第一章「夢の帆船」⑭

 ついりは、忍び込んだ廃屋の一室にいた。

 ほぼ朽ちかけたベットの上に、長い黒髪の少年が横たわっている。

 竜堂ナツキは、昨晩からずっと眠り続けている。

 ついりは、ナツキの真っ白な額をハンカチで拭った。少し前から、ナツキはうなされて、苦悶の声を上げるようになった。額から汗が玉のように吹き出し、苦しそうに表情を歪めている。

 傍でその様子を見守るついりは、複雑な思いだった。

 ついりは「彼女」の指示に従って行動し、その筋書き通りにナツキを眠りに落とした。

 それが「彼女」との約束だったからだ。ついりの支払うべき報酬は、眠るナツキをこの場所で「彼女」に引き渡すこと。

 けれど、ナツキと知り合って話を重ねるうちに、ついりには迷いが生じていた。

 この子が、何をしたというのだろう。

 本当にナツキは「彼女」が言うような人物なのだろうか。


「その子はね、私の大切なものを持ち去ってしまったの。それを返してもらいたいのよ。協力してくれるよね、柄井ついり」

 夢の中で「彼女」はそう言った。

 あの日、まどろんだ意識の中で、ついりは「彼女」と出会った。その姿は、もやもやと漂う灰色の雲のようだった。

 その雲の一部は常に形を変え続けていて、人の手のようになったり、唇のようにもなったりして、口々についりに話しかけた。

「可哀想な柄井ついり、あなたは何も悪くないのに」

「ずっと練習を頑張ってきたのに」

「それなのに、あいつらときたら」

「自分たちは恵まれているからって、なんて嫌な人間たちだこと」

「ねぇ、少しだけ懲らしめてやりましょう」

「少しだけ、眠らせてあげましょう」

「私が手を貸せば、簡単なこと」

「柄井ついり、私があなたの望みを叶えてあげる」

「だからお願い」

「私にも力を貸して」

「私は、そちらの世界に行けないの」

「難しいことではないわ」

「あなたはただ一言」

「契約する、とだけ言えばいい」

 その灰色のもやは、いつのまにかついりの周囲をぐるりと取り囲んでいた。

 ついりは、あの音楽室に現れた同級生達の顔を思い浮かべた。見下しきったあの嘲笑。蔑んだあの冷笑。憎い。憎い。憎い。

 腹の中に抱えていたどす黒い感情が溢れ出してくる。あの時、自分は何も言うことができなかった。たった一言さえも。

 ほんの少し、懲らしめるだけだ。

 少しでも、楽器を吹けない辛さを味わってもらうだけ。

 ついりは、小さく頷いた。

「わかるよ」

「あなたの気持ち」

「だから、言うのよ」

「さあ、声に出して」

 灰色の靄が口々に喋りかけてくる。子供の声に若い女性の声。男性の声や、シワがれた老人の声。その沢山の声に促されるようにして、ついりはその言葉を口にした。

「契約、する……」

 誰かの笑う声が聞こえたような気がした。

 突如、目の前に広がっていた靄が、渦巻きながら一箇所に集約されていった。

 集まった靄は、人間のシルエットのような形に象られていた。

 その腕の部分がついりに体に触れる。すると、灰色の靄が、途端に色彩を持った。目の前には、ついりと似た背格好の少女がいた。少女は、口角をニンマリと吊り上げて笑っていた。

「契約、成立だね」

 夢の終わりに、「彼女」はそう言った。

 目が覚めた時、ついりは何故か、次に自分がどうするべきなのかを既に知っていた。

 次の日の放課後、駅のコインロッカーに向かい、誰かの手でそこに運ばれていた香と香皿を取り出した。

 部活動を辞める報告をした時に、顧問の山賀に最もらしいことをいって、その香を部員に配ってもらえるように取り計らった。

 その後の演奏会の時には、部員の主要なメンバーが眠りに陥ってしまっていて、高校の吹奏楽部は満足に演奏できる状態ではなかった。下手な演奏を聴いてついりはケラケラと笑った。

 ざまあみろ。ざまあみろ。

 私を追い出すから、こうなるんだ。

 ついりは夢の中で、幾度となく「彼女」とコンタクトを取った。

 「彼女」は、ついりの悲しみや苦しみに深く共感を示し、その度に道を指し示した。

 部活を辞めたことで母親と喧嘩をした時には、香を使って、二度と口うるさく出来ないようにした。

 部に戻るよう、しつこくついりに話しかけてきた吹奏楽部員も「彼女」にお願いして、あちら側に連れて行ってもらった。

 「彼女」の言う通りにすれば気分が良かった。甘く痺れるような快感が背筋を走った。夢の中で自分の悩みを「彼女」に話すたびに、心の深いところでより強く結びついていくような気がした。

