第三章「穿山甲」⑧
不由彦は、急ぎ足で廊下を歩いていた。
ワイシャツに袖を通してはいるが、髪はまだ整えていない。
起き抜けに知らせを受け、急いで自室を飛び出してきたからだ。
竜堂家のだだっ広い屋敷の最深部に、一族が最も重要な取り決めを行う一室がある。
不由彦はそこに向かっていた。自分が預かり知らぬ間に、重要な決断が下されようとしていると聞いたからだ。
「当主、これはどういうことですか!?」
不由彦は声を荒げて、部屋の襖を開いた。
その襖には、金箔が散りばめられた唐紙に白い大蛇が描かれている。「白蛇の間」と呼ばれる一室だった。
「なんだ、騒々しい!」
「申し合わせの最中だぞ、後にしろ!」
部屋の中には、竜堂家の首脳である面子が揃っていた。曽祖父で当主の竜堂式部、大叔父に当たる竜堂年嗣、そして年嗣の三人の息子達である。
「よい。不由彦、要件はなんだ」
怒鳴った年嗣を制した式部が、おそろしく淡々とした調子でそう言った。
その目は、いつもに増して鋭い。
不由彦の背中に、冷たい汗が伝う。
「無礼を承知でお聞きします。竜堂遥香を『苗床』にする、とはいったいどういう事ですか。これは、当主のご判断ですか」
食ってかかりたい気持ちをグッと抑え、不由彦は努めて冷静にそう尋ねた。
妹の遥香が『苗床』にされる。あの石蔵に閉じこめられて、自由に生きられなくなる。その話を聞かされた時から、不由彦はもう平静を保てなくなっていた。
式部は、そんな様子の不由彦を目にしても、眉ひとつ動かさない。静かに口を開く。
「随分と耳が早いな。雪子が話したか」
式部の言う通りだった。遥香を『苗床』とする取り決めが「白蛇の間」で行われている、という情報を不由彦に伝えたのは使用人の雪子である。
「なら、聞いているだろう。昨晩、遥香の身体に『月鱗』が発現した。まだ力は弱いが、確かにあれは竜堂の血筋のもの。『月鱗』が発現したものは例外なく石蔵に隔離する。そんなことはお前もわかっている筈だ」
不由彦はグッと奥歯を噛んだ。
昨晩、眠れずにクマのぬいぐるみを引いて歩いていた遥香。「こわいのがいる」といってしがみついてきた遥香。絵本を読んであげる、と言われてコロコロと笑っていた遥香。
あんな幼い子供を暗闇に押し込めるのか。
まだ、一人で眠れないような子を。
「で、ですが、当代の『苗床』としては竜堂魚月が健在です。彼は十二歳。まだ、代替わりをするような年齢では……」
食い下がる不由彦の言葉に重ねるようにして、年嗣が大声で怒鳴った。
「あれは鬼子だ!」
その言葉に三人の息子も続く。
「強すぎる異能に頼れば、竜堂は滅びるぞ」
「不由彦、君もあれの『月鱗』には手を焼いているのだろう」
「今では『穿山甲』の調合すらままならないと聞いている。抑制が効かない強い力より、調整の効く弱い力の方が都合もいい筈だ」
魚月の『月鱗』が、もはや手がつけられないほどにその力を強めていることは、紛れもない事実だった。
だが、不由彦がその『月鱗』の調合に、苦心しながらも取り組んできたのは、遥香を竜堂の家から自由にできるかもしれない未来がその先にあったからだ。
遥香が二度と太陽の下を歩けないのだとしたら、調合がうまくいこうが、『穿山甲』が高く売れようが、もはやそれは不由彦にとって何の意味も持たなかった。
だが竜堂家の面々は、そんな不由彦の思いなど露と知らない。
「……魚月には、別の役割がある」
式部が言葉を放つと、口々に声を荒げていた年嗣達がおのずと口を噤んだ。当主の威厳の前では随分とおとなしい。
「……不由彦、少し付き合え」
式部は畳の上に置いてあった杖を手に取り、それを支えにゆっくりと立ち上がった。
「いい機会だ。お前にも見せておきたいものがある」
そう言って式部は「白蛇の間」の更に奥へと歩を進める。
「当主、不由彦にはまだ早すぎる!」
そう言い放ったのは、大叔父の年嗣であった。その息子達は、何のことだかわからない、という表情をしている。
「どうせ、いずれは伝えなければならない事だ。こやつも、一族の家督を背負うという意味を知らねばならんからな……」
式部は不由彦の目をじっと見た。その視線に込められた感情を読み取る事は難しい。
「……私に、何を見せようというんですか。遥香を『苗床』にする事に、私がそれで納得するとでもお思いですか?」
不由彦は感情を昂らせる。しかし、式部は相変わらずの冷淡な瞳で、声の調子を変える事なく言葉を放った。
「納得? くだらんな。これからお前が見るのは竜堂という血の歴史、そのものだ。当主として竜堂の何を守るべきなのか、いやが応にもわかる事になるさ……」
式部が板張りの壁を押すと、ギィと軋む音と共にそれが動いた。隠し扉である。
その奥には暗い下り階段が続いていた。
式部は闇の中へと体を滑り込ませていく。
地下へと続く階段は、底が見えないほどに深く、そして暗い。不由彦はゴクリと生唾を飲み込んだ。
そして意を決し、暗闇へと歩を進めた。
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