第四章「二つの月」⑤

 駅前で真夜と解散したナツキは、すぐ家に帰る気分にはなれなかった。

 真夜にはああ言われたものの、まだなんとなく消化しきれない気持ちがあったからだ。

 当てもなくブラブラと気の向くままに歩いていると、見覚えのある道に出た。

 住宅街の一角。その中に、どことなく浮いた雰囲気の古ぼけたアパートがある。

 そこには同じ高校に通う、柄井ついり、という名前の生徒が住んでいた部屋があった。

 今は空き家になってしまっているその部屋を、ナツキはぼんやりと眺めた。

 ある事件以来、柄井ついりはまだ眠ったまま目覚めていない。

 今は藍那の手配でどこかの病院に入院しているらしいのだが、その場所はナツキには知らされていなかった。

 ナツキは、今でもふとした瞬間についりの事を思い返す。自信なさげに背中を丸めて話していた様子。俯きながら涙を流していた表情。灰色の靄に身体を乗っ取られそうになりながら、ナツキを案じて身体を突き飛ばしたあの瞬間、視線が交差した時の瞳の揺らぎ。

 彼女の意識を取り戻す事は、ナツキには出来ない。それはナツキの能力の領分を超えている事だし、今は藍那が手配した専門家が全力を尽くしてくれているはずだ。

 自分にできるような事は無いとはいえ、ナツキはついりを思わずにはいられなかった。

 ついりは確かに誘惑に乗り、間違いをおかした。その結果、複数の人間が被害を受けていることも事実だ。

 けれど、ついりを利用した事件の元凶は、ナツキを狙ってこの街に現れた。元々の目的はナツキなのだ。ついり自身も、それに巻き込まれた被害者の一人に過ぎない。

 あれは一体何だったのか。

 ついりを操ってナツキに近づいた、灰色の靄のような思念の集合体。

 ナツキは自分の左腕をさすり、考えを巡らせる。

 あの時、左腕の門を開いて灰色の靄を飲み込んだ。

 けれど、飲み込めた靄はあの存在の全てでは無いと思えてならない。

 おそらく、あれはまたナツキの身体を狙って来る。

 正確にはナツキの宿主である竜堂魚月の身体に眠る、強力無比な異能を狙って。

 ナツキは、ギュッと拳を握りしめた。

 なんとしてもこの身体を守り抜かなくてはならない。

 それは秋人と契約の為でもあるし、他ならぬナツキ自身の為でもある。

(こっちだって、そう簡単に消えるわけにはいかねえんだよ)

 アスファルトの道の上に、ナツキ自身の影が長く伸びていた。

 日が傾き始めている。いつのまにか随分と時間が経過していたようだった。

 そろそろ、家に帰らなくては。

 そう思って踵を返したナツキの視界に、一人の男の影があった。

 十メートルほど先、太陽が沈んでいく方向に長身の男が俯きながら立ちすくんでいる。

 夕陽の逆光で、その表情を伺う事はできない。男はゆっくりと片腕を肩の高さまで上げ、ナツキの方に腕を伸ばした。

 そのまま、こちらに歩いてくる。

 ナツキは警戒して身構えた。

 異能が近づいてくるような気配は感じない。そういった類のものでは無いようだが、明らかに様子がおかしかった。

 長い間着替えていないような、ズタボロの服。伸びっぱなしの無造作な髪と髭。

 男が近づいて来るにつれて、その顔の造作が明らかになる。

 ナツキは、ハッと息を飲んだ。

 左眼が、潰されている。

 長い髪で隠すようにはしていたが、男の左眼があるはずの場所には、真っ暗な眼窩が闇のように佇んでいた。

 傷は新しいものではなさそうだが、まともな手当を施さなかったのか、所々に膿んでいる様子もある。

 ぷん、と獣のような体臭が鼻腔を突いた。

 より警戒を強めたナツキに向け、その男は辿々しく言葉を発した。

「……な、なつき……なのか?」

 喉に引っかかるような声だった。数年ぶりに言葉を発しているかのような。

「……俺は、あんたなんか知らねえぜ。用があるんだったら、テメェから名乗りな!」

 身体の前で拳を構えたまま、ナツキはドスを効かせるようにして言葉を発した。

 男はビクッと身体を震わせ、顔を覆っていた脂っぽい髪をかき分けた。

 潰れていない方の目が、ナツキの姿をしっかりと見とめた。その目には、意外にもしっかりとした光があった。

「……私は、竜堂。竜堂不由彦だ」

 男はそう名乗り、ナツキを見つめた。

「……竜堂?」

 その名を聞きナツキは腕の構えを解いた。

 夜闇の訪れる前、黄昏の中で二人は互いの姿を見つめあっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る