 夢の中で対峙する時の「彼女」の姿は、徐々についりに近づいていた。背格好だけではない。服装も、声も、顔も。

「私たち、深く繋がっているね」

 「彼女」はそう言った。ついりもそう感じた。だから、こうして竜堂ナツキを拉致することにも何の疑問を抱かなかった。

 そのはずなのに。

 ベッドの上にいるナツキが、うなされている。その手足が動き、着衣が乱れる。黒い膝丈のスカートから、ナツキの白い太ももがあらわになる。

 ついりは恥ずかしさから思わず目を逸らそうとしたが、そこにある奇妙な輝きに気がついた。

 ナツキの内腿が、鱗のような物質にびっしりと覆われている。

 それは透明で丸く、虹色の光を放っていた。肌の表面に付着している、というよりはそこから生えているようだ。

 ふと、芳醇な香りがついりの鼻腔をつく。あの香とはまた異なる、濃厚な甘い香り。

 ついりは誘われるように、ナツキの内腿を覆った鱗に触れた。それは存外に生暖かく、表面はつるりと滑らかだった。

 それは古来から「月鱗」と呼ばれていた。

 特殊な家系の血筋に生まれ、その中でも限られたものにだけ発現するもにだった。形状は爬虫類の持つ鱗によく似ていたが、一枚が梅の実ほどに大きく育った。

 家系の一族をして「苗床」と称される人物の下半身、特に鼠蹊部から内腿にかけて、それは発現した。

 「月鱗」には、特殊な薬効があった。

 それは人を惑わし、また狂わせるものだった。特に精を漲らせ、魅了する効果については絶大と言われた。「月鱗」を煎じた薬は、他に並び立つ薬餌なし、と時の権力者に褒めそやされるほどであった。

 当然、ついりは「月鱗」の事などつゆと知らない。

 甘い香りに誘われて、ナツキの内腿にその顔をゆっくりと近づけていった。白い太腿をびっしりと覆った「月鱗」は、鏡面のように光を反射して、覗き込んだついりの顔を写し出す。

 その瞬間、ついりの脳内に一陣の風が吹いた。長い間ずっと、頭の中を漂い続けていた灰色の靄が風に散らされていく。

 その靄は「彼女」がついりにかけた魅了であった。

 夢の中で契約の言葉を口にした時から、それは常についりの心の中に棲み、深層心理に働きかけていた。

 ついりが自らの行いに疑問を抱くことがないように。抱いた負の感情を増幅させ、より深く悲しみ、より強く怒るように。

 「月鱗」の幻惑と、「彼女」の支配。異なる二つの魅了がぶつかり、打ち消し合う事でついりの脳内はクリアになった。マイナスとマイナスが掛け合うとプラスになるように、深く根を張っていた「彼女」の支配から、ついりの心は一時的に解放されたのだ。

「あ、ああ、あああ……」

 頭を抱えて、膝から崩れ落ちる。

 ここ数ヶ月の記憶が、激流のようについりの中でフラッシュバックする。

 私は、何をした?

 同級生に、同じ部活の仲間に、両親に。

 取り返しのない、過ちを。

 目覚めることもなく眠り続ける級友、虚な目で幽鬼のように歩く母親、そして目の前でうなされて苦しんでいる竜堂ナツキ。

 なんということだ。どうして、私はこんな事を今まで平然とやってきたんだ。

 だめだ、起こさなきゃ。

 ついりは、必死にナツキの身体をゆする。

「ナツキさん、起きて! ねぇ、お願い!」

 肩を強く握り、大きな声で叫んでも、ナツキは目を覚ます様子はない。

 むしろ、より苦痛に顔を歪めるだけだ。

 ふと、廃屋に物音がした。

 ついりはあたりを見回す。

 薄暗闇の中に、男が立っていた。

 一人、二人……全部で四人。

 男達は皆、同じ表情をしていた。濁った眼、だらしなく開けたままの口。だらりとぶら下がった腕や傾いた頭が、まるで操り人形のようだ。

 そうだ、どうして今まで気にもしなかったのだろう。ついりの部屋から、眠ったナツキをこの廃屋まで運んだのはこの男たちだった。

 ついりと言葉を交わさず、目も合わすこともなく、男達はここまでナツキを運んだ。全ては初めに定められていたとおり。予め組んでおいたプログラムが走るように。

 彼らもまた、「彼女」の使いなのだ。

 今まで廃屋のどこかに潜んでいた幽鬼のような男たちが、ついりとナツキがいる方へ近付いてくる。

「やめて……近寄らないで!」

 ついりは、庇うようにしてナツキの前で震えながら手を広げた。

 唸るような声を発しながら、男たちはナツキへと腕を伸ばした。

 その中の一人が、しゃがれた声でこう呟くのをついりは聞いた。

「……そこに……あったのね」

 ついりは震え上がった。

 男が喋ったのではない。

 その口を借りて、夢の中にしか現れない筈の存在が言葉を発した。

「彼女」が、そこにいる。

 きっと、見つけたのだ。かつてナツキに持ち去られたと主張していた、その何かを。

「いやっ……いやぁ!」

 得体のしれないその存在への恐怖で、ついりは錯乱した。

 ナツキの身体にしがみつくようにして目を瞑り、身を強ばらせる。

 男たちの腕が伸びる。その影がナツキの身体に届く。

 瞬間。

 骨と骨がぶつかる鈍い音が、部屋の中に響き渡った。男の一人が、部屋の向こう側まで吹き飛んでいく。腐りかけた廃屋の壁が崩れて、大きな音を立てた。

 ついりは、おそるおそる瞼を開く。

 目の前には、男の広い背中があった。

 皺ひとつない、ライトグレーのスーツ。

 撫で付けた黒髪は少しだけ乱れている。

 そこに立って居たのは、竜堂秋人だった。

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