第三章「穿山甲」⑤

 竜堂不由彦は母家から離れた一室にいた。

 ライトグレーの背広を脱ぎ、ワイシャツのボタンを一つはずして、机に向かっている。

 来客との対面が終わり、ようやく自分の仕事に手をつける時間を作れた所だった。

 曽祖父の式部は、不由彦を次期当主に指名するつもりでいる。最近になり、様々な引き継ぎも受けた。だが、まだ齢三十にも満たない若造に家督を譲るとなれば、大叔父らの反発は免れない事も不由彦には分かっている。

 竜堂の家を継ぐには、経験や能力よりも、まず体質が優先される。不由彦は、それを持って生まれてしまった。式部が不由彦に期待を寄せるのはそういった理由なのだが、大叔父の年嗣はどうにも気に入らないらしい。

 当主の体質。当主の権限。どうして、こんなものを欲しがるのだろう。不由彦には大叔父の気持ちが理解できない。

 不由彦、という名は彼をこの世に産み落とした母の命名だ。自由に不ず、という意味の名を与えた母の気持ちが、今の不由彦には痛いほどにわかる。いかに庭を美しく整えようとも、いかに贅を尽くそうとも、この家は牢獄なのだ。

 式部は不由彦の冷静さや、俯瞰的な視点による判断力を高く評価していた。

 しかしそういった彼の性質の基となっていたのは、幼少の頃より植え付けられた諦念であった。どこへも行けやしない。何者にもなれはしない。竜堂は憑き物筋。化物は、塀の中に隔離される。

