第32話「忍び寄る影」
アドラ大陸北端の港町、ダハリーネ。
アドラ大陸でも屈指の賑わいを持つこの港町は魔族が唯一人族相手に貿易をする町として知られており、そこら中に人族の姿を見かけることができる。
魔族と龍人族がその大半を統治し人族が排他される傾向にあるこのアドラ大陸では唯一人族と魔族が共存している街だ。
「はぁ~あ……」
そんな街の賑わう酒場で、一人の魔族の男が溜息をつく。その男は右のツノの半分から上がポッキリと折れているという特徴を持っていたが、治安の悪いこの街ではそんな魔族も少なくなく、ダハリーネにはよくいそうな男だった。
その溜息は大きいものだったが、全てのテーブルを客で埋め尽くすこの酒場では溜息の一つ、酔っ払いたちの大声の前にすぐに流されてしまう。
「どうしたんだクズル。多いな溜息なんかついて」
しかし、そんな溜息でも拾う者はいる。
クズルの正面に座るこれまた魔族の男が顔の大きさはあろう器の酒を傾けながら目の前の人物を心配する。
「ああ……リジャラか…」
クズルは正面に座る男―リジャラの姿を認めると、彼に倣うように酒を呷る。
心地よい匂いが鼻を抜け気分が高揚する気分を味わうが、それも一瞬。
クズルはこれから起きるであろう事態を再度思い出し再び溜息をつく。
「明日の事だよ…」
「まぁ……そりゃそうか」
リジャラはクズルが明日任じられた任務を思い出し、同情する。それと同時にもしかすると今こうして溜息をついているのは自分だったのかもしれないと考えると顔を青くする。
「まぁ…元気出せよ」
「簡単に言うなよな………」
無責任な慰めに腹を立てるクズルであったが、その睨みはすぐに勢いを失う。
リジャラは目の前の男をなんとか元気づけようと考える。
両者はセシア大陸からこのアドラ大陸への船中で会った仲で長い付き合いという訳ではないが、だからといって放っておいていいと考えるほど薄情な男ではなかった。
「そうだ、こんな話を聞いたか?」
「なんだよ…?」
「船にオイリューって奴がいたろ?」
クズルはオイリューという人物に覚えがあった。
リジャラの言う通り船中で会った魔族であり、備蓄の飯をつまみぐいしたり船酔いをしている者の前で走り回ったりと、他人の堪忍袋をぶち破ることに定評のある人物だ。しかし、決して悪人という訳では無く他人を明るくさせたり笑わせたり、退屈な船旅を少し愉快なものにしてくれた人物であると記憶している。
「ああ、いたな」
「あいつ、実はこの大陸の生まれらしくてな…」
もしこの会話をこの酒場の誰かが耳に拾っていたら、誰が言っているんだ?と思うだろう。
何故ならほとんどの魔族はアドラ大陸の生まれで、魔族が排斥されているセシア大陸やそもそも住んでいる魔族がいないと言われているミカ大陸で生を受ける魔族なんていないからだ。
しかし、クズルもリジャラもその会話に疑問を持たない。
「へぇ、そうだったのか」
「ああ。それであいつ、こっちに着いてから少し調子がおかしいだろ?」
「そうなのか?俺は船から降りてからあいつを見かけてないな」
クズルの記憶では、オイリューは船がこの港町に着くや否や我先にと舟を降りたはずだ。急ぎの用事でもあったのかとその時は思ったが、そういえばそれからオイリューの姿を見ていない。
「なんかおかしかったんだよ。あのひょうきん者が落ち込んでるというか暗くなってるというか…それで話を聞いてみたんだ」
「ほうほう」
クズルは酒を呷りながらリジャラの話を聞く。
その頭には先ほどまで落ち込んでいた理由などもう抜け落ちていた。
「んでな、あいつ生まれがイジャノ村っていう村なんだがその村が――」
「何をしている」
リジャラがクズルの気分を紛らわせるためのとっておきの話を終わらせようとした瞬間、彼らの横から水を差される。
両者はその声の主を睨みつける。話の良い所で遮りやってという次第だ。
