第一章「夢の帆船」⑯
「うわああああああああああああ!」
ベッドの上で、バッと人影が起き上がる。
声を発したのは、ナツキだった。
汗だくで半身を起こし、叫んでいた。
夢の世界から、帰ってきたのだ。
「ああああっ……って、あれ?」
ナツキは自分の腹のあたりに手を当て、呆然とあたりを見回した。
その様子を見た秋人は、大きな溜息を吐いてベタリとその場所に座り込んだ。汚れた床の埃でスーツが汚れるのも厭わない、限界まで疲れ果てた様子だった。
「どこだ、ここ……。なぁ、俺、腹に穴とか空いてないよな。なんかさっきまでここに腕突っ込まれて中身を掻き回されてたんだけど」
ナツキは、すぐ側にいたついりに、キョトンとした顔で話しかけた。
「え、ああ……大丈夫、そうだよ」
あまりにも普通にナツキが話しかけてきたので、それに釣られてついりも返事をしてしまう。
「ホント? ああ、良かった。死んだかと思った……あれ、アニキ。何してんの」
片膝を立ててぐったりとしている秋人を見とめ、ナツキは声をかける。
秋人は声を出すのも億劫だ、という様子で
「何してんの、じゃないんだよ……。危ないところだったんだぞ、お前」
「危ないって……。あ、そうだよ! 何が『月齢から見ると時間的な余裕はまだある』キリッ、だよ! 俺、めちゃめちゃ危険に晒されてるじゃねえか!」
「…………もう行くぞ。ここにいると、危ない」
「あ、こいつ話逸らしやがった! 都合悪くなるといっつもこれだよ、ッたく」
服についた埃をパンパンと叩き、ナツキは立ち上がった。
そして、床にしゃがみ込んでいるついりに「ん」と手を伸ばす。
ついりはその手を呆然と見つめる。
「さぁ帰ろう、ついりん。ここにいちゃ危ないってさ」
あっけらかんと言い放つナツキ。ついりは、その手をすぐに取ることはできない。
秋人は眉を顰めた。
「おい、わかってるのか。その子がお前を眠りに落としたんだぞ。他の部員もだ」
「……ちがうよ、ついりんは悪くない」
秋人の言葉を否定して、ゆっくりと首を振る。
「夢の中で会ったんだ。あいつが全部仕組んだんだろ? ついりんは、利用されただけだよ。この一件を企んだのは、別のやつだ」
そう言ってナツキはついりに微笑む。
「だから帰ろう、ついりん。多分、何か方法がある。眠ってしまったみんなも、きっと目を覚ますよ」
ナツキは、柔らかな口調だった。
差し伸べられた手を握ろうと、ついりは自分の腕を伸ばす。けれど、二人の手のひらが触れ合うことは無かった。
寸前で、ついりからそれを拒んだのだ。
行き場を失った手のひらは、力を失って宙にぶら下がっだ。
ついりは俯き、そして言葉を絞り出した。
「戻れるわけ、ないよ。悪くないなんて、そんな筈ないよ。だって、私が望んだんだもん。みんなが目覚めないように、お母さんが煩くしないように、って。全部、私があの子に願ったから……」
ぎゅ、と固く拳が握られる。
その手の甲に数滴、涙が零れ落ちる。
取り返しのつかない過ち。
洗い流せない罪の意識。
それはついりの肩に重くのしかかり、ナツキの手を取ることを躊躇わせた。
その両肩に、手のひらが重ねられる。
顔を上げると、真剣な表情をしたナツキがそこにいた。
「だとしても、それはついりんのせいじゃねえよ」
大きな黒い瞳が、真っ直ぐについりを見ていた。
その声は力強く、確信に満ちている。
「思う事も、願う事も、それだけならただの感情だよ。人間なら誰だって持ってる。俺だって、アニキがぎゃーぎゃーうるさく言う時は、どっかに行っちまえばいいのにな、っていっつも思ってる」
「おいっ!」
少し離れた所から秋人が突っ込みをいれる。
「悪いのは、そんな人の心につけ込む奴だ。思いや感情を利用する奴だ。小さな、ありふれた願いに、全部の責任をおっ被せようとする奴だ。だから、俺は何度でも言うよ。ついりんは、悪くねえ。悪くねえんだ」
力強く掴んでいた肩から手を離し、ナツキは再度ついりに腕を伸ばす。
ついりの目から、再び涙が溢れる。
自分が他のみんなと違うこと。上手くいかないこと。得体の知れない存在に頼ってしまったこと。
その全ては、自分のせいだ。
ついりはそう思っていた。
ナツキは、それを否定した。
ナツキの言葉は無責任だ。ついりの行いで傷付いた、沢山の人の事を度外視している。けれど、その言葉はただひたすらに真っ直ぐだった。偽らない心で、悪いのはついりではないと、ナツキは何度も繰り返した。