「おにいちゃん……」

 スッ、と扉が開く気配がして、眠たそうな幼い声が不由彦を呼んだ。

 扉の方に目をやると、ピンク色の寝巻きを着た子供がそこで目を擦っていた。大きなクマのぬいぐるみと手を繋ぎ、それを床に引きずっている。

「どうした、遥香。眠れないのか?」

 椅子から立ち上がって近寄ると、遥香と呼ばれたその子はトテトテと歩いて、不由彦の膝のあたりにギュッとしがみついた。

 不由彦にとって遥香は、歳の離れた腹違いの妹に当たる。夜中に目が覚めてしまうと、寂しがって甘えにくる癖があった。

 スラックスに顔を擦り付けている妹の頭を優しく撫で、不由彦は頬をフッと緩めた。

 物心がつく頃には、もう彼女の両親はいなかった。遥香は竜堂の屋敷で、乳母やお手伝いの手によって育てられた。

 沢山の大人と変わりがわりに関わる中で、遥香は何故か、兄の不由彦によく懐いた。

 小さい頃、誕生日にプレゼントしたクマのぬいぐるみを、八歳になった今でも肌身離さず持ち歩いている。

 周りにいるのが大人ばかりだからか、同年代の子供と比べて少し幼さが残っていた。

「こわいのがいるの」

 不由彦の足に顔を押し付けたまま、遥香は舌ったらずな言葉を発した。

「何にもこわいのはいないよ。ほら、ここにはいるのは、にいちゃんと遥香と、あとは熊井さんだけだよ」

 熊井さんとは、遥香の持つぬいぐるみの名前だ。不由彦にそう言われても、遥香はイヤイヤと首を振っている。

「いるもん。いっぱいいるの。すごくおこってる。はるかこわい」

 遥香はしがみついて離れようとしない。不由彦はほとほと困り果ててしまった。

 今日中にやらなくてはならないことが、まだ山のように残っている。

 ちら、と机の上に目をやる。

 書庫から引っ張り出してきた古い資料には、まだ目を通せていない。

 遥香は一度眠りから目覚めると、なかなか布団に入ってくれない。この分だと、一時間はここままグズりつづけるだろう。

 遥香の背中をぽんぽんと軽く叩いてあやしていると、開いていた部屋の扉から和服を着た女性が顔を出した。

「遥香さん、こちらでしたか」

 女性はほっと胸を撫で下ろし、安堵した表情を浮かべて近寄ってきた。

 竜堂の屋敷に住み込みで働いている使用人である。名を道津雪子という。

「探したんですよ。ほら、お部屋に戻りましょう?」

 雪子は遥香と目線を合わせるように、不由彦の膝下にしゃがみ込んだ。

「いや、おにいちゃんといるもん」

「不由彦さんはまだお仕事があるみたいですよ。眠れないようであれば、私が本を読んで差し上げますが、いかがですか?」

 不由彦のスラックスに顔を擦り付けていた遥香が、チラッと雪子の方を見る。

「……ほんとう?」

「ええ。『エルマーとりゅう』のお話がまだ途中でしたね。その本に致しましょうか」

「……うん!」

 遥香はようやく不由彦の膝から腕を離し、雪子の胸に抱きついた。

 ヨイショ、と声に出して、雪子は遥香を抱きかかえる。

「雪子さん、ありがとうございます。助かりました」

 不由彦はポリポリとこめかみを掻きながら、雪子に礼を述べた。

「切れ者と評される若旦那も、可愛い妹さんの前ではタジタジですね」

 雪子は頬に笑みを浮かべる

「若旦那なんて……やめてください。あなたにそう言われると、なんだか変な感じがします」

 少し困った様子で不由彦が言うと、雪子はクス、と淑やかに笑った。

 小さく会釈をして、部屋の出口へと向かっていく。その腕に抱きかかえられた遥香が、不由彦の方にバイバイ、と手を振った。

 手を小さく掲げ、不由彦はそれに応じる。

 道津雪子は幼少の頃から、竜堂の屋敷の内側で不由彦と共に育った。若くして期待される次期当主と、一介の使用人。大人になり、互いの立場があるとはいえ、未だに不由彦は雪子に頭が上がらない。

 竜堂家では、遠い血筋にあたる親戚や、身寄りのない子を引き取って、本家の子供達と一緒に育てる風習があった。

 四つ歳上に当たる雪子は、不由彦にとってはずっと姉のような存在だった。優しく、おおらかで、時に厳しい。今でも彼女の事はつい頼りにしてしまう。

 竜堂家の使用人の数は三十人を超える。その中でも雪子の信頼は特に厚い。当主の式部直々の命を受けて藍那の案内を務めたのも、この雪子であった。

 屋敷の中でも数少ない心を許す二人との会話で、目の前の仕事で張り詰めていた不由彦の心も少しだけ和らいだ。

 寝室へと帰っていく雪子の背中を見送り、不由彦は再度、机に向かう。

 机上に置いた古い資料のページをめくる。

 そこに記されているのは、『穿山甲』という名の秘薬を調合した際の詳細な記録である。過去数十年、数百年の長きに渡る年月、代々の当主に受け継がれてきた物だ。

 『穿山甲』は、当代の『苗床』の身体に現れる鱗を素材として作られる。『月鱗』と呼ばれるその鱗の効力は、『苗床』本人の資質や身体の成長具合によって、それぞれに差があった。同じ血筋、同じ身体から採取した鱗でも、微妙に性質が異なるのだ。

 秘薬『穿山甲』として完成させる為には、効果の異なる『月鱗』一つ一つに適した調合を施さなければならない。

 不由彦の頭を悩ませているのは、当代の『苗床』が生み出す鱗が、あまりにも強力である事だった。

 竜堂の当主は素材に触れて調合を行う為、生まれ持った体質に『月鱗』への耐性を持つ者が選ばれる。身体に耐性を持つ者は竜堂の血を引く人間の中では珍しくなく、例に漏れず不由彦もその体質を持っていた。

 しかし、耐性を持つ不由彦であっても、当代の『月鱗』に触れる時には眩暈がした。それと向き合っているだけで、動悸は高鳴り、身体は熱を発する。堪えきれない欲動が下腹部から迫り上がってくる。

 不由彦はいつも鎮静作用のある薬剤を服用してから、調合に臨んだ。現代科学の知識に基づき、防疫マスクも導入した。そうしなければ、頭がおかしくなりそうだったからだ。

 秘薬の調合は難を極めた。『月鱗』の力を抑えきれないのが原因だ。常人がこれをそのまま服用すれば、魅了や精力増進といった効果が現れる前に、気が触れてしまう。

 不由彦は書庫の資料を調べあげ、過去に似たようなケースがなかったか探してみた。文献にはいくつかの記録が残っていたので、不由彦はそれを片っ端から試した。

 鎮静作用のある漢方薬として知られる厚朴や大黄をはじめ、現代では法律で禁じられるケシの実にも手を出した。

 これではほとんど麻薬ではないか、と不由彦は密かに思った。それでも調合を止める事はなかった。

 自身の欲望を叶える為、『穿山甲』に大金を注ぎ込む痴れ者が、薬を使ってどうなろうが知った事ではない。

 それらしい倫理を唱えてみたところで、大きな流れの前では何の意味も持たないのだ。不由彦に求められているのは、使える秘薬を精製すること。それだけである。いまここにある仕組みには、逆らわない。そんな己の諦念にどっぷりと浸り、不由彦は当代の『月鱗』を用いた秘薬を完成させた。それが二年ほど前の事だ。

