第三章「穿山甲」⑦

 竜堂秋人は両手でお盆を持ち、石蔵へと続く道を歩いていた。

 毎朝、水垢離をして身を清めてから、こうやって食事を届けている。

 雑穀米に汁物。焼き鮭、卵焼きに焼き海苔と漬け物。その他にも酢の物や、青菜の白和えなど、栄養バランスを考慮された多種多様なおかずが、盆の上には並んでいる。

 豪勢な品揃えなのだが、用意されていたその食事を見て、秋人は少し肩を落とした。

 石蔵の中にいる人物は、最近「フレンチトースト」をご所望だからだ。炊事係の方には伝えていたのだが、そこにあったのはお手本のような和食のメニューだった。

 山奥にある家だし、材料の都合もあるだろう。急な注文は難しい事ぐらい理解している。だが、これで八つ当たりを受けるのは自分なのだから、ため息も吐きたくなるものだ。

 石蔵の前にたどり着く。金属の扉の取っ手をカンカン、と打ち付けてノックの代わりにする。

 周囲に人がいないことを確認して、秋人は扉を開いた。『月鱗』に耐性を持たない人間が周囲に居れば、僅かに漏れた空気を吸うだけでも影響を及ぼしかねないからだ。

 石蔵の内側は冷んやりとしていた。

 高い位置にある天窓から朝陽が差し込んでいる。その細い光では部屋の中を照らしきれおらず、少し薄暗い。

 土間に足を踏み入れると、花のような芳香が鼻をついた。グッと腹に力を込める。その匂いは『月鱗』の持つ成分と同じ、人の心を色に狂わせるものだ。身体に耐性があるとはいえ、秋人は気を強く保つ必要があった。

 土間の先には、膝の高さほどの上り框があり、その上、十畳ほどの広さに青い畳が敷かれている。

 秋人は食事が乗ったお盆をそこに置いた。

「……朝だぞ」

 布団の上で丸まっている人物に声をかける。それはモゾモゾと動きながら、眠たそうな声で唸った。

 薄い掛け布団の下から子供が顔を出した。

 消え入りそうに白い肌をした子供だった。

 身に纏った鮮やかな朱色の襦袢が、その儚さを事更に引き立たせている。

 長い黒髪は艶やかで、滑るようにサラサラと揺れていた。

 黒曜石のように深い瞳を持つ大きな目が、土間に立つ秋人の姿をとらえる。

 紅をさしたように鮮やかな唇が動き、微笑みと共に言葉を発した。

「おはよう、兄様。今日も最低な朝だね」

 竜堂家における当代の『苗床』。

『月鱗』を生む身体を持つ、異能。

 竜堂魚月がそこに居た。

 気怠げに身体を引き摺り、秋人のいる土間の方へ近寄ってくる。

 襦袢の裾が捲れ、白い太ももが露わになった。ぶわ、と甘い芳香が強くなる。

 その太ももの内側には、虹色に光る鱗が生えている。『月鱗』である。誘惑の香りが強くなったのは、それが露出したからだった。

「……着物の裾を直してくれ」

 秋人がそう言うと、魚月は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「別にいいじゃない。ここには、私と兄様しかいないんだから」

