第9話 再会

 ゴンドラは、路地の前で止まっていた。先ほど、静かなカーニバルが行われていた路地だ。カーニバルは終わったのか、路地の先に人々の姿もない。

 どこかにつながれているのか、ゴンドラが動き出す様子はない。マルコの姿もなく、ハルは一人で置き去りになっている。

 また路地へ入るべきだろうか。ライオンのいる扉は、まだその先にあるのだろうか。

 逡巡していると、路地の先から足音が聞こえた。

 じっと見ていると、黒のワンピースに、紺の帽子をかぶった女性が歩いてくる。

 ハルは、すでにそれが誰なのか分かっていた。

「お姉ちゃん」

 呼びかけたときには、女性はゴンドラのすぐ近くまでやって来ていた。そのまま、ゴンドラに乗りこみ、腰を下ろす。ゴンドラは静かに揺れた。

「久しぶりね、ハル」

 フユは言った。

 ハルは何を話せばいいのか分からなかった。フユを探しに再びベネチアへやって来たこと、母がつらい思いをしていたこと、今までどうしていたのか知りたいこと。

 十年ぶりに会うフユは、大人びていた。背格好も、たたずまいも、面影は残っているが、以前とは違う。

「心配をかけてしまってごめんなさい。ライオンには会ったかしら?」

 ハルがうなずくと、フユは「よかった」と言って笑った。

「お母さんはどう? もう十年も経ってしまったものね」

 母の話題が出たのを皮切りに、ハルの口からこの十年間がほとばしった。フユがいなくなってからの母の様子、自分の思い、堰を切ったようにあふれ出て止まらなかった。

 フユは優しい顔で受け止めた。初めからすべて分かっていたような、悟ったような表情。

 ハルの言葉が出尽くした後、フユはゆっくりとうなずいた。

「わざわざここまで来てくれてありがとう。あなたまでこちら側に引き込まれなくてよかったわ。マルコのおかげね」

 ささやくような声音。話しつかれたハルは、半ばぼんやりとしながらその声を聞く。

「説明が難しいのだけれど、この島はとても微妙なバランスの上に成り立っているの。光と闇、朝と夜、表側と裏側のような、相反するもの。私たちが十年前に来たときは、ちょうどその境界が崩れてしまっていて、誰かが二つの間を取り持つ必要があった。結局、私はそれに選ばれてしまったのね」

「バランス?」

 フユはうなずき、ハルの頭を撫でる。ハルは、一つの可能性に思い至った。

「大型船の事故? それが原因で、バランスが崩れたってこと?」

「そう。あの事故で、この島はかつてなくぐらついた。カーニバルを見たでしょう? あれは、あの船に乗っていた人たちよ」

 ハルには、フユが言っていることがよく分からない。分かるのは、彼女の姉が失踪したのは、島の込み入った事情に巻き込まれたからだ、ということだけ。

「そろそろ、あなたは帰るべきね。こちら側には、あまり長くいない方がいい」

 唐突にフユが別れを告げた。ハルは驚いて食い下がろうとするが、優しく、しかしきっぱりと諭される。

「大丈夫、あなたがここへ来てくれたら、いつでもまた会える。今回と同じように、マルコが迎えに行くわ。カーニバルを抜けて、ライオンのところを訪ねるだけ。次は、お母さんも連れていらっしゃい」

 彼女は立ち上がり、ハルの手に何かを握らせる。そのまま、ふわりと浮かぶようにゴンドラから路地へ降り立った。胸元で、何かが赤く光る。赤いブローチ。

「あなたは私の太陽。私はあなたの海」

 つぶやくフユの姿が遠ざかっていく。ゴンドラが動き出したのだ。

 ハルは最後に一度、姉の名を呼んだ。

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