 あの時から、現当主である式部は代替わりを仄めかすようになった。いずれはそうなるだろう、と不由彦は考えていたのだが、大叔父達の反対する声が思いのほか強く、実現には至っていない。

 不由彦はいつ当主になろうが構わなかったのだが、一つだけ気にしている事があった。

 それは、妹の遥香の事だ。

 遥香はまだ幼い。今のうちにこの屋敷を離れる事が出来れば、外の世界で生きていくことも充分にできるだろう。

 血の濃さを保つ為、竜堂家では近親婚を繰り返してきた。遥香がこのまま屋敷で育ち、年頃となれば、老人達は「産める」と判断する。そうなれば、永遠に籠の鳥だ。

 自分の事は、もういい。けれど、小さい遥香には未来を選べる自由があってほしい。

 今の不由彦には、遥香を外の世界へと連れ出すような権限はない。しかし、当主ともなれば話は別だ。対外と関わる事も増える。そうすれば、遥香自身が未来を選べるよう、手配することも可能になるだろう。

 例えば信頼できる相手に遥香を預け、屋敷の外で自由に生きられるように資金面で援助する。そういう形式を、不由彦は考えていた。

 ただ家を存続させる為の装置としてではなく、遥香が自分の人生を歩いていけるように。

 その為なら自分は労を惜しまず働く。危険な調合にも手を出す。誰しもが当主として認めざるを得ないように実績を作り続ける。

 今、竜堂家は大きな問題を抱えている。この問題を不由彦がクリアできれば、名実ともに家督の権限を得る事が出来るだろう。

 不由彦は、古い資料の表紙をパタン、と閉じた。

 やはり、ここには無い。

 記されていた方法は、既に試した事のあるものばかりだった。

 元々強力過ぎた当代の『月鱗』は、今もその力を増し続けている。『月鱗』の効力は『苗床』となる人間の成長具合によっても変化するが、特にその振れ幅が大きいのが第二次性徴の時期だ。具体的には、男児であれば精通、女児であれば初潮がその境となる。

 当代の『苗床』は今年で十二歳になるが、まだ精通を迎えていない。

 その時を迎えれば、『月鱗』はここから更に、しかも格段に力を増す。

 不由彦のみならず、竜堂家の首脳たる面々はその事実に震え上がった。調合の問題もある。しかし、それより先にあったのは得体の知れない強大な力への畏怖だ。

「あれは鬼子だ……」

「普通ではないぞ……」

 誰ともなく囁かれたその言葉は、竜堂家の人々の心にひっそりと浸透していった。当主の式部ですら、『苗床』の生活する石蔵を避けているように見えた。

 ほんの十二歳の子供が、まるで災厄のような扱いを受けていることに、不由彦は複雑な思いだった。『苗床』の子があの石蔵に入ったのは、七歳の時だ。今の遥香よりも幼い。

 『苗床』の子は、その身辺の世話をする御付きの人間と共に、養子としてこの屋敷に来た。遠縁の血筋だという。戸籍上は、不由彦の弟、遥香の兄となる。彼はこの家に来てすぐに『月鱗』を体に発現させた。石蔵に封じ込められた彼と不由彦は、それ以来一度も顔を合わせていない。

 幽閉された『苗床』の子は、あの壁の奥で何を思うのだろうか。もし、竜堂という家を恨んでいるとするならば、老人達にとっては確かに災いに違いないだろう。

 もし彼が憎しみを込めてその異能を振るえば、竜堂家の破滅は免れないのだから。

 不由彦は悪寒を感じて身震いをした。

 そして、自らもまた『苗床』の子を恐れていることに気がついた。

 俯き、自嘲気味に鼻で笑う。

 結局のところ、自分も老人達と変わりはしないのだ。色々な事を諦めている内に、すっかり同じ色に染まってしまった。

 気がつくと、随分と夜も更けていた。

 気怠い無力感を背負ったまま、不由彦は書斎の灯りを消した。

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