ついりは嬉しかった。もちろん自分の行いが許されるわけではない。けれど、ここに存在している自分を認めてもらえたような気がした。
こういう出会いじゃなかったら、友達になれたかもしれない。
昨日、調理準備室でナツキと出会ってからまだ一日も経っていない。お互いの事も、全然よく知らない。だけど、そう思えた。
ついりが、差し出されたナツキの手を握ろうとした、その時だった。
(さぁ、その手を取るのよ)
頭の中で、誰かの声がした。
(柄井ついり、あなたはまだ契約を果たしていない)
十数人の人間が同時に話しているような、重なり合った声。
(探し物は、そこにある。さあ、竜堂ナツキからそれを奪い取りなさい)
夢の中で何度も聞いた、「彼女」の声。
「ッッ、逃げて!」
ついりはその手を取らずに、ナツキの身体を両腕で突き飛ばした。
「なっ……」
意表を突かれて、ナツキは尻餅をつく。
「ナツキッ! そいつから離れろッッ!」
秋人が叫ぶ。
顔を上げたナツキが見たのは、灰色の靄のようなもので覆われたついりの姿だった。
「ナ……ツキさ……」
か細い声を放った喉に、灰色の靄が侵入していく。ついりの瞳はナツキに助けを求めるような弱い光を放っていたが、すぐにその色を失った。
「てめえ……さっきの!」
ナツキが叫ぶと、ついりの中に入った「彼女」は、あの紅い亀裂のような笑みを浮かべた。
「……渡せ……竜堂の……」
その口から出てくる言葉は、途切れ途切れで判然としない。まだついりの肉体と同調しきっていないのだろうか。関節が固まっているような、気味の悪いカクカクとした動きで、それはナツキの方に向かってきていた。
「アニキッ、走れるか!?」
ナツキが尋ねると、秋人はかぶりを振る。
「悪い……こっちは動けない……くそっ」
秋人は地面に突っ伏していた。
全身から多量の汗をかき、その眼はもう真っ赤に充血している。四肢が痙攣し、動く事もままならない。
その身体には、すでに「月鱗」の副作用が現れていた。
「まさか、使ったのか!? それは、ここぞって時に取っておく約束だろ!」
「生憎、ここぞって時だったんだよ……」
倒れ込んだ秋人の側に駆け寄り、ナツキは「彼女」に対して向き合うように身体を構えて、服の袖をまくった。
その左腕には、金属製の腕輪がはめられている。
「……アレは、喰えそうか?」
秋人が問う。
「わからねえ。夢の中じゃダメだった」
ついりは腕輪に手をかける。
「……無理そうなら、お前だけでも逃げろ。アレの狙いは、お前だぞ」
秋人の言葉を、ナツキは鼻で笑い飛ばす。
「言われなくても、そうするよッ!」
外れた腕輪が地面に落ちる。
ナツキの左腕の顎門がゆっくりと開いていく。
手のひらの中心線、中指の爪の先から、切れ目のように光の線が走る。
中指、手のひら、手首を通って肘の先まで。鋭利な刃物で両断したようにパックリと二つに割れていく。その切断面に、血は滲んでいない。ナツキの割れた腕の中には、どこまでも続いているような暗い闇が広がっている。
洞穴に吹くような、不気味な冷たい風がナツキの長い黒髪を靡かせた。それは、腕の中の暗い闇から吹き出していた。
「憎い……竜堂……力!」
下手なマリオネットのような不恰好さで、「彼女」は腕をナツキに向けて伸ばした。
その腕に、冷たい風が絡みついていった。
ついりの身体に入り込んだ灰色の靄を巻き込むように。
「出ていけよ。それは、ついりんの身体だ」
ナツキは呟き、左腕の顎門を「彼女」に向けた。
風が大きくうねり、渦巻いてゆく。
「彼女」が苦しむような呻き声をあげ、その口をかぱりと開いた。開いた口から、灰色の靄が排出される。それは冷たい風に飲み込まれて、ナツキの開いた腕の中に吸い込まれていく。
「許さない……必ず……!」
憎悪のこもった言葉が吐き出される。それは断末魔に似たものだった。
ついりの身体に入り込んだ灰色の靄は、微塵も残さずナツキの左腕に吸い込まれていく。
びゅうびゅうと音を立て、その跡形もなく消え去った。
「……そうかよ」
二つに分かれていたナツキの左腕が、ゆっくりと元の形に戻っていく。
ぴったりと閉じていく暗闇の奥から、小さな音が聴こえてきた。それは何かを噛み砕くような、咀嚼しているような不快な音だった。
ナツキはその音を気にもせず、床に落ちた腕輪を拾って、手首に嵌め直した。
操り手を失ったついりの身体が、ゆっくりと床に倒れ込んでいった。
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