第三章「穿山甲」⑮

 開け放たれた扉の前に立ち、秋人はその目を凝らした。

 暗い石蔵の中で、人影が動いている。

 その影が、魚月一人のものではない事に秋人は気がついた。

 他の誰かが、そこにいる。

 周囲には魚月の匂いが満ちていた。秋人ですら身体の奥が熱くなるような匂いだった。

(常人なら、正気でいられる筈がない……)

 身構えつつ、石蔵の中に足を踏み入れた。

 薄暗闇の中で、魚月の白い手足が上下している。それを組み伏せるようにして男の影が覆いかぶさっていた。獣のような荒い息を吐いているのは、秋人の見知った人物だった。

「不由彦、さん……?」

 名を呼ばれて振り向いた次期当主の顔は、常軌を逸していた。獣のように、発情している。『月鱗』へと耐性があるはずなのに。

 四つん這いの身体の下に、虚な目をした魚月の姿があった。まだ柔らかい『月鱗』を無理に剥がされたのか、下半身が鮮血に塗れている。力なく、ぐったりと垂れ下がった四肢。

 衣服を剥ぎ取られ、剥き出しになった胴体が、唾液と体液でテラテラと濡れていた。

「う、をおおおおお!」

 その瞬間、秋人は地面を蹴って、不由彦の方へと向かっていた。

 獣のように唸る不由彦に振り払われそうになるが、無我夢中でしがみつく。

 後方に倒れ込むようにして体重をかけ、力ずくで魚月から不由彦を引き剥がした。

 無理に力を込めたせいか、手当をしたばかりの肩に鈍い痛みが走った。

 投げ飛ばされた不由彦は、すぐさま身体を翻し、四肢を床に突き立てた。四つん這いになり、歯を剥き出して秋人を威嚇する。

 理性の欠片も残っていない。あんなに、理知的だった人が。

 秋人は、密かに不由彦に憧れていた。

 冷静に的確な判断を下すその姿が、秋人の理想だった。ああなりたいと思っていた。

 それなのに。

 四肢の筋肉を収縮させ、不由彦はこちらに突進してきた。秋人は咄嗟に腕を交差させ、防御の姿勢を取る。

 瞬間、秋人の眼前に不由彦が顔を寄せた。

 その表情は狂喜に満ちている。

 刹那、強い衝撃が襲った。

 秋人の意識が宙に舞った。

 全身が強く打ち付けられる。

「ガハッ……!」

 防御諸共、突き飛ばされたのだ。

 背中から石壁に叩きつけられ、秋人は胸に強い痛みを感じた。口内に、鉄っぽい味の生暖かい液体が溢れる。

 立ち上がろうとした秋人の肩を、不由彦の腕が押さえ付けた。その爪はひどく鋭利に変容している。はち切れそうな程に膨らんだ血管が、どくどくと脈打つのが見えた。

 もはや、人間の膂力ではない。

 秋人の片腕は、物凄い力で押さえ付けられていて動かなかった。

 ジタバタと足掻いてみたがビクともしない。その太腿に不由彦が膝を突き立てた。

「ぐあああッ!」

 その強烈な痛みに秋人は悶えた。身動きの一つも取ることができない。

 秋人の上に覆いかぶさる体勢になった不由彦は、片手の指をギュッと鋭く尖らせた。その爪が光る。急所を突かれればひとたまりもない。

 動く右腕で、秋人は踠いた。

 何か、何かないのか!

 床の上に手を伸ばし、武器になるような物を探す。

 指の先に、冷たくて硬い何かが触れた。

 そこに『月鱗』を剥がす時に使う道具が散らばっていた。秋人がぶつかった衝撃で道具箱が落ちていたのだ。

 秋人は咄嗟にそれを掴み、渾身の力を込めて不由彦のこめかみを打ち付けた。

 右手首に強い衝撃が走る。

 ぎゃんっ、という不由彦の声が聞こえた。

 それと同時に、押さえ込む力が弱まった。

 一瞬の隙を見逃さず、秋人は身体中に力を込めた。怪我の痛みに目を眩ませつつ、覆いかぶさっていた相手をぐんと押し飛ばす。

 不由彦が、身体から離れた。

 秋人はなんとか上体を起こす。

 しかし、うまく立ち上がる事が出来ない。

 膝に力が入らないのだ。

 目の前の不由彦が、泡を吐きながら、怒気のこもった咆哮をあげた。

 来る。

 手に持った道具を強く握りしめる。

 不由彦が地面を蹴った。

 秋人は、身体の前に腕を構えた。

 ビュッ、と空間を穿つように突き出された手の爪が秋人の肩を抉る。

 焼けるような痛みが、半身に走った。

「ぎゃああああああああああああ!」

 断末魔のような叫びが上がった。

 ぶしゅ、と血液が噴き出る。

 秋人の腕がダラリと力なく下がった。

 その表面は血に塗れている。

 肩からの出血と、目の前で叫び声を上げる不由彦の血、その両方で赤く染まっていた。

 天に向けて咆哮する不由彦の片方の目に、金属の工具が深々と突き刺さっている。

 先程、秋人が拾い上げたペンチだ。

 怒りに身を任せて突進してくる不由彦の正面に、秋人はペンチの柄を構えていた。

 人間離れした加速で飛び込んできた不由彦の眼球を、それで突き破ったのだ。

 衝撃の反動で、秋人の肩と手首の関節も深いダメージを負っていた。

 まともには動けない。

 頼むから、もう向かってきてくれるな。

 秋人は、不由彦を見上げた。

 血塗れの顔に残された一つの眼球が、これ以上なく見開かれていた。

 その目は、秋人を捉えていた。

 視線が交差する。

 その瞳の光が、少し揺らいだような気がした。

 不由彦は、扉の方へと後ずさった。

「あ……うあ……」

 両手で頭を抱え、イヤイヤと首を振る。

「う、わ、ああああああ!」

 そして、甲高い叫び声を上げた。

 次の瞬間、不由彦は高く跳躍し、石蔵から飛び出して行った。

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