第一章「夢の帆船」最終話

「じゃあ、その子も眠ったままなんだねぇ」

 藍那堂の二階。秋人達の居住スペースで、今日も一階の店主はお菓子を齧っていた。同じテーブルを囲み、ナツキもパクパクと焼き菓子を口に放り込んでいる。

「ええ。精神の深いところで結びついていた所を、無理やり引き剥がしたショックなのかもしれません。時間が解決するといいんですが……」

 湯呑みにお茶を注ぎながら、秋人はそう言った。あの後、柄井ついりも他の生徒達同様に、深い眠りに落ちてしまったのだ。

「んん〜、分かった。そっち方面に詳しい医者の友達に診てもらえないか、聞いてみるよ」

「本当? さっすが、藍那さん」

「ありがとうございます」

 ナツキは食べかけの口を開いて、嬉しそうに声を上げた。その口から床に飛ぶ食べカスを見て怪訝な表情を浮かべつつ、秋人はお礼の言葉を口にする。

 藍那の人脈は、奇妙な方向で異様に広い。

 条件さえ整えば、こういった形で助けてくれることも時々ある。

「それじゃあ、先にお代をちょうだい」

 藍那は微笑みながら、両手を差し出すように広げる。秋人はテーブルの下から、木製の箱を取り出した。それは小物を入れる収納棚のようだった。取っ手を引いて藍那にその中身を見せる。

「可能な限り、掻き集めました。使いかけのものもありますが。香皿の方も、僕が壊したものも含めてまとめてあります」

 箱に収められていたのは、あの香と香皿だった。吹奏楽部顧問の山賀の力も借り、秋人は配られた香の殆どを回収していた。

 蒐集家でもある藍那は、いわゆる「いわく付き」の道具を集めて回っている。

 薬局の店主としてではなく、藍那個人に助力を乞うときは、対価として何かしらの「いわく付き」を差し出す約束になっていた。

 藍那は香皿を一つ取り出し、満足げに目を細めてそれを眺めた。

「うん、これならいいねぇ。それだけの価値があるよ」

「藍那さん、ご承知だとは思いますが、危険を伴うものなので……」

「だねぇ。でも、道具っていうのは大体がそういうものだよ。紙切れ一枚、鉄屑一つで命が失われることだってある。その逆もまた然りだ。だから、私はこういうものを集めるんだよ」

