂遥香は戸籍上は魚月の妹にあたる、竜堂の血を引く人間である。

 竜堂家が壊滅したあの日の後、生き残った使用人の一人に引き取られ、どこかの街で生活していると聞いていた。

 あの事件と時を同じくしてその身体に月鱗を発現させたものの、力が微弱で日常生活にも支障が無かった為、一般社会での生活が可能だったのだ。

 屋敷で暮らしていた時、秋人と遥香に接する機会はなかった。

 引き取られた先で幸せに暮らしているのなら、こちらからわざわざ接触するべきではないだろう、と秋人は考えていたのだ。

 だから、こんな形で再会することになるとは夢にも思っていなかった。

「協力してくれるよね、兄様?」

 遥香の肉体に入り込んだ魚月は、秋人に向けて妖艶な笑みを浮かべた。子供らしい無邪気さは、そこに一欠片も残っていなかった。

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