第10話 急流

 ゴンドラのスピードは、次第に速まってきた。波も荒々しくなり、小舟はぎしぎしと揺れる。

 周囲の建物や路地はいつしか消えてなくなり、青い円形の壁が立ちはだかっていた。

 ハルはそっと片手を開く。別れ際にフユが握らせたもの――青いブローチ。彼女は改めてそれをつよく握りしめ、来る急流に身構える。

 ゴンドラを乗せた水の流れは、円の中心に向かって、渦を巻き始めた。

 ハルは振り落とされないように座席へしがみつきながら、どこか冷静に周りを眺める。

 この青い壁に見覚えがある。深く澄んだコバルトブルー。

 記憶の底で、ライオンの言葉がよみがえった。

『君は今どこにいる?』

 ゴンドラは渦の中心に向かって、大きく回転し始めた。

 視界の隅に、赤色、黄色、水色がちらつく。

 カーニバルのドレス。

 舟の回転がさらに早まり、視覚がきかなくなる。

 ちらちらと何かが水面に反射している。

 ハルの脳裏を一本の街灯がよぎった。

 暗闇に呑まれた家を照らす街灯。

 どこかでそれが光っているのだ。

『君は今どこにいる?』

 ライオンの声。

 ハルは言う。

「私は今、ベネチアングラスの中にいるのね」

 コバルトブルー。

 円形の壁。

 やがて舟は転覆し、ハルは深い深い水中へと沈んでいく。

 底は明るく光っている。青と白のグラデーション。

 フユの声がする。

『あなたは私の太陽――』

 光がまぶしさを増し、ハルは耐え切れず目を閉じる。

『――私はあなたの海』

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