第2話 姉の思い出

 十年前、ハルとその姉は、母に連れられてベネチアへやって来た。ハルは十歳、姉のフユは十六歳だった。

 少なくとも名目上は、観光ではなかった。フリーのライターをしていた母が、とある旅行雑誌で、ベネチアの特集を担当することになったのだ。

 滞在は二日間を予定しており、スケジュールは過密だった。母が取材に駆けずり回っている間、現地ガイドのロレンツォという男性が、姉妹の面倒を見ることになっていた。

 母には、大学時代に二年ほどイタリアに留学していた経験があった。ロレンツォともその折に知り合い、ずっと懇意にしていたため、今回取材に姉妹を同伴するという決断ができたのだ。

 ベネチアにたどり着いたその日は、時差ボケと船酔いで姉妹ともどもダウンし、ホテルでずっと休んでいた。しかし翌日になると、二人とも元気を取り戻し、どこかに連れて行ってとロレンツォに頼み込んだ。

 彼は困ったように笑い、姉妹に「ゴンドラに乗ってみないか」と提案した。今思えば、ベネチアのゴンドラ遊覧は、決して安いものではない。少なくとも、母からロレンツォに支払われる謝礼程度では収まらなかったはずだ。

 しかし、ロレンツォも、彼女たちに何か思い出を残してあげたいと、腹をくくったに違いない。

 姉妹ははしゃぎながら、ロレンツォと共に三人でゴンドラに乗り込んだ。

 白黒のボーダーシャツを着た船頭は、ゆっくりとゴンドラを進めた。そこから眺める景色は、海に半分沈んだ街を進んでいるようで、幻想的な気分だった。

「あ、猫がいる」

 フユが路地を指さして声を上げた。見ると、二匹の子猫がこちらを見ている。ロレンツォが「かわいいね」と相槌を打ち、船頭も口笛を吹いた。

 橋をくぐり、大きな運河に出ると、水上に宮殿や広場が広がっている。遠目には、大きなクルーズ船も見えた。

 ゴンドラ遊覧も終盤に差し掛かった時だった。フユが一本の細い路地を指さした。

「あれ、何?」

 怪訝そうに眉をひそめている。ハルとロレンツォも彼女の肩越しに覗き込んだ。

「何も見えないよ」

 それはただの路地だった。緩やかにカーブしていて、先は見えない。ベネチアは、もともと小路と運河が迷路のように入り組んでいる土地だ。

「私、ちょっと行ってくる」

 言うが早いか、フユはゴンドラから路地へと飛び移り、一目散に走って行ってしまった。ロレンツォと船頭がイタリア語で何か叫んだけれど、声は届かない。

 ハルは驚いていた。フユはどちらかというと物静かで、大人を困らせるようなことはしない子だった。あれほど身軽に飛んだり跳ねたりしているのも見たことがない。むしろ、ハルの方が活発すぎて、よく怒られていた。

 ロレンツォと船頭は何やら話し合いながら、船を先へと進めた。乗り場がすぐだったこともあり、降りて追いかけるよりも、一度終点まで向かってから回り込んだ方がよいと判断したのだろう。

 結論から言えば、フユは見つからなかった。

 ロレンツォとハルが方々を走り回り、ゴンドラの船頭たちや近隣の人々も巻き込んで捜索した。じきに母も駆けつけ、警察も出動したが、彼女の痕跡すらつかむことはできなかった。

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