第三章「穿山甲」⑥

 早朝、藍那はまだ薄暗い庭を歩いていた。

 水路の水がチロチロと流れている。鳥の声がチチチと鳴り、空気を震わせた。

 冷んやりとした大気が肌に触れて気持ちいい。辺りを見渡すと、薄綿のような霧が、ふんわりと積もっている事がわかった。

 最近は街にいる事が多かった。こういうのも悪くはないな、と藍那はひとり思う。

 そのままぶらぶらとうろついていると、薄ぼんやりとした視界の端に人影を捉えた。

 ザザ、と水をかぶるような音も聞こえる。

 中庭にある井戸の方だった。

 何の気なしに歩いていくと、そこでは薄襦袢を着た青年が水垢離をしていた。

 昨日、この中庭で会った青年だった。

「やぁやぁ、精が出るねぇ」

 タイミングを見計らって、藍那は背後から声をかけてみた。

 薄い胴体からは、まだ水が滴っている。振り向いた青年の額には、濡れた前髪がピッタリと張り付いていた。白い指がそれをかき分ける。切れ長の目が藍那を見とめた。

「まだ秋といっても、こんなに朝早いんじゃ、水も冷たいでしょう。寒くない?」

 青年は、井戸の淵にかけられた手拭いを取り、濡れた顔を拭った。

「……必要なことですから」

 発された声は平坦な調子で、やはり感情が読み取りにくい。

 己を押し殺すことに慣れている感じだ、と藍那は思った。

「へぇ……きみ、昨日あの石蔵から出てきたよね。中の子のお世話をしてるの?」

 青年は少し驚いたように目を見開いた。竜堂家の事情は基本的には外部に秘匿されている。来客がそれを知っているとは思わなかったのだろう。青年の表情を見て、

(なんだ、感情あるじゃん)

 と、藍那は思った。

「それが、僕の役目なので」

「なるほどねぇ。だから身を清めているって訳か。そういう所は相変わらずだねぇ」

 式部が当主になってからだいぶマシにはなったが、竜堂家では『月鱗』を持つ存在を、現人神のように扱う風習があった。敬う、と言えば聞こえはいいが、それは相手を人だとは考えない、という事だ。『苗床』のいる石蔵には水垢離で身を清めてから入る、という不文律は昔からのものだった。過去には藍那もこの冷たい水を浴びせられたことがある。

「ねぇ、今あそこにいるのってどんな子?」

 藍那は青年に尋ねてみた。

「どんな子……とは」

 青年は困惑した様子で首を傾げる。

「どういう人間かって事だよ。この家でその子と直接話せるのは君だけだからねぇ。私は知りたいんだ。小さい頃からずっと閉じ込められていた子が、あそこで何を思っているのか」

 かつて藍那は、『苗床』としてそこで暮らした人間達と何度も話をした。彼らは皆、外の世界に思いを馳せていた。しかし、時が経つほどに、その気持ちは憧れから呪いへと変わっていった。心の均衡が崩れていくのだ。

 竜堂家は多くの犠牲を支払う事で存続してきた家だ。発展の影で、一度も外の世界を見ることが叶わなかった人間は一人や二人ではない。

 そのひとりひとりを、藍那は見てきた。

 失われていくものからは、目を逸らさない。そう心に決めていたからだ。

 藍那には、果たすべき目的がある。その道すがら、行く先々で幾つもの理不尽と鉢合わせて来た。その都度に実感するのは無力感だ。藍那にできる事は少ない。

 だから、せめて目を逸らさない。見た全てを忘れない。それは藍那の長い人生の中で、たった一つ定めたルールだった。

「……あいつは、甘い食べ物が好きです」

 青年は、ぽつりと言った。

「……そっか。他には?」

 藍那は続きを促す。

「着物が好きです。日に何度も着替えます」

「へぇ。お洒落なんだね」

「こだわりがあるみたいで、色々と注文が多いです。それから……よく僕をからかって遊びます。小さい頃から、ずっとそうです」

 青年は意外にもよく喋った。

 はじめに受けた朴訥な印象は、彼の務める役割がそう感じさせたのだろう。

 『月鱗』を発現する人間の身体は、そこにあるだけで人の心を狂わせる。世話役を務めるものは、竜堂家の当主と同等、もしくはそれ以上に『月鱗』への耐性を持っている必要がある。この青年もそうだった。

 加えて、彼らは心を平静に保つように訓練をする。『苗床』の肉体が放つ誘惑の香りに抵抗する為である。

 日頃から精神の抑圧を習慣づけているから、一見すると表情に乏しく感じられたのだ。

 この子は本来、もっと人と話したかったのかもしれない。そんなことを藍那は思った。

「それからあいつは、本をよく読みます。まだ十二歳なんですが、学術書なんかも」

「へぇ、すごいねぇ。そうだ、その子に本を貸してもらえるように頼んでもらえないかなぁ。私、二、三日そこの離れに泊まる予定なんだけど、やる事なくて暇なんだよねぇ」

「本を、ですか? ……わかりました、後で聞いておきます」

 実のところ、離れにも母家にも本は幾らか置いてあった。藍那は、彼らと関わる理由を何かしら残しておきたかったのだ。

 本の一冊を貸し借りする。それだけでも何かの縁が生まれるように思えた。

「ありがとう。自己紹介が遅れたねぇ。私は藍那。薬売りだよ」

 藍那がそういうと、青年も思い出したように自分の名を名乗った。

「こちらこそ、名乗るのが遅くなりました。竜堂秋人と申します。本が用意できたら、部屋までお持ちしますので」

 そういって青年は一礼し、ほんの少しだけ微笑んだ。その表情は誰かに似ていた。去っていく秋人の後ろ姿を見送りながら藍那は自らの記憶を辿り、そして思い出した。

 竜堂式部だ。

 彼の若い頃と瓜二つなのだ。

(直系か。どうりで……)

 庭を囲う塀の外側から、朝陽が差し込んできた。辺りはだいぶ明るくなっている。屋敷の中にも人の動く気配があった。

 じきに、朝食に呼ばれるだろう。

 藍那は大きく伸びをして、自分の部屋に向けて歩きだした。

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