 十二歳の少年とは思えない妖艶な仕草で、魚月は自分の唇を指でなぞった。

 『月鱗』の影響なのか、魚月はそれを楽しむような様子で、秋人を誘惑するような素振りを見せた。誰が教えた訳でもないのに、蠱惑的な仕草を身につけているのだ。

 秋人は毎度のようにそれを諌めるのだが、魚月は聞こうとしなかった。むしろ、そうして秋人が狼狽えているのを、楽しむような節さえあった。

「……何これ。私、こんなの頼んでない」 

 盆に乗った朝食を見て、魚月は露骨に不機嫌な様子を見せた。

 お手本のような和食の御膳。魚月が望んでいたフレンチトーストではないからだ。

「しょうがないだろう。厨房の方にも、色々と都合があるんだから。言ってすぐ出てくるようなもんじゃないだ」

「はぁ? もう三日前から言ってるんだけど。外の奴等の事情なんか知らないよ」

 魚月は畳に座ったまま、上目を遣って秋人を睨め付けた。

「……わかった。もう一度、頼んでみるから、今日のところはこれで勘弁してくれ」

「……兄様っていつもそうだね。誰かに頭を下げて、ものを頼んでばーっかり」

 魚月は座敷の上から素足を伸ばし、土間に立つ秋人の腰の辺りを、足の裏でぐりぐりと押した。

「ほんと、役立たず」

 嗜虐の笑みを浮かべて、そう言い放つ。

 秋人は表情を変えず、そこに立ち続けた。

「骨、外して」

 気がすむまで秋人をなじった後、魚月は朝食の焼き鮭を指差した。

 秋人は箸を持ち、言われた通りに皿の上の鮭から骨を全て取り除いていく。

「食べさせて」

 頬杖を突き、魚月はあーんと口を開いた。

 秋人は丁寧に一口分ずつ料理を箸で取り、魚月の舌の上にそれを乗せていった。

 土間に膝をついて奉仕するその姿は、まるで主人を前に跪く召使いのようだった。

 いつ頃からだろうか。

 いつから、こうなったのだろう。

 かつては魚月も、ただの子供だった。

 けれど、この石蔵に押し込まれてから、少しずつ変わっていった。

 兄様、と呼ぶ声に、甘い何かが潜むようになった。幼い頃から姿を知る秋人でさえ、ドキリとするような仕草を見せ始めた。

 生きる媚薬。或いは、淫魔。『月鱗』を身体に持つ者は時に不名誉な呼び方をされる。

 それでも、秋人の記憶の中には、ずっと幼い頃の魚月の姿が残っている。

 家族であることに、変わりはない。

 長い時間をかけ、魚月は食事を平らげた。下げ膳をする秋人の頭の上に、朱色の布がふんわりと覆いかぶさる。

 それは魚月が寝巻きにした襦袢だった。

「ねぇ、兄様。寝汗かいちゃった。気持ち悪いから、身体拭いて」

 肌着のみを身につけた魚月がそう言った。

 秋人は無言で襦袢を手に取り、それを丁寧に畳んだ。魚月の汗が染みたその布は、むせかえるほどに甘い匂いがした。

「今準備するから、座って待っていろ」

「はーい」

 魚月は土間に足を投げ出すようにして座り、作業を進める様子を眺めている。

 秋人は桶に張った水に手拭いをひたした。

 魚月の肌着をまくり、絞った手拭いを押し当てて白い背中を拭いていく。

 手拭いが肌の上を滑るたびに、魚月は小さく吐息を漏らした。静かな石蔵の中で、やけにその吐息がはっきりと聞こえている。

 こまめに手拭いを水で冷やしながら、秋人は首や肩、脇、臍の回りも拭き上げた。やがてそれが太腿の辺りにまで至った時、淀みなく動いていた秋人の手がピタリと止まった。

(また、増えている……)

 魚月の鼠蹊部を目の前にした秋人は、額から脂汗を垂らした。

 夥しい数の『月鱗』が、重なり合うように魚月の肌の上で増殖している。

 昨日剥がしたばかりの箇所にまでもう新しい鱗が出来始めていた。

(しょうがない、やるしかないか……)

 秋人はひとまず鼠蹊部を避け、ふとももに手を当てた。ふくらはぎから足裏にかけて魚月の身体を拭いていく。

 作業をしながら、魚月に話しかける。

「『月鱗』の枚数が増えている。悪いけど、身体を拭き終わったら、また少し剥がすぞ」

 秋人がそういうと、魚月は表情を歪めた。

「……簡単に言うよね。あれ、痛いんだよ」

「それはわかっているけど……このままにしておいたら、まずいだろう」

「まずいって……それ、誰にとってまずいと思っているの? また、例の若旦那様?」

 眉間に皺を寄せ、魚月はそう尋ねる。

 身体を拭く作業に集中していて、その表情に気づいていない秋人は

「そりゃ、お前の身体によくないからだよ」

 と、こともなげに言ってのけた。

 不機嫌そうにしていた魚月は、秋人の言葉を聞いてピクっと頬を反応させた。にやけそうになる口元を隠しきれていない。頬は少しだけ紅潮している。

 日頃どんなにキツく当たられていても、秋人は結局、魚月の事を最優先に考えている。それをわかっているからこそ、魚月は秋人を試さずにいられない。わざと我儘を言い、強くなじって、下僕のように扱っていても、愚直なまでに自分の事を心配してくる。そんな秋人を見ていると、たまらない思いになるのだ。

 魚月はそっぽを向き、

「ふぅん……。だったら、痛くないように丁寧にやってね。兄様には、それぐらいしか取り柄がないんだから」

 と、つんとした声で言い放った。

「はいはい、わかってるよ」

 手拭いを桶の水につけ、秋人はなおざりな返事をした。

「あぁ、それとな」

 顔を上げ、魚月の顔の方を向く。

「本を一冊貸してくれないか?」

 秋人の突然の申し出に、魚月は訝しげな表情を浮かべた。

「……なんで?」

「来客が暇を持て余しているんだと。さっき話しかけられたんだ。どうやら、お前に興味があるらしい」

「興味……ね」

 魚月は、鼻で笑った。それは、嘲るような笑い方だった。

「外の奴等が私に興味を持ってどうするんだろうね。どうせ一生、ここから出すつもりは無いくせに」

「……そういうことは、あまり言うもんじゃない」

 いつの頃からか、魚月は竜堂家の人々を『外の奴等』と言い表すようになった。

 この石蔵の中だけが魚月の世界だ。

 ねだれば欲しいものは取り寄せてもらえる。本でも、服でも。

 でも、けして満たされる事はない。

 天井近くにある天窓に向けて、魚月はよく手を伸ばした。そこには分厚い硝子が嵌め込まれていて、開くことはできない。

 けして届かない。届いたところで、外に繋がっている訳でもない。それでも、魚月は手を伸ばさずにはいられなかった。

 天窓は慰めだ。朝には陽の光が差し込み、夜には月と星がそこに映る。どうだ美しいだろう、と言わんばかりに外の世界を切り取って魚月に見せつけてくる。

「……ほら、これでも読ませてやりなよ」

 魚月は寝床の枕元に乱雑に置かれていた書籍を一冊手に取り、秋人の方に差し出した。

 それはアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』だった。

「ああ、ありがとう」

 秋人は小説を読む方ではない。魚月がその一冊に込めた思いなど知らず、素直にそれを受け取った。

 魚月はフン、と鼻を鳴らす。

「……じゃあ、はじめるぞ」

 会話をしながら、秋人はその手元に金属の道具を用意していた。それは長い期間使い込まれていて、鈍い光を放っていた。

 大きめのペンチにニッパー、ハサミやヘラ、ピンセットもある。

 全て、『月鱗』を剥がす為の道具だった。

「……ホントに、痛くしないでね」

 いつもは尊大な態度ばかりの魚月も、この時ばかりは年相応に怯えた様子を見せた。じっと秋人の方を見つめる。

 秋人は震えている魚月の肩を軽く叩いた。

「大丈夫だ。すぐ終わらせる」

 魚月は小さく頷いた。そして、自ら手拭いを丸めて口に含み、それを奥歯で噛んだ。食いしばった自らの歯で口内を傷つけないためだ。

 数秒後、石蔵に苦悶の声が響き渡った。

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