第一章「夢の帆船」⑮

 秋人は少しだけ振り返り、ついりを一瞥した。眼鏡の奥の瞳には疑念の色が宿っている。

 ナツキを罠にかけ、眠りに落としたのは柄井ついりの筈だ。なぜ、その張本人がナツキを庇うように身を挺しているのか。

 だが、震えているその少女を問いただしているような時間は、秋人にない。

 手首にスナップを効かせ、小指から親指にかけて、拳を握り込んだ。

 ナツキ達を背に庇い、秋人はその連中相手に立ち塞がる。

 虚な目の男たちが、黒い腕を伸ばした。

 男達の動きは、けして素早くはなかった。

 およそ意思らしきものは感じられない緩慢な動作。背を丸めて両腕を前に伸ばしたその姿勢は、フィクションで描かれる、動く屍のようでもある。

 ただ一人を相手にするのであれば、素早さで圧倒することもできただろう。

 しかし、目の前にいるのは三人。

 多勢に無勢だ。油断はできない。

 手の甲を固く構えていた秋人は、自らに伸ばされた男たちの腕を力任せに払いのけた。

 秋人に武術の素養はない。

 ただ、幾度か“修羅場”に遭遇した経験から、こういった場面において、すると決めた一つのスタイルがあった。

 それは嗜みや心掛け、というよりは、消去法に近いものだった。生き残るために一番可能性が高い方法を、秋人なりに模索した結果。

「こっちの身体がどうなろうが、なりふりかまわず力をぶつける」

 それが、秋人の戦い方だった。

 片膝を曲げ、渾身の力を込めて、目の前の男に踵を押し込むように蹴りを叩き込む。いわゆる「ケンカ・キック」の様相だ。

 磨きあげた革靴の靴底が、男の鳩尾あたりに直撃する。

 衝撃を受けた男は、数メートル後方に吹き飛んだ。

 地面に倒れこんだ後、立ち上がってくる様子はない。

 秋人の膂力は、本来常人並みだ。

 貧弱ではないが、筋骨隆々とは言い難い。

 しかし、今この時に於いて、秋人は一時的に成人男性の平均的な能力を軽く凌駕していた。

 それは、ある特殊な薬の効果だった。

 竜堂家秘伝、「月鱗」の副作用を利用したものだ。

 秋人がそれを使用すれば、一定の時間、五感と膂力が増強される。

 戦う事を生業としているわけではない秋人にとって「月鱗」の使用は、複数名を相手取る時の唯一の抵抗手段とも言えた。

 しかし、薬による一時的な肉体の恩恵には、当然のように副作用もあった。

 秋人に残された時間は、あまり多くない。

 瞬間、秋人の体が横に強く引っ張られた。

 肩首に、男の一人がしがみついたのだ。

 その重みに秋人は体のバランスを崩し、埃だらけの床に、背中から倒れ込んだ。

 そこに、男の体が覆いかぶさる。

 秋人は即座に起き上がろうとした。

 が、挙動の起点となる体の間接部分が男に押さえ込まれていて、うまく力を込めることができない。

 転がされた虫のようにジタバタと足掻く秋人の瞳に、残されたもう一人の男が、ナツキの白い脚に手をかける姿が写った。

 すぐ側にいる柄井ついりが、男をナツキから引き離そうと抵抗している。

 しかし、少女の力ではその濁った目をした男を退けることはできない。

 ナツキのスカートが男に捲られ、白い太腿が露わになる。肌の上で虹色に輝く鱗が晒される。「月鱗」。竜堂の血統が生み出した罪深き力の結晶体。

 カッ、と秋人の身体が熱くなった。

「やめ、ろ……!」

 瞳孔が広がり、網膜から血が滲む。

 押さえつけられた関節に、秋人の持つ、ありったけの力が加わる。

 ボキ、という鈍い音がした。

 肘の関節が外れたのだ。

「う、お、おおおおおおおお!」

 秋人は咆哮する。

 関節が外れてしまった腕で、そこにのしかかる男の身体を持ち上げる。

 浮き上がった男の身体をすかさず膝で蹴り上げた。呻き声をもらしている男の身体を掴み上げ、秋人は立ち上がった。

 男の体重は、少なく見積もっても80キロ以上はある筈だった。秋人は自らの体重を越える重さの人体を、頭上にまで掲げていた。

 その腕の片方は、関節がおかしな方向に曲がってしまっている。

「そいつに……手を出すなッ!」

 秋人の怒声と共に、掴み上げられていた男の身体が宙を飛んだ。

 渾身の力で投げつけたのだ。

 それは、ナツキの身体に手をかけようとしていたもう一人の男に直撃した。

 衝突は鈍い音を立て、二人の男は絡み合うようにして瓦礫の上に倒れ込んだ。

「おい……ナツキ、起きろ!」

 関節の外れた腕を押さえながら、秋人は眠ったままのナツキに声をかける。

 ナツキの瞼は、依然として閉じたままだ。

 秋人は、苦痛に顔を歪ませている。

 関節を外した痛みで、目が眩みそうだった。

 「月鱗」の効果は、まだかろうじて続いている。だが、もう幾許も保たない。

 薬の反動が来れば、秋人は満足に戦うことはできなくなる。

 薄暗い部屋で倒れている四人の男も、いつまた動き出すか分からない。

 そうすればなおのこと、ここから逃げ出すのが難しくなる。

 秋人は、ついりの方に目をやった。

 少女は伏し目がちに視線を逸らす。

 オドオドとしたその態度は、初めて見た時と変わらない。けれど、秋人の受ける印象はまるで異なる。

(被害者のような面をして、ナツキを陥れたのはこの女だ……!)