 藍那は香皿を丁寧に木箱にしまう。

「それにしても、君たち二人には結構迂闊なところがあるよねぇ。ナツキちゃん、今回は危なかったって聞いたよぉ? 無事で良かったけど」

 藍那は心配そうにナツキの顔を覗き込む。

 とうの本人は、お菓子を食べるのに夢中だ。口に詰め込んだ焼き菓子をボリボリと咀嚼し、秋人が淹れたお茶をぐいっと飲み干す。

「これが全然無事じゃなくてさぁ。ほら、見てよこれ」

 そう言って、ナツキはセーラー服のお腹のところをペロリとめくる。

 すべすべとした白い肌が露わになる。そこには見るのも痛々しいほどに、広範囲に青黒いアザが広がっていた。

 お腹を中心に、胸や脇の方にまでそれは伸びている。

「夢の中で、あいつに身体の中を弄られたんだよな。それの影響だと思う。よくもまぁ、俺の珠のお肌をこんなにしてさぁ。ひどいと思わねえか、なぁアニキ」

 そのアザを見せつけるようにして、ナツキは自分の腹を秋人の方に向ける。

 秋人はそっと目を逸らす。

「……しまえ」

 ほとんど聞こえないような小さな声が呟かれる。

「はっ? ほら見ろよ、痛そうだろ、これ」

 その呟きも気にせず、ナツキはそっぽを向いた秋人の顔にぐいぐいとお腹を近付ける。

 プルプルと身体を震わせていた秋人は、痺れを切らして叫んだ。

「お前は、見せすぎなんだよおおお! 肌をしまえしまえ、しまええええ!」

 顔を真っ赤にして、秋人は自分の座っていた座布団をナツキのお腹に押し当てた。

「うわっ、何すんだクソアニキ!」

「軽々しく肌を見せるな! 慎みを持ちなさい! 腹巻きを巻いとけ、腹巻きを!」

 どこから取り出したのか、肌色の腹巻きを、ナツキに被せてお腹を覆う。

 ナツキはぎゃあぎゃあと叫んで抵抗していたが、やがてされるがままになった。

 藍那は、その様子を眺めながらゆっくりとお茶を飲んでいる。

「ふぅ……。それにしても、ナツキちゃんを狙ったのはどこの誰だったんだろうねぇ。跡形も残ってないんじゃ、調べようもないけど」

 かたり、とテーブルに湯呑みを置いて藍那がそう言った。ナツキに強制的に腹巻きを巻き終えた秋人が、真面目な顔をして藍那と向き合う。

「そうなんですよね。竜堂本家の事情に詳しい奴なんて、そう多くはない筈ですが……とにかく得体が知れません。結局、眠りに落ちた子供達の意識も戻ってはいませんし、問題は累々です」

 ため息を付く秋人の隣で、床に転がっていたナツキがむくりと起き上がる。

「ま、なんとかなるって。餅は餅屋だ。眠ったみんなをどうにかするのは、藍那さんの知り合いに任せようぜ。俺たちは、俺たちに出来ることをやるだけだよ」

 ポコンッ、と軽快な電子音が鳴る。

 それはナツキの服のポケットの方から聞こえてきた。

「あ、やべ。まよねんだ。もうそんな時間になってたのか」

 取り出したスマートフォンの画面を見つつ、ナツキはバタバタと出かける準備を始める。

「なんだ、まよねんって」

 秋人が尋ねる。

「友達だよ、部活の。今日、末次堂でモナカの新作が出るんだ。これから、それを食べに行く約束してんだよ」

「お前、いつのまに部活なんて入ったんだ? それにまたお菓子か。好きなものばっかり食べていないで、もっと栄養バランスを良く考えてだな……」

 ブツブツと小言を言い始めた秋人を無視して、ナツキは

「いってきまーすッ!」

 と言いながら一階へと降りて行った。

 その背中を眺めながら、

「ナツキちゃん、馴染んでるねぇ」

 と藍那は呟いた。

 

 まよねん達、スイーツ部のメンバーとは、末次堂の前で待ち合わせている。藍那の店からそれほど遠くないので、ナツキは徒歩で目的地に向かっている。

 あの日、ついりは末次堂の包み紙を大事そうに抱えて調理準備室を訪れた。

 ナツキは、その時のついりの姿をはっきりと覚えている。

 あの廃屋で、差し伸べられた手を取るより先に、ついりは危険を察知して咄嗟にナツキを突き飛ばした。鮮明に焼き付いた記憶は、思い出せばいつもスローモーションで再生される。ゆっくりと遠ざかっていく、ついりの泣きそうな顔。

 ナツキはグッと拳を握りしめた。

 深遠なる異世界や、名状しがたい存在を前にした時、ヒトはあまりに無力で儚い。ナツキや秋人が有する対抗手段も、全てに対して有効とは言い難い。どれだけそれを望んだとしても、出来ることは限られている。ナツキはそれを知っている。痛いほどに。

 だとしても、ナツキは欲するのだ。

 欲しいものは諦めない。

 他ならないその欲求こそが、ナツキの「生」の証明なのだから。

 ついりの意識も、必ずいつか取り戻す。

 ひそやかな決意は、ナツキの胸の中にしまわれる。自分に出来ることは限られている。今は時を待つだけだ。チャンスは必ず訪れる。

 前方に末次堂が見えて来る。

 店舗の前で集まって談笑しているのは、ナツキの友人達。すいーつ部のみんなだ。

 ナツキは大きく腕を振り、顔いっぱいに笑みを浮かべて走り出した。

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