しかし、その人物を視界に入れた瞬間、二人とも勢いよく立ち上がった。
「スールー隊長殿!」
立ち上がった勢いで二つの椅子がガタガタっと倒れる。その瞬間他の客たちの視線はそこに吸い付かれるが、その一瞬後にはくだらない世間話を再開する。
ここダハリーネでは、船の水夫や商人の下っ端が門限を破って酒場に入り浸ることは日常茶飯事であり、彼らの上司が酒場に突入して無理矢理帰らせるのもまた、日常茶飯事であったからだ。
「もう消灯時間だ。早く戻れ」
「はっ!申し訳ございません!」
しかし、その光景はいつもと違った。
いつもなら水夫たちはあと一杯だけと泣きつき、それを許さぬ先輩水兵の暴力で無理矢理帰らされるのだ。
だがこの魔族の二人はまるで兵士のように振舞っていた。
(ちっ……この顔のせいで思い出しちまった…)
クズルは敬礼をしながらも、内心で悪態をつく。
何故なら目の前の人族―スールーにより彼の悩みの種である任務が命じられたのだ。
「特にクズルよ。貴様は明日重大な任務を任じられている身。…貴様、この私を軽んじているのか?」
「い、いえ!」
スールーの歴戦の戦士の眼差しに、全身を刺されたかのような感覚を覚えるクズルはこれ以上ないくらい背筋を伸ばし返事をする。
「魔物風情が……調子に乗るなよ」
凍てついた声。しかしその声に酒場の魔族の客は鋭く反応する。
本来人族は魔族を嫌う。それは人族の間で多く信仰されるリスラ教の教えによるものだ。
しかしこのダハリーネは人族と魔族が唯一合法的に貿易を行える貿易港。両方の種族にとって有益なこの街で、互いを種族を原因に罵倒することはご法度だ。
「両者駆け足で宿に戻れ。私語を禁ずる」
「い、いえしかし…」
「何か?」
「りょ、了解!」
眼差し一つでクズルとリジャラを走らせたスールーは、客の視線を一身に集めながら魔族の店主に小さな袋を投げつけた。
「それで足りるだろう」
店主が投げつけられた袋を開けると、アドラ大陸で使われる銀貨と銅貨が数枚ずつ入れられていた。
それが勘定に合っていないことに気付いた店主は、金を投げつけられた怒りを覚えながらスールーを呼び止めようとする。
しかし、彼の姿はどこにも見えない。こちらの反応を待たず出て行ってしまったのだ。
「ちっ……」
袋の中の金が勘定を大きく上回る額であったことが店主のプライドを軽んじられたような気がして、彼は忌々し気にスールーがいた場所を睨みつけた。
―――
「暇だ………」
ある日の昼下がり、俺は自室で欠伸を噛み殺す。こんな時間に昼寝しようものなら朝起きられないからな。
俺は湧き出る眠気を抑えるために何かないかと部屋を見渡すが、誰もいない。
クリスが忙しいのは最近ずっとそうなので彼女がいないことに疑問を持つことは無い。しかし、今日は俺の専属メイド、メリセントすらいなかった。
今日は彼女もクリスと一緒にエルガーの政務の手伝いをしているらしい。
何故メリセントが?と思ったが、どうやら彼女は俺の専属メイドになる前は主にエルガーの世話を見るメイドだったらしく、その一端として彼女も政務の手伝いをしていたようだ。俺の専属メイドになるにあたってそれを他のメイドに引き継いだようだが、どうしても彼女にしか出来ない仕事があったようで今日は一時的にエルガーの手伝いをすると言って行ってしまった。
窓から降り注ぐ穏やかな日光が俺を眠りへと誘う。
…駄目だ。本当に寝てしまいそうだ。
クリスもメリセントもいない。今日はリーナと遊ぶ日でもないし、サリヤは最近忙しそうにしていて一週間見ていない。
この世界に来てからここまで独りぼっちになる日は無かった気がする。どうしたもんか…。もう思い切って夕飯まで昼寝してしまおうかな……。
夜に寝れない心配から目を背けつつベッドで横になろうとすると。
『坊ちゃん。今いいですか?』
