第三章「穿山甲」⑯
その声が暗闇の中に消えていくのを聴きながら、秋人は這いずるようにして石蔵の奥で横たわる魚月の側に近寄った。
「おい……魚月」
呼びかけてみるが、反応がない。
瞼は固く閉じられたままだ。
秋人は、布団の上に投げ出されている魚月の手を取った。
「僕だ……秋人だ。なんとか言えよ」
その手は、驚くほど冷たかった。
ほとんど裸の状態で転がされていた魚月の身体の上に、散らばっていた着物をかける。
ろくに動かない血塗れの腕で、肌をさすり、なんとか身体を温めようとする。
けれど、その温度は下がり続ける一方だ。
「……いつもみたいに、文句を言えよ。僕をこきつかえよ」
ぽた、と魚月の頬に水滴が落ちた。
それは秋人の眼から溢れたものだった。
次々と落ちる涙が白い頬を伝った。
「頼むから、目を覚ましてくれよっ……」
その呼びかけに応える声は無い。
いつのまにか、雨音は止んでいた。
屋敷中がしん、と静まりかえっている。
周囲に満ちていた『月鱗』の匂いは雨に流れて、もう随分と薄まっていた。
じゃり、と土を踏む音がした。
秋人が涙も拭かずに顔を上げると、そこには藍那が立っていた。憂いを帯びた視線は、いまだ目を覚まさない魚月に注がれている。
「その子が……魚月ちゃん?」
藍那の問いに、秋人はコクリと頷く。
「……そう」
藍那は膝立ちになり、秋人と視線の高さを合わせた。背負っていたザックを床に下ろし、その中から箱をひとつ取り出す。
「秋人君……君に覚悟はある?」
藍那は、その細長い箱の蓋を開けた。
そこには、古い包帯で包まれた何かの物体が入っていた。少し窪んだ箇所に、金属の輪がはめてある。そのシルエットは、人間の腕に似ていた。
「その子を助けたい。その願いの為に、全てを捧げる覚悟がある?」
藍那は秋人の眼を見つめている。その瞳に、偽りの色は無い。
「望んだ通りの形になるとは限らない。代償に何を奪われるか分からない。それでもこの『手』に願えば、確かにその子の命は保たれる」
秋人は、箱の中身と、目を閉じたままの魚月の姿を交互に見た。固く握った魚月の掌は、もう石のように冷たくなっている。
「君になら、後払いで売り渡してもいい。その価値があると私は判断した。後は君次第だ。君は呪われた力を持つこの子をどうしたい?」
箱を持つ藍那の手首が、血で濡れた手にグッと掴まれた。秋人はそれを引き寄せる。
「どんな条件でもいい……何を奪われてもいい。大切な、家族なんだ。魚月が笑って生きていけるのなら……僕はそれを選びます!」
秋人の手が、箱の中身に触れた。
その瞬間、シュルリ、と布が擦れる音がした。見ると、全体に巻かれていた古い包帯がひとりでに解けていく。
藍那は中身が空になった箱を回収した。残された腕は、空中に浮かびながら回転している。施されていた封印が解けたのだ。その姿があらわになっていく。
そこには木乃伊のように乾いた細腕があった。中指の先から肘に至るまで、中心から両断されたようにパックリと割れている。
カラカラに乾いたその腕は、ゆっくりと動いて魚月の肉体に重なった。冷たい白い肌に、音もなく沈んでいく。
パサっと音がして、包帯が地面に落ちた。
藍那はそれを拾い上げた。
「……どうやらうまくいったみたいだね」
ふと気づくと、魚月の腕に金属製の腕輪が嵌められていた。腕の木乃伊が、手首につけていたものだ。
秋人は、魚月の頬に触れ、呼びかけた。
「魚月ッ……おい、魚月ッ!」
ピク、と瞼が動く。
握っていた掌は、いつのまにか人肌に暖かくなっている。
固く閉じられていた眼が、ゆっくりと開かれた。その瞳はぼんやりと秋人を見つめた。
「ん…………あれ?」
声が聴こえた瞬間、秋人は横たわったその細い身体を抱きしめていた。
自身の怪我の痛みも厭わず、力を込める。
「魚月ッ……よかった、本当に……」
抱きすくめられた美しい少年は、状況を受け止めきれていないのか、ポリポリと頭を掻いて不思議そうな顔をした。
そして、秋人の後ろで彼を見ている藍那の姿に気がついた。
「……なるほど、ね」
合点がいったという様子で、少年は泣きながら自分を抱きしめる秋人の頭をぽんぽんと叩いた。
「ナツキ……。それが今度の俺の名前か」
その違和感に、秋人は気付いた。
喋り方が、まるで違う。
身に纏う雰囲気も、秋人を見つめる目も。
「悪いなぁ。俺は、あんたの大切な人じゃねえ。でも、貰えるものさえ貰えれば、きっちりこの身体を守らせてもらうぜ」
秋人は、藍那の方をバッと振り向いた。
「……望んだ通りの形になるとは限らない」
ぽつり、と藍那は呟いた。
「そ、そんな……」
その表情に絶望を滲ませた秋人は、立ちあがろうとしてフラリと身体を倒した。
大量の出血と精神的なショックで、身体に限界が来ていたのだ。地面にぶつかりそうになったその身体を、細い腕が支えた。
ナツキが、秋人を抱きかかえていた。
「これからよろしくな、アニキ」
ニッ、と笑うその姿を見て、秋人の意識は遠くなっていった。
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