第四章「二つの月」⑧

 気がつくと、ナツキは深い闇の中を漂っていた。

 轟々と唸る風が、一方向に向けて強く吹き込んでいる。その風が吹く先がこの黒い入り江の最深部である事をナツキは知っていた。

(……また、ここか)

 ナツキ、という仮の名を与えられる以前。「願いを叶える腕」と呼ばれていた頃、ナツキの意識は、長い間この場所にあった。

 ン・カイの世界、と誰かが呼ぶこの場所は、地表から遠く離れた地下の奥深くに存在している。光が射さないこの世界では、己の姿形は何の意味を持たなかった。

 実体を持たないナツキは、気の遠くなるような長い時間をこの闇と同化するようにして自我を眠らせてきた。

 現世において「願いを叶える腕」と呼ばれていた物質は、ン・カイの地下世界と、地表の世界をつなげる門の一つに過ぎない。

 ナツキはその門番の役割を与えられた、意識を持った門そのものだった。

 腕輪を用いて封印していた左腕の「顎門」は、このン・カイの世界に繋がっている。

 ナツキが「顎門」を開いて「異能」を食すのは、この世界の奥底で微睡む存在にそれを捧げるためだ。

 捧げられた報酬に応じて恩寵を与える邪神。誰に、どんな恩寵を与えるかは、全て彼の匙加減ひとつで決まってしまう。

(……まだ、眠っているみたいだな)

 闇の中で轟々と唸っている強風は、眠っている彼の「いびき」の余波だだった。

 もし彼が目覚めている時にこの世界に送られたら、捧げ物と認識されて、食べられてしまう可能性も十分にあった。

 そういう意味では運が良かったのだろう。

 しかし、だ。

(門そのものを封じられちゃ、手の出しようがねぇ)

 封印された時、ナツキの左腕には二つの腕輪がかけられていた。その見た目はよく似ていたが、厳密には効果が異なっている。

 内側からかける鍵と、外側からかける閂のような違いだ。

 普段から嵌めていた「阿」の腕輪は、装着しているナツキの意志で自由に取り外す事が出来た。いわば安全装置のようなもので、門を開け放したままにしないよう、制御する事を目的としている。

 しかし、秋人が持ってきた「吽」の腕輪は外側から強引な力で門を使えなくするものだった。

 ナツキの意識がこの場所に封じられたのも、それが理由だ。

 もちろん、この封印を内側から開閉することは出来ない。

(さて、どーするかな……)

 腕組みをして考えようとしたナツキは、その違和感に気付いて苦笑した。

 身体がないのだ。

 当然、両腕もないのだから、腕組みのしようがない。苦笑いすら、意識の中でイメージされたもので、実際に顔のパーツが動いた訳ではなかった。

(身体を持ったのって、いつぶりの事だったんだろうな)

 四年間、魚月の身体に入っていたことで、随分とその感覚に慣れてしまっていたようだった。

こうやって闇に漂っていた時間の方が圧倒的に長かったはずなのに

不思議な気分だった。

 今や、こうして曖昧な状態でいることに、不安すら感じている。

 本来の在り方に戻っただけなのに。

 ナツキが命を持った「人間」だったのは、もう何百年も前の話だ。

 久しぶりに実体を持って現世にあらわれたナツキにとって、肉体を通して与えられる五感は、あまりに鮮やかな刺激だった。

 目に見える景色、肌に感じる風、鼻腔をくすぐる匂い、耳に入ってくる音、多種多様な食べ物の味わい。

 そして何より、そこでナツキは一人ではなかった。孤独な永遠の闇の中とは違い、話しかければ答えてくれる人がいた。

 学校の友達。商店街の人々。同じ屋根の下で暮らした藍那と秋人。

 現世で生活する日々は、ナツキにとっていつのまにか己の役割を超えてでも守りたいものになっていた。

 「腕」に込められた願いを叶えるため、ナツキは魚月の身体へと遣わされた。

 それは、このン・カイの入り江で微睡んでいる「彼」の気紛れだったのかもしれない。

 現世におけるナツキの役目は「対価」を捧げた秋人に与えられた恩寵そのものだ。

 秋人は契約の際に「魚月が笑って生きていける」世界を望んだ。

 その願いは、未だ果たされていない。

 まだ、諦めることは出来ない。

 契約の為だけではなく、ナツキ自身が欲しているものの為にも。

(ったく。アニキの馬鹿野郎が)

 ナツキが封印される寸前に、一人の少女が秋人の後ろに姿を現した。

 小さな身体の周囲に、ドス黒い靄が漂っていた。ナツキはその靄に心当たりがあった。

 あの気配と、直面したことがある。

 数ヶ月前、柄井ついりという女子生徒が、吹奏楽部の部員を眠りの病に陥らせる事件があった。その裏には、ついりを操っていた存在がいた。

 あの靄からは、それと同じ気配がした。

 何人かの意識が統合して力を持った、憎しみに満ちた思念体。

 ヤツの狙いは、魚月の肉体が持つ力だ。

 今回対峙したあのドス黒い靄は、その本体と判断して間違いないだろう。

 不由彦を支配し続けてきたのも、ヤツだ。

 秋人もその毒牙にかけられたと見て、まず間違いない。

(バケモノ、か……)

 秋人の口から、自らに向けて発された言葉が、ナツキの中で渦巻いていた。

 人間ではない。

 生物ですらない自分は、現代を生きる人間達からしてみれば、確かに化け物だ。

 けれど。

(つい忘れちまってたな、自分の事)

 借り物の身体とはいえ、「ナツキ」として過ごした日々は、人外の化生である事実を随分と紛らわせた。

 そう、楽しかったのだ。

 人として認められ過ごす日々は、ただただ楽しかった。

(……ちっとキツいぜ、アニキ)

 バケモノ。

 拒絶の言葉。

 相棒として過ごした四年の月日すら、あっさりと断ち切るような。

 いや、実際そうなのかもしれない。

 例えあの靄が秋人を唆さなかったとしても、本当の身体の持ち主である「魚月」さえ戻れば、仮住まいのお守りである自分は用無しだ。

 そもそも「ナツキ」とは、秋人の願いに応じて「魚月」を守るために遣わされた、仮初めの存在に過ぎないのだから。

 漆黒の闇に満ちた地下世界。

 自らと世界の間に明確な境界すら持てないナツキは、寄る辺ない気持ちを抱いたまま、なすすべなく闇間を漂っていた。

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