扉のノックとともにそんな声が聞こえる。リーサのものだ。
ちょうどいい、今日は彼女たちと時間を潰そう。
俺はそう思って扉の向こうへ返事をする。
「どうぞ~」
『失礼しますね』
俺が許可を出すと扉が開き、リーサとリーセが姿を見せる。
二人ともなんだか嬉しそうな表情をしていた。
「なにかいいことでもありました?」
「それがですね~~最近エルガー様のお仕事の手伝いを頑張ったご褒美に、休暇を頂いたんです!」
「頑張った甲斐がありました~」
なるほど、労働から解放された喜びの表情だったのか。
しかし考えてみれば彼女たちを見ない日は無い気がする…。もしかしてこの城、メイドの休日がないめちゃブラック会社じゃないだろうな。
「坊ちゃん、お暇だったらご一緒にお出かけしませんか?」
「お出かけですか?」
「はい!馬に乗って少しの森で絶景が楽しめると、今侍女の間で話題なんですよ!」
「はぁ、絶景…」
前世の俺はあまり観光とかしないタイプだった。会社の同僚と旅行に行った際も、綺麗な景色より美味い飯を楽しみにしていたくらいだ。花より団子ってやつだな。
だからリーサの言う絶景とやらにあまり心惹かれる魅力は感じなかったが、最近は目の前の双子と接する機会はめっきり減っていた。
「ええ、是非行きましょう」
「やったぁ!ちゃんとお茶会の準備もしてありますので、早速向かいましょう!」
「あれ、でも親衛隊の皆に声を掛けなくてもいいですかね?」
俺は最近の出来事で学んだ。俺に被害が及ぶとエルガーは叱るしクリスは悲しむ。
そのため、俺が出かけるとなると親衛隊に護衛を頼まなければいけない。
少し前の俺なら自分のためにわざわざ護衛を用意するなんて権力者の我儘のように感じていただろう。しかし、これが上に立つ者としての義務なのだと理解した。
「今回は大丈夫です。ほんとにすぐそこですし、魔物の目撃情報も無かったので」
「はぁ…そうですか?」
俺のせっかくの申し出だったが、普通に断られてしまった。
まぁ、そっちの方が気楽だしいいか。
「それでは行きましょうか」
「はい!そう言ってもらえると思って、こっちも準備万端です!」
リーセの嬉しそうな声を聞きながら、俺は扉を開ける。
「うおっ」
「あっ」
扉を開けた瞬間、執事服が視界いっぱいに移る。
「こ、これは申し訳ありません殿下」
その執事服は一歩後ろに下がると頭を下げる。どうやら執事の人だったようだ。
「いえ大丈夫ですよ」
「もう、気を付けてくださいね~」
リーサの言葉に再び申し訳ございませんと言葉を返した彼はそそくさと立ち去っていく。
見たことのない執事だったが、特に珍しいことも無い。メイドさんとは接点の多い俺だったが、執事さんとはあまり話す機会がない。そのため彼ら全員を把握している訳では無かった。
「今の執事、新しい人ですかね?」
「見たこと無いね~」
が、メイドとして働くリーサとリーセもどうやら彼には面識が無かったらしい。
「執事さんいっぱいいますし、覚えてないだけじゃないですか?」
「いやぁ~ツノが折れている人なんて珍しいですし、見たら一発で覚えると思いますけどね~」
「ツノが?」
俺は振り返る。するとちょうど先ほどの執事が廊下の角を曲がるところだった。
「確かに、右のツノ折れてますね」
「珍しいですよね~」
ちなみにツノはあまり感覚は無いが、折れるとその瞬間はとてつもなく痛いらしい。爪のようなものか?
「まぁそれはともかく行きましょう!」
「そうですね。絶景も早く見たいですし~」
執事にあまり関心が無いのだろうか、二人は俺を背中から押しせかす。
「わ、わかりましたよ!」
まぁともかく、この二人と久しぶりにじっくり話せるんだ。是非楽しいものにしないとな。
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