 秋人はツカツカとついりに詰め寄った。

 ついりは身を竦め、怯んだ様子を見せる。

 関節が外れていない方の腕で、秋人はついりの胸ぐらを掴んだ。

「ひっ」と、か細い悲鳴が上がる。

 秋人は血走った目でついりをた。

「……君が、みんなを眠らせたことは、もう全部わかっている」

 昂ぶる感情を押さえつけ、秋人はつとめて冷静に話そうとはしていた。が、溢れ出る憤りはその強い語気に現れている。

(違う、私は……)

 自分の喉から出そうになったその言葉に、ついりは自らゾッとした。

 何も違わないのだ。

 ついりが望み「彼女」がそれを叶えた。

 あの時、私は正気じゃありませんでした。

 そんな弁明が通じるわけがない。

 この後に及んで、責任逃れを口にしようとした自分に、ついりはどうしようもなく絶望した。私は、ひどい人間だ。

 押し黙るついりに、秋人は続けて尋ねる。

「眠りに落とした人間の、目を覚ます方法がある筈だ。今すぐ、こいつを叩き起こすんだ。もう時間が少ない。奴らが起きてくる前に……!」

 目を覚ます方法なんて、知らない。

 考えたこともない。

 今まで全部「彼女」が考えてくれていたのだから。

 ついりの目に涙が溢れる。

 いつもこうだ。感情が処理できない時、どうすれば良いのか分からない時、ついりは溢れる涙を止められない。

 その様子を見た秋人は激昂する。

「泣いたってどうにかなるもんじゃない! 君がこいつを眠りに落としたんだ。今、目を覚まさないと、もう助からないかもしれない。方法を知らないんだったら、考えてくれ。眠らせる方法があるんなら、その逆がある筈だ。何でもいい、手がかりの一つでも!」

 考えてくれ。

 秋人の叫びは、懇願にも似ていた。

 ついりは服の袖で涙を拭き、己の記憶を必死に辿ろうとする。

「彼女」と交わした会話。与えられた香と香皿。火を灯し、煙を燻した記憶。

 ついり自身があの香に火を付けたのは、二度だけだ。一度はナツキを眠らせる時。もう一度は、香を使って母親に呪いをかけた時。

 突然に吹奏楽部を辞めたついりに、母親は何度も声をかけてきた。

「せっかく頑張ってきたのに」

「家のことなら気にしないで」

「あんなに上手なのに、もったいない」

「彼女」の支配下にあったついりには、そんな母の言葉も鬱陶しいだけだった。

 夢の中で不満を吐露したついりに「彼女」は言った。

「あの香を使えばいいわ。お母さんに嗅がせなさい。もう、口うるさくできないようにしてあげる」

 当時のついりは、その言葉に何の疑問も抱かず、母親の寝室に忍び込んだ。その手に握られていたのは香と、香皿。しかし、香皿はナツキに見せたものとは異なる。

 不思議な紋様が刻まれたその茶色い香皿は、母親相手には使わないよう、「彼女」に言い付けられていたのだ。

「あの香皿にはね、座標が刻まれているの」

「夢を見る人間をあちら側の世界へと連れて行く、白い帆船があるの。刻まれているのは、それが接岸する港の座標よ」

「香の煙を吸って曖昧になった精神は、香皿に刻まれた座標に導かれて、あの港にたどり着く」

「本来、あの場所はそう簡単に行ける場所ではないのよ。本人が強く望むか、導かれでもしない限りは」

「だから、お母さんに香を使うときにはあの香皿は別の場所にしまっておきなさい。そうしないと二度と目覚めなくなるわよ」

 あの香皿。

 ナツキを眠らせるときに使った筈。

 ついりは、自らの服のポケットでずしりと沈んでいる重さに気がつく。

 そうだ、私は自分の部屋を出るときに、わざわざこれを持ってきた。誰に言われるでもなく。それはおそらく「彼女」に仕組まれて行ったことなのだろう。

 裏を返せば、眠ったナツキを連れてくるのに、これが必要だった、ということになる。

 ついりはポケットに手を突っ込み、ゆっくりとそれを引っ張り出した。

 掌の上には、歪な形をした香皿が乗せられている。不可思議な文字が刻まれたそれは、鈍い光を放っている。

 秋人は、ついりの顔をじっと見つめていた。

 震える声を、ついりは喉から絞り出した。

「ナ、ナツキさんがまだ船に乗ってあちら側に行っていなければ……きっと、岸から帰って来る筈です。……この香皿の呪縛から解かれれば」

 そう言い終わるや否や、秋人はついりの手から香皿を奪い取り、地面に叩きつけた。

 そして、何度も足で踏み付けた。

 硬い鉱物で出来ているはずの香皿から、バキリと割れるような音がした。

 その瞬間、部屋の中に叫び声が響